十四 光と闇


 一刻も早く、ここから逃げなくては。


 月弓つきゆみの体に纏わりつく闇を見てから、火で焙られるような焦燥感が、ずっと胸にある。この国に長く居てはいけない────あの時、十世に会いたいなどと言わずに、さっさと逃げ出していれば良かった。

 アカルの心に浮かぶのは、後悔の想いばかりだ。

 安波岐あわきの宮に来てから、小さな平宮で目の細い女官と顔を突き合わせているだけで、自由に外へ出られない。


「ねぇ、ずっとここに居なきゃいけないの?」

「そうじゃ。依利比古いりひこさまからお沙汰があるまでは、ここに居てもらう」


 依利比古に忠実な女官は、相変わらず素っ気ない。彼女と話していても、具体的な脱出方法は何も見えてこない。少しでもいいから、自分の目で外の様子を探りたい。


「座ってばかりいると体がおかしくなるよ。少しくらい外へ出てもいいよね?」

「虜囚の分際で何を言う……まぁ、動きたいのならかわやへでも行けばよい。付きおうてやる」


 女官はアカルの希望を一刀両断したが、それでも、わずかな譲歩を見せてくれた。


「じゃあ、かわやへ行くよ」


 安波岐あわきの宮に入ったのは夕刻だったから、明るい時間に外へ出るのは初めてだった。陽の光に、一瞬目が眩む。


 厠があるのは宮の最奥だ。高床の建物の裏側、宮を囲む板塀に寄り掛かるように建つ、細長い小屋がそうだ。簡素な造りではあるが、仕切りもある。仕切りの中は、用を足す為に一列だけ床板がなく、誤って足を踏み外せば落ちてしまいそうだった。

 昨夜は暗くて気づかなかったが、用を足すための細長い穴の下は、人の背丈ほどある深い溝になっていて、底には小さな川が流れていた。流れる水に陽の光がきらきらと反射している。


(かなり高い……けど、下りられないことはないな)


 安波岐の宮は、海にも大きな川にも近い。この小川の流れに沿って行けば、海に出るに間違いない。

 鼓動が早鐘を打ち始めた。脱出方法を見出した希望に、胸が高鳴ってくる。


(どうする、逃げるか?)


 胸に手を当てて、アカルは自問した。

 この小川の先に見張りがいても、見つかった瞬間に泡間あわいか結界に入れば姿を消せる。ほとぼりが冷めた頃に外へ出れば、逃げ出せない事はない。

 緊張で、耳の奥がガンガン鳴っている。いつの間にか息まで止めていたことに気がついて、アカルは震えながら深く息を吸った。


(海へ出て……それからどうする? 船を探すのか? 陸路をとるのか?)


 残念ながら、アカルの頭に筑紫の地図は入っていない。何処へ向かえば姫比きびへ戻れるのか、見当もつかない。


(今は駄目だ。もう少し準備がいる。焦るな……焦るな)


 深呼吸を繰り返し、アカルは息を整えた。

 何事もなかった顔をして厠を出ると、変わらぬ顔で女官が待っていた。



 〇     〇



 暗い────真っ暗な空間に、依利比古はたった一人で立っていた。

 怖くて、寂しくて、暗い場所から必死に外へ出て行くと、地下へ続くきざはしに、ポツリポツリと灯りが見えた。まるで道案内のように置かれたその灯りに、依利比古は惹かれるように地下へと下りて行く。


 足音を立てないように、そっと下りた。大丈夫、誰にも見つからない。そう思ったのに、階の一番下まで降りると、怖い顔の老婆が目の前に立ちはだかった。


「こら彌真木みまきっ! ここへ来てはいけないと何度言ったらわかる!」


「でも……母さまを探しているんだ」

 己の声が弱々しく響く。まだ童だった頃の自分の声だ。


「今は儀式の最中じゃ。大人しく地上へ戻れ!」


 老婆の手が依利比古を捕まえようと伸びてきたので、サッと身を翻して駆け出した。

 闇に浮かぶ灯りの列を辿ってゆくと、バサッと分厚い布が顔にぶつかった。その布を手で避けてそのまま進むと、さっきまで列をなしていた灯りは、円を描くような形に配置され、その円の中心に母が横たわっていた。

