六 異変


 まだ朝霧が立ち込める早朝に、安波岐あわきの一団は、阿良々木あららぎの里を出発した。


 昨夜目覚めた依利比古いりひこは、翌朝の出立を狭嶋さしまに命じたのだ。


 慌ただしい出発だった。

 身の回りの物を片付けるのが精一杯で、アカルは宇奈利うなりの長や、宵芽よいめに挨拶する時間などなかった。


(もう一度、宵芽に会いたかったなぁ……)


 火乃宮があるという谷の中央を眺め、小さく息をつく。

 自由に動けず、鬱屈が降り積もる一方だったアカルにとって、彼女の明るさは一服の清涼剤だった。一度しか会った事がないのに、もう会えないと思うと寂しくてたまらなかった。


 霧の中、三日前に上ってきた山道を、谷に沿って下ってゆく。深い谷はやがて広く浅くなり、川幅も広がった。

 来た時に川岸に上げておいた小舟を川に下ろすと、一行は川を下り始めた。


 依利比古は小舟の舳先に座ったまま、じっと前を見つめている。山道でもそうだったが、彼はほとんど口を開かない。何事も無ければ、きっと一日中でも黙っているだろう。そんな彼に、みんな神経を尖らせている。狭嶋だけでなく、普段あまり依利比古の傍にいない武人たちですら、彼に起きた異変を感じ取っていた。


 今までの依利比古は、常に柔らかな雰囲気を身に纏っていた。微笑みを浮かべ、怒りや不快さを顔に出すことはほどんどなかった。それが今は、見えない壁があるのではないかと思うほど、人を寄せつけない。誰に対しても必要な事しか話さないのだ。

 アカルに対しては、それが顕著だった。口をきかないだけでなく、まともに顔を見ようともしない。声をかけても空気のように扱われ、完全に無視される。

 あの夜、アカルに向かって弱音を吐き、共に魔物を斃すと誓った彼は、幻だったのではないか。


(いったい、どんな悪夢を見たんだ)


 依利比古は何も話さないが、今までの悪夢とは違う気がした。

 アカルは舳先にいる依利比古をじっと見つめてから、すぐ前にいる狭嶋を見上げた。


「ねぇ、月弓はどこへ行ったの?」


 阿良々木の里に入ってから、アカルは一度も月弓を見ていない。

 依利比古の悪夢や、彼が夜中に火龍窟ひりゅうのいわやへ行ったことも、月弓が関係しているに違いない。しかし、狭嶋は月弓の名を聞くと、ただ不機嫌そうに「知らん」と答えただけだった。


 山を下りて二日目、両脇に迫っていた山が少しずつ開けてきた。川幅が広くなると流れも緩やかになり、小舟の揺れも少なくなった。

 やがて、風に乗って潮の香りが運ばれてきた。もう、海が近い。


 河口に近づいた頃、ポツポツと雨が降り出した。空は黒い雲が垂れこめ、遠くから微かな雷鳴も聞こえてくる。


「急ぐぞ!」


 狭嶋の号令で、武人たちは勢いよく櫂を漕いだ。

 小舟を川岸に引き上げ、河口の集落に駆け込んだ時には、風を伴った大雨になっていた。


 アカルが泊まるは、往路でも借りた小さな高宮だった。集落の中でも上等な建物で、当然、依利比古も一緒に泊まることになる。

 里の女たちが運んでくれた夕餉を、アカルと依利比古は黙々と食べた。


 今まで何度話しかけても、依利比古には無視され続けた。けれど、アカルは彼が変わった理由がどうしても知りたかった。幸いここには他人の目がない。突っ込んだ話が出来るかも知れない。そう思って話しかけた。


火龍窟ひりゅうのいわやで何があった? 眠っている間、何を見た? どうして黙ってるのさ? 何でもいいから話してよ。それとも、あんたはもう、魔物と戦う気はないの?」


 挑むように問いかけても、依利比古は何も答えない。無言で向かい合う二人の耳に、うねる風の音と、板壁に打ちつける雨の音だけが聞こえる。

 やがて、沈黙に耐え切れなくなったのか、ゆらりと依利比古が立ち上がった。そのまま踵を返して戸口に向かう。


「どこへ行くのさ?」

 アカルが鋭く叫ぶと、依利比古は僅かに振り返った。


「────これ以上ここにいたら、お前をめちゃくちゃくにしたくなる」


 押し殺したような呟きが返ってきた。

 アカルは首を傾げた。依利比古は間違いなく自分を憎んでいる。そんな風に憎まれる覚えはもちろん無い。気づかぬうちに傷つけていたなら、はっきり言えばいい。訳も言わずにただ怒りだけをぶつけてくる依利比古に、無性に腹が立った。


