十三 隼人の姫


 果てしなく続く砂の海岸に、小さな白波が立っている。

 船べりに座り込み海岸線を眺めていたアカルは、懐かしい風景をぼんやりと眺めた。初めて見る都萬国の海岸は、かつての故郷である西伯さいはく国の海岸線に少し似ていた。

 


 思えば、慌ただしい出立だった。

 奴婢ぬひの小屋から引きずり出された昨夜は、再び武輝たけてるの元へ連れて行かれるのではと警戒したが、小屋の外で待っていたのは依利比古いりひこ配下の武人と、目の細い女官だった。

 ホッとしたような複雑な気持ちのまま元居た平宮へ戻り、夜明けと共に西都さいとを立った。

 川を下り、東都とうとの港で船を乗り換え、今は右手に岸を見ながら南下している。


 依利比古はよほど急いでいるのか、いつもの優雅さを消し去り船を急がせていた。自分が治める安波岐あわきの地に早く戻りたいのだろう。


 アカルにとっても西都は嫌な事ばかりあった都だけれど、海を見ているうちに不思議と心は凪いでいった。


(……嫌なことは忘れよう)


 武輝のことも、十世のことも全部忘れよう。そう思ったけれど、十世とよの顔が浮かんだとたん、腹の底から怒りが湧いてきた。武輝に襲われそうになったのも、全部十世が仕組んだことだ。

 アカルは遠い陸地に目を向けた。西の山並みの裾を憎々しげに見据える。


(十世のやつ……今度会ったら、絶対に殴ってやる!)


 ささやかな復讐を誓ったアカルは、息を吐きながらゆっくりと空を見上げた。

 冬晴れの空はもう日が傾き始め、雲を金色に染めていた。


〇     〇


 安波岐あわきの宮は大きな川の近くにあった。

 川に沿って冬枯れ色の田畑が広がっている。春になれば、きっと瑞々しい緑に包まれるだろう。

 河口に近い川港に着くと、木の塀で囲まれた道があった。真っ直ぐ安波岐の宮の楼門に繋がっている。


 アカルは女官と共に、依利比古のすぐ後ろを歩いた。

 楼門の中には茅葺屋根の建物がたくさんあり、その一部は工房のようで、軒先で作業をする工人の姿が見えた。

 二つ目の門をくぐると、先ほどよりも大きな建物や高床の倉が建ち並んでいた。

 緩やかに上る道を更に歩くと、三つ目の大きな門が現れた。門の向こうには大屋根の高殿が建っていた。


「────お前はこちらじゃ」


 門をくぐった途端、女官に引っ張られた。

 依利比古たちは正面の大きな高殿へ入って行ったが、アカルは左手の建物に連れて行かれた。

 また座敷牢にでも入れられるのかと思ったが、西都に居た時と同じような、女官が控えの間として使う平宮だった。


(ここからなら、案外逃げ出せるかも知れないな)


 今までと変わらず、目の細い女官が見張り役だった。彼女一人が相手なら、いくらでも逃げる隙はありそうだ。

 やがて夕餉が運ばれてきた。女官の夕餉にしては豪華な食材が使われていて、アカルが驚いていると、目の細い女官が突然口を開いた。


「今宵、依利比古さまは祖於そお隼人の姫を娶られる」


「隼人の姫? へぇ、そうか、だから急いで帰って来たんだ!」


 アカルは納得してポンと手を打ったが、女官は変わらず無表情のままだ。


「そういう訳ではない。この婚姻は、祖於国を押さえておきたい武輝さまが、勝手にお膳立てしたものじゃ。しかし、これで依利比古さまは、御自分の味方を手に入れることができる」


「ふぅん」


 何故そんな話をするのだろう。アカルは首をひねりながら女官を見つめた。

 彼女はアカルを見張るのが仕事だ。それほど会話をした覚えもないが、いつも無表情で、考えていることが全く読めない。もちろん名前も知らない。虜囚であるアカルを相手にこんな話をするのは、一体どういう心持ちなのだろう。

 そういえば、一度だけ思いを共有したような瞬間はあった。

 兄王子に難癖をつけられている依利比古を、戸の隙間から二人で覗き見た時だ。あの時、僅かに憤りを見せた彼女からは、依利比古に対する敬愛の念を感じた。


「まぁ……私は都萬国の内情は知らないけどさ、その姫を娶れば、祖於隼人が依利比古さま側につくってことなの? 隼人の姫を大切に出来ればそうなるかもだけど……あの性格ではどうだかなぁ」