 一糸纏わぬ母の上に、男が覆いかぶさっている。後ろ姿だけしか見えないその男は、灯りのせいか黒い影と化している。

 恐ろしくて声を張り上げようとした時、後ろから口を塞がれた。


「あの男には、いま神が降臨されておる。大切な儀式なのだ。邪魔をしてはいかん」


 耳元で老婆の声がした。

 否応なしに地上へ連れ出され、宮の外に放り出された。

 ささくれ立った気持ちのまま庭の池を覗き込むと、月明かりに照らされた水面に、幼い自分の姿が映っていた。


 ────そうか、これは夢なのだ。ここは在りし日の日輪殿にちりんでんだ。幼い頃、ここで過ごした頃の記憶を、自分は夢に見ているのだ。

 納得すると同時に、依利比古は戦慄した。

 この後、巫女は神と契るのだと、あの老婆から教えられる。巫女の母と、父のいない自分。その意味を知った日の、忌まわしい記憶だ。

 あの時の吐き気が蘇ってきて、依利比古は座り込んだ。幼い自分の顔をじっと見つめる。


 水面に映る大きな月が、佐々波に揺らいでいる。

 空を仰ぎ見ると、銀色しろがねに輝いていた丸い月が、突然ぐにゃりと歪んで何者かの瞳に変わってゆく。


『どうした彌真木、己の正体に吐き気がするか?』


 銀の目玉が、話しかけてきた。


『そなたは神の御子だ。それでも己を厭うか?』


 月の光に目が眩み、頭の奥が痺れてくる。


『気に入らなければ消してしまえ。憑坐よりましとなった父も、そなたを生んだ母も殺してしまえば良い。薄汚い人の子など、この世から消してしまえ』


 いつの間にか空の月は消えてしまい、辺りは闇に包まれていた。

 わずかに見える池の水面に、人の姿をしたものが立っている。黒い衣や黒い髪は辺りの闇に溶け込んで、顔だけが宙に浮いているように見える。

 その銀色の瞳に、意識が吸い込まれそうになる。


『そなたは神の御子だ。その器の父であろうが、只人などに屈するべきではない。ずっとそう思っていたのだろう? あの馬鹿な兄もそうだ。そなたは何も間違っていない。己の好きなように振舞え。それを妨げる者は排除しろ。そなたには力がある。邪魔するもの全て殺してしまえ!』


 殺せ、殺せ、コロセ────呪いの声が木霊する。



「────だまれっ!」


 弾かれるように寝床から起き上がり、依利比古は目を覚ました。

 はぁはぁと肩で息をしながら辺りを見回すが、自分の宮に怪しい気配はない。


「また……この夢か」


 冬だと言うのに、ぐっしょりと汗をかいている。それなのに、指先は恐ろしく冷たくて、小刻みに震えている。震えを止めようとぎゅっと握りしめても、拳が震え続けている。

 あの魔物は、依利比古の心の奥底に燻り続ける、淡い殺意を見透かしていた。それが、何よりも一番恐ろしかった。


 拳をひろげて額の汗を拭い、そのまま額を押さえた。

 連日の悪夢のせいで、ずっしりと体が重い。疲れが体に纏わりつくようだ。

 思えば、都萬つま国に戻ってすぐ、西都さいとで父王と対峙し、この安波岐では妻を娶った。このところ気の休まらない日々が続いている。きっと疲れているのだ────そう思いたかった。


(もう、夜が明けたのか)


 突き出し窓の隙間から、わずかに外の光が差し込んでいる。


「────お目覚めですか?」


 声がして、御簾が揺らいだ。


「月弓か?」


「はい。昨夜も、奥宮にはお泊りにならなかったのですね。愛良あいらさまが、心配されるのではありませんか……どうか、なさいましたか?」


 月弓は、怪訝そうに依利比古の顔を覗き込んだ。

 しかし、彼の声は依利比古の耳に届いていなかった。額を押さえたまま、御簾で囲まれた部屋の片隅を見つめている。


 目の前にかざした指の隙間から、おかしなものが見えていた。夢の中で見た黒衣の魔物が、部屋の隅に浮かんでいる。あの銀色の瞳で依利比古をじっと見つめている。薄い唇は結んだままだったが、今も『コロセ』という魔物の声が聞こえる気がした。


(なぜ……ここに、あの魔物が)


 ここ数日、魔物の夢を見続けている。だが、起きている時に見たことはない。


「────依利比古さま?」


 月弓の声が聞こえた。

 振り返ると、心配そうな顔で自分を見る月弓の顔が見えた。

 何か答えなくては。そう思い、必死に魔物から意識を逸らした。


「……着替えは、自分でする。朱瑠を呼んでくれ」

「はい」


 月弓は丁寧にお辞儀をして、そっと依利比古の寝屋から退出してゆく。

 依利比古は息を吐いて、再び魔物と対峙した。



 宮の外へ出た途端、月弓の唇が弧を描いた。

 つい先ほどまで心配そうな表情を浮かべていたのに、今はただ満足そうに微笑んでいる。

「さて、依利比古はどうするか……」

 楽しくて仕方がないという様に喉の奥を鳴らすと、月弓はゆっくりと階を下りて行った。

  

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