十二 繭糸の檻


(お腹が空いたなぁ……)


 糸紡ぎの手を止めて、アカルは暗い天井を仰いだ。すすで黒くなったはりが、囲炉裏の僅かな明かりに照らされている。


 日暮れ前に配られた夕餉は、予想通り汁のような粥だけだった。空腹なのは皆同じはずなのに、隼人の女たちは文句も言わずに糸を紡ぎ続けている。


 外はもう日が落ちて、小屋の中は囲炉裏まわりの僅かな明かりしかない。糸を紡ぐ手元は良く見えないが、きっと指先の感覚だけで紡いでいるのだろう。

 アカルは糸籠の中を覗いてみた。自分の紡いだ糸はまだ籠の半分にも満たない。しかも、太い所と細い所が混在した恐ろしく出来の悪い糸だ。


(ひどいもんだな)

 情けなくて、小さく息を吐く。


 早朝から働きづめだったせいか、とても体が重かった。慣れない仕事は疲れるが、働くのは嫌じゃない。ただ、見張りの兵士たちの心無い言葉を浴びるうちに、おりのような疲れが溜まっていった。

 疲れと空腹のせいか、頭がぼんやりする。だんだんと、糸を紡ぐ手にも力が入らなくなった。


(……そういえば、岩の里でも、食べ物に困った冬があったな)


 ぼんやりと昔の事を思い出す。アカルが十歳になったばかりの、冬の事だ。


 夏の天候不順で作物が少ししか取れず、山の木の実も不作な年だった。

 冬に備えて出来る限りの貯えをしたけれど、冬が近づくと海が荒れる日が多くなり、魚も思うように捕れなかった。


 来る日も来る日もお腹が空いて、幼かったアカルでさえ、食べ物の事しか考えられなかった。

 里のみんなもやせ細って、久しぶりに生まれた赤子も、母親の乳が出なくて死んでしまった。

 あの年は、本当にたくさんの里人が亡くなった。みんな春まで生き延びられないのではと恐怖したが、海の神が鯨を浜に打ち上げてくれたお陰で、なんとか生き延びることが出来た。


(あの頃のトーイは、よく一人で山へ入っていた。私はただ待ってることしか出来なくて、心配で心配でたまらなかった……)


 里の狩人たちですら、獲物が捕れない日が続いていた。ろくに食べていないから、獲物を捕らえる力も弱くなっていたのだ。

 そんなある日、傷だらけになったトーイが、鹿を担いで帰って来た。あれはまだ、鯨が打ち上げられる随分前のことで、みんな毎日生きるか死ぬかの瀬戸際だった。

 トーイが狩ってきた鹿を前に、里人は大喜びだった。アカルもお腹が空いて死にそうだったのに、どうしてもみんなと一緒に喜ぶことが出来なかった。

 傷だらけのトーイから、目が離せなかったのだ。


 十五歳のトーイは、里の大人よりも背丈が大きかった。でも、大人たちに比べると体は細く、少年らしい脆さを残していた。

 その細い手足に、無数の傷があった。

 アカルはトーイに駆け寄って、大声で泣き出した。泣きながら食ってかかった。どうして一人で狩りに行ったんだ、死んだらどうするんだと泣き喚いた。

 里人の死が身近だったあの年は、大切な人が亡くなる恐怖をアカルに植え付けた。


(……トーイを失うのが、怖かった)


 あの時の事を思い出すだけで、今でも涙が出そうになる。

 トーイが里を出て行った時もそうだ。死ではなかったが、心に湧いた喪失感はそれと同じだった。


 岩の里で家族と呼べるのは、トーイだけだった。彼が居なくなれば、自分は独りぼっちになってしまう────かけがえのない家族だから、誰よりも失うのが怖いのだ────ずっとそう思っていた。でも、それだけじゃなかった。


(私は……鷹弥が、好きなんだ)


 武輝に襲われた時、はっきりとわかった。

 側にいて欲しいのは鷹弥だけだと、やっと気づいた。

 もっと早く気づいていれば、あんなに鷹弥を苦しめなくて済んだのに。


(私は、いつも、気がつくのが遅いんだ……)


 天井を見上げた目が、じわりと熱くなった。


「お姉ちゃん、手を止めちゃ駄目だよ」

 糸紡ぎを教えてくれた女の子が、アカルの膝をトントンと叩いた。


「ああ、ごめん」

 アカルは慌てて紡錘つむを転がし、糸を引いた。

「みんな偉いね。文句も言わずに、一生懸命仕事して」


 アカルがそう言うと、女の子は気まずそうな顔をした。


「だって……誰か一人でも、逃げたり、怠けたりしたら、全員飯抜きになるんだもん」

 小さな声と、泣きそうな顔でアカルに訴える。


「そうか、済まなかったね」

 アカルは心を引き締めて糸を紡いだ。


(そうだ、ここは牢屋だったな)


 格子の壁に囲まれている訳ではないが、戸には貫木かんのきが掛けられている。それは、ここに居る女たちの心にも掛かっていて、二重の檻になっている。


(酷いな)


