十五 八洲の地図
アカルは朝早く、
依利比古の宮は、大御殿と渡殿で繋がった左の高宮だ。
大御殿は主に公的な会合に使われるが、依利比古が居所として使う高宮は、小ぢんまりとした、多くの木簡が収められた書庫のような所だった。
その高宮に呼ばれて、アカルはもう半時ほども座り続けている。そこへ座れと言ったくせに、依利比古は忙しそうに木簡に目を通している。
「ねぇ、何の用なの?」
待ちくたびれて問いかけると、素っ気ない答えが返ってきた。
「私が必要なのは、きみの纏っているその光だけだ。黙って座っていろ」
今日の依利比古は、何故かとても苛立っている。いつもの余裕や、無駄に綺羅綺羅しい優雅さは影を潜めている。
「私の光に……何か効果があるの? まさか、魔除けとか?」
ふざけて訊き返したが、依利比古は答えなかった。
木簡を手繰る音しか聞こえない静かな室内で、アカルは月弓の姿を思い浮かべた。平宮までアカルを呼びに来た彼は、陽の光の下でも煙のような闇を依りつかせていた。
依利比古が何かに怯えてアカルを呼びつけたとしても、それは月弓ではないだろう。彼は今も依利比古の従者を続けているのだ。
「あんたの従者、気配がおかしいよね?」
黙っていられず、アカルは再び口を開いた。
「月弓のことか?」
依利比古は木簡から顔を上げ、初めてアカルと目を合わせた。
「
「ほぅ。それは気づかなかったな」
依利比古は再び木簡に目を落とし、アカルの言葉を軽く受け流す。
「それじゃ、何を警戒しているの?」
そう訊いても、依利比古は答えない。まるで何も聞こえていないように、完全にアカルを無視している。この様子では何を訊いても無駄だろう。
アカルは嘆息して、突き出し窓の外へ目を向けた。今日も天気が良い。冬の低い日差しが、宮の中に差し込んでいる。広場の向こうにある朱色の門が、日の光を浴びて輝いている。
今すぐあの門から外へ出たい。
胸の内に湧いてきた渇望を、アカルはすぐさま打ち消した。
(まだ駄目だ……もっと情報を集めないと)
この
(────もしも姫比に戻れたら、鷹弥に謝って、ちゃんと想いを伝えよう。例え一緒に岩の里へ帰れなくても、それだけは……)
鷹弥のことを想うたびに、胸の奥が苦しかった。叶うことなら、今すぐにでも会いに行き、思いの丈を打ち明けたい。遠く離れた場所で動けずにいることが、堪らなく辛かった。
涙が込み上げそうになった時、不意に、
新年のあずき粥を食べながら、
あの時は分からなかったその想いが、今の自分にはよくわかる。
(そうか、これが恋しい……か)
軽やかにも聞こえるその言葉は、本当はずっと苦しい想いだった。
ひとつ賢くなった気がして、思わず苦笑してしまう。
「────何を考えている?」
声をかけられてハッと顔を上げると、すぐ傍に依利比古が立っていた。
「別に……外へ出たいなと思ってただけ」
「それにしては、恋する娘のような顔をしていたよ」
横に座りながら、
アカルは思い切り顔をしかめた。
自分の心の中を、依利比古にだけは絶対に悟られたくはなかった。
「まあいい、少し休む。膝を借りるよ」
依利比古はゴロンと横になると、アカルの膝の上に頭を乗せた。
「ちょっ、やめてよ!