 依利比古の外面が良いことは知っているが、本性も知っている。あの、他人ひとを小馬鹿にしたような態度を改めないなら、いずれ隼人の姫にも嫌われてしまうだろう。


「無礼を申すでない! 依利比古さまの奥方になれるのだ、隼人に文句があるはずはなかろう!」


「あー、はいはい」


 アカルは、女官をなだめるように手を振った。

 彼女の依利比古に対する思いは、敬愛と言うより崇拝に近いようだ。


「その隼人の姫のことは良く知ってるの? どんな人?」


「安波岐の女官の話だと、名は愛良あいらといって、隼人らしい目の大きな姫だそうじゃ。気性は明るいと聞いている」


「へぇ、会ってみたいな」


 アカルがそう言うと、女官は一瞬固まって動かなくなった。


「お前……湯屋に、行きたくはないか?」

「へ?」


 何でいきなり湯屋の話が出てくるんだろう。首を傾げると、女官がアカルの方へ身を寄せてきた。


「湯屋へ行く道すがら、くだんの姫の姿を見られるやもしれぬ」

「ええっ?」


 あまりにも意外な提案に、アカルはプッと吹き出した。


「いや……あなたはもっと、頭の固い人かと思ってたよ。意外と好奇心旺盛な性質たちなんだね」


「私の性質などどうでも良い。行くのか、行かぬのか?」

「行くよ、行くっ!」


 慌てて粥を搔っ込んで、アカルは立ち上がった。




 外はもう真っ暗だったが、建物の周りには篝火がたくさん焚かれていた。警備の兵も多い。

 隼人の姫を見るために、女官が湯屋行きを提案したのは、湯屋へ行く途中で中庭の脇を通る為らしい。身分の高い女性が暮らす奥宮は、中央の高殿の裏側、中庭を渡った先にある。


「姫は奥宮の寝屋にて、依利比古さまをお待ちになる為、早めに宴を退出されるはずじゃ。広間から奥宮へ戻られる時に、あの渡殿を通る」


 女官が立ち止まった垣根の影からは、篝火に照らされた渡殿が良く見えた。

 しばらく待っていると、大勢の女官と共に鮮やかな朱色の衣を着た娘が、渡殿に現れた。


「あれがそうじゃ」

「ああ……」


 篝火が朱い炎を揺らす中、ゆっくりと小柄な姫が渡殿を歩いて行く。炎を纏ったようなその姿はとても美しかった。

 アカルは目を凝らして姫の表情を窺ったが、伏し目がちなその面からは、どんな感情も読み取ることは出来なかった。


「どんな気持ちなんだろうな?」


 祖於国と都萬国の関係は何となく察している。自国の民を奴婢として贈ることは、恭順を表す。祖於は都萬の属国ということだ。

 見も知らぬ男に嫁ぐのは、ただでさえ相当な覚悟がいるのに、相手が宗主国の王子となれば尚更だろう。


「相手は依利比古さまじゃぞ。嬉しいに決まっておる」

「……はぁ」


 女官の顔を見ながらため息をついた時だった。


「お前たち、そこで何をしている」


 背後から声を掛けられた。振り返ると、青白い顔が浮いていた。


(……こいつ)


 闇の中から姿を現した人影は、真っすぐな黒髪を垂らした若者だった。黒っぽい衣のせいで、顔だけが白く浮いていたが、今は篝火の明かりに赤く染まっている。

 女官は気づかぬようだったが、アカルの目には、若者に纏わりつく黒い霧のようなものが見えていた。


「湯屋へ行く途中じゃ……お前、月弓ではないか。もう体は良いのか?」

「障りはない」

「ならば、なぜ依利比古さまのお傍にいない?」


 女官の問いかけに、月弓は薄く笑った。


「私のような者が祝いの場に出ては、目出度さが半減してしまうだろう。湯屋へ行くなら早く行け。立ち止まるな」


「わかっておる。行くぞ」


 女官の手に押されて、アカルの体からこわばりが解けた。知らぬ間に、体が凍りついたように固まっていた。

 月弓から離れながら、アカルは震える体を抱きしめた。体が冷たくなっている。


「……今のは、依利比古さまの従者だったよね?」


「そうじゃ。月弓といって、まだ従者になって日が浅いのじゃが……何やら、病を得る前よりも、態度が大きくなった様じゃな」


 女官も、月弓の変化を感じ取ったようだ。

 月弓の体に纏わりついていた黒い霧。夜の闇の中でもはっきり見えたのは、それが光の明暗とは別の次元のものだからだ。

 姫比で会った時から、月弓の気配には嫌な暗さを感じていた。けれど、あのようなものを身に纏ってはいなかった。彼を前にした時、あまりの恐ろしさに総毛立った。それは、悪神に転化した熊神を前にした時のような戦慄だった。


 月弓はもはや人ではない。

 アカルは震えながら、そう確信していた。



  

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