 ギリっと唇を嚙んだ時、すぐ傍から声がした。


『この女たちは祖於そお国の民じゃ。祖於隼人の王から、都萬国の王に贈られた奴婢じゃ。助けようと思っても無駄なことじゃ』


 膝の上に、白山猫が乗っていた。昨晩見た時よりも、さらに小さくなっている。


(山猫の王……私は、別に)


『助けたい、と思っているのであろう? そなた自身も捕らわれの身ではないか。力無き者が騒ぎを起こしても、この者たちに迷惑がかかるだけじゃ。そもそも、人の子の運命は、己自身の手で切り開くものであろう?』


 山猫の王は、容赦のない言葉でアカルの想いを一蹴する。


(わかってるよ……)


 自分一人すら逃げ出すことが出来ないのに、誰かを助ける事など出来る訳がない。国に帰る場所がない人たちなら、尚更だ。


(私に……そんな力はないよ)


 アカルは唇を噛みしめた。



 〇     〇



 依利比古いりひこが高殿の大広間に入って行くと、武輝たけてるは白い毛皮の上に胡坐あぐらをかいて酒を飲んでいた。たぶんヒオクと長青が西都さいとを出て行ったと聞いて、奥宮から出て来たのだろう。


「父上、ヒオク王子と長青ちょうせい殿は先ほど帰られましたが、日の巫女が都萬つま国の庇護下にある事を、とても憂慮されておりました。とにかく十世とよに会いたいご様子でしたが、今回はお帰り頂きました」


「そうか。ご苦労」


 俯いたまま、武輝は素っ気なく答えた。心ここにあらずといった風情で、傍らにいる女官に酒を注がせている。


「あの様子では、遅くとも春にはまたやって来るでしょう。如何いたしますか?」


「うぅむ、面倒だが仕方がない、十世を他所へやるか。今は使鬼しき狩りの準備があるが……そうだな、終わり次第、十世を真砂まさご島へやるか。あの島はお前の安波岐あわきの宮から近い。誰が来ても十世には会わせるな」


 酒杯を宙に浮かせたまま、ようやく、横目で依利比古を見上げる。


「わかりました────使鬼狩りとは、珍しいですね?」


「十世の元には、ろくな使鬼がおらぬそうだ。何としてでも、南那なな国の王を殺せるような強い使鬼を狩ってもらわねば……」


 そう言って一気に酒をあおると、すぐに女官が酒を注ぎ入れる。


「なるほど……そうでしたか。南那国の王が呪詛に斃れれば、戦わずして筑紫を統一できますね。そうなれば、姫比きび国へ差し向ける兵の数も足りましょう」


 武輝は顔をしかめた。一度退けた話を、依利比古が蒸し返そうとしている。

 腹の底から怒りが湧いた。


「……またその話をするつもりか? わしが怒る前にさっさと下がれ!」


 手にしていた酒杯を、依利比古に向かって投げつける。

 酒を撒き散らしながら飛んできた酒杯を、依利比古は咄嗟に身を躱して避けたが、衣に酒がかかるのは防げなかった。


 依利比古の秀麗なおもてが、僅かに歪んだ。

 静かな怒りが、全身から立ち昇ってくる。


「父上は……何もわかってない。あなたは、私が怒っていないとでも思っているのですか? 昨夜、私に断りもなく、私の侍女を捕らえましたね? 何故そのような事をしたのです?」


 長い間、従順な王子を装ってきたのは、対抗する力がなかったからだ。生きるためだけに、武輝の怒りを買わぬようにしてきた。けれど、心の中は違う。目の前の男を敬った事など、一度もない。それどころか、自分の体にこの男と同じ血が流れている事を、心底厭わしく思っていた。


「あの娘か」

 くくっと武輝が嗤った。

 自分に対して初めて怒りを見せた依利比古に、驚くあまり腹立ちすら忘れている。


「あれをお前の傍に置いておくのは良くないと、卜占に出たそうだ。お前が人に執着するとは珍しいな。あれの何処が気に入ってる? 未だ抱いておらぬようだが、巫女にでもするつもりだったか?」


 依利比古の目が怒気を帯びるのを見て、武輝は愉快そうに笑った。


「初めて人の子らしい顔になったじゃないか。安心しろ、抱く前に逃げられたわ」


「朱瑠は返してもらいます」


 燃えるような怒気を放ってから、依利比古は立ち上がり、踵を返した。


「────おおそうだ、言い忘れておったが」


 武輝の声が、依利比古の背中を追ってくる。


安波岐あわきの宮に、隼人の姫を待たせてある。祖於そお国の愛良あいら姫だ。めとれ」


 武輝の声には、明らかに嘲弄ちょうろうの色が含まれている。それに気づいた刹那、依利比古の心を占めていた怒りはスッと溶けていった。

 武輝と戦うには、人間らしい感情など不要だったのだ。


「良いですね、娶りましょう」


 振り返った依利比古の顔には、いつも通りの微笑が浮かんでいた。


  

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