アカルは依利比古の頭を押しのけて、守るように膝を抱えた。
「あんたがどういうつもりで愛良姫を迎えたのかは知らないけど、見も知らない男に嫁ぐのは、大変な覚悟がいるんだぞ! 力の差がある他国なら尚更だ」
アカルに押しのけられた依利比古は、座ったままクスクスと笑っている。先ほどまでの苛立ちは、嘘のように影を潜めている。
「愛良も私も、覚悟はしているよ。一番大切なのは、この同盟をより堅固なものにすることだ。互いの絆を強める為には、御子が必要なこともわかっている。それについてはお互い努力しているよ。どうやら成果も見えたしね」
「え?」
アカルは目を瞬いた。
依利比古の言葉を計りかねていると、彼は信じられないことをさらりと告げた。
「愛良は懐妊した筈だ。腹に、魂が宿ったのが視えた」
「魂が、視えるのか?」
「たぶん、間違いない」
「へぇ……凄いなぁ!」
魂が宿るところを見られたら、どんな気持ちになるのだろう。
アカルはほんの少し、依利比古の力が羨ましかった。
「きみは、神々と対話することしか考えてないだろ? その力を人に向けてみればわかるさ」
「人に?」
依利比古の言葉はよくわからなかった。力を人に向けるとは、どういうことだろう。そもそも神に力を向けていたという自覚もなかった。
「子を成すという役目も果たせたことだし、私は近々、
依利比古がいきなり話題を変えたので、アカルは首を傾げた。
「アララギって……遠いの?」
「海を渡り、川を遡上するのは同じだが、
「ふぅん、地図とかないの?」
アカルが訊くと、依利比古はいきなり笑い出した。
「なるほど。きみは地図が見たいんだね。まぁいい。瀬戸内がどれほど遠いか、知ることも必要だ」
アカルの意図などお見通しだと言外に告げてから、依利比古は棚から取り出した巻き布を床に広げた。
「ここが
巻き布に墨で描かれた地図の上を、依利比古の指が滑ってゆく。
筑紫島は思ったよりも大きな島で、金海に行く時に立ち寄った
不意に依利比古の指が筑紫から離れ、細長い多島海の先にある海岸線を指した。
「ここが姫比だ」
予想外の距離だった。
確か依利比古は、姫比国から都萬国まで十日ほどかかったと言っていたが、この地図を見れば、それも天候に恵まれた日数だったのだとわかる。
「……そうか」
相槌を打つだけで精一杯だった。
そんなアカルを、依利比古は探るように見つめる。
「私は、春になったら、姫比へ行くつもりだ」
「え?」
「
あの男とは、鷹弥のことだ。アカルの気持ちを知った上で、わざと意地悪な事を言っている。
「冗談でもやめて!」
表情を硬くしたままアカルが撥ねつけると、依利比古は愉快そうに目を細めながら、アカルの手に地図を乗せた。
「好きなだけ見ていいよ。私はその間、休ませてもらう」
そう言って、そのまま横になる。
せっかく地図が手に入ったというのに、もう一度地図を見る勇気がない。
陸続きならばともかく、姫比へ戻るには海を渡らねばならない。わかっていた筈なのに、今のアカルには絶望的な距離に思えた。
突き出し窓の向こうは、いつの間にか日が陰っていた。風が強さを増したのか、薄い雲が次から次へと流れてゆく。日が差したり、陰ったりする空をしばらく眺めてから、アカルは再び地図の上に視線を落とした。
墨で描かれた海岸線にゆっくりと指を置く。そこから北へ向かって指を滑らせてゆくと、胸形の里で指を止めた。
(可能性があるのは、ここしかない)
心の中で目的地を定める。一番重要なのは脱出の時期だ。
阿良々木の里は、ここよりもずっと北にある。川に入る前に逃げ出せば、ここから逃げるよりも北へかなり進める。問題は、どれくらい自由があるかわからない事だ。
安波岐の宮なら、女官と一緒であれば多少は動ける。けれど、阿良々木へ向かう船の中ではどうだろう。夜に船を下りて、泊まる場所はどこだろう。西都からここへ来る時は一日の距離だったから、寄港地の様子はわからない。
(どちらが確実だろう)
アカルは迷った。
確実に自由がある安波岐の宮で逃げ出すか、北への距離が稼げる阿良々木行きの途中で逃げ出すか。それを、依利比古が阿良々木の里へ向かう前までに、決めねばならない。
己の運命を左右する選択が迫っていた。
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