「なら、私が出て行くよ。この大雨だもの、王子サマは大人しくここに居れば?」


 アカルが戸口へ向かうと、依利比古はスッと片腕を伸ばした。アカルの行く手を阻むように伸ばされた手が、歩いてきたアカルの体を横へ薙ぐように突き飛ばす。

 バンッ

 一瞬で反対側の壁に打ち付けられたアカルの体が、ずるずると床に滑り落ちる。

 アカルは呆然と目を見開いたまま、動けなかった。背中をしたたかに打ちつけたせいもあるが、依利比古の荒々しい行動は予想外だった。


「自分が虜囚だということを忘れるな」


 怒りに任せた行動とは裏腹に、依利比古は悲痛な表情を浮かべていた。まるで、傷つけたのがアカルの方だと錯覚するほど、彼の瞳には仄暗い憎しみの炎が燃えていた。

 その炎の奥に潜む殺気に、背筋が凍った。


(なんだ……これ)


 不当な扱いを受け、抗議したいはずなのに、声を出すことすら出来ない。

 氷雪のような沈黙が続いた後、依利比古は振り切るように背を向けて、高宮から出て行った。


「めちゃくちゃにって……何なんだよ」


 依利比古の気配が消えると、アカルはゆっくりと体を起こした。けがをした箇所がないか体を動かしてみる。背中は痛かったが、動かせた。青あざ程度の打ち身で済んだのは幸いだった。

 アカルは座り込んだまま、ガランとした高宮の中を見回した。


「やっと口をきいたと思ったら、なんだよあれ!」


 無理やり都萬国に連れて来られたのは自分の方なのに、何故あんな風に憎しみを向けられなければならないのだろう。身に覚えのない怒りをぶつけられて、アカルは憤った。


「私は……あんたに何かしたか? 恨みがあるのは、私の方じゃないか!」


 ここにはもういない依利比古に向かって、アカルは不満をぶつけた。



 〇     〇



 翌朝には嵐は去っていた。

 清々しい青空の下、一行は入り江に浮かぶ大きな船に乗り換え、沿岸を南に向かって航行した。

 数日間の航海を終えて、無事に安波岐の宮へ帰りついても、依利比古の態度は少しも変わらなかった。

 船着場まで迎えに来ていた、妻の愛良あいら姫に声もかけず、依利比古はさっさと自分の宮へ向かってしまったのだ。これには周りの者たちも狼狽した。


「────いったい何があったというのじゃ?」


 平宮に入るなり、細い目をした三十路の女官が、アカルを問い詰めた。

 厠から脱走する前に寝起きしていた平宮に戻されると、そこには、当然のように見張り役の女官が待っていたのだ。

 アカルと同じ浅葱色のお仕着せを身に纏い、背筋を伸ばして正座する姿は少しも変りない。アカルが脱出した後、彼女が咎められたのではないかと心配していたが、どうやら大丈夫だったらしい。元気そうな姿を見てホッとした。


「久しぶり。私が逃げた後、怒られなかった?」

 彼女の前に座り、上目遣いに見上げると、目の細い女官はピシャリと膝を打った。


「私の事など、どうでもよろしい! 依利比古さまの話をしなされ!」

「はぁ」


 船着場にも来ていなかった彼女が、どこで依利比古の姿を見たのかは疑問だが、一目で彼の異変を察したのは、さすがとしか言いようがない。敬愛、もしくは崇拝する依利比古の事なら、きっと表情一つでわかるのだろう。


「何があったのかはわからないよ。私も知りたいくらいさ。けど、訊いても何も答えてくれないんだ」


 アカルは肩をすくめた。

 さっきまで鬱々とした気分だったが、彼女と少し話しただけで何故かホッとした。この数日間、依利比古のことを誰にも相談出来ず、疲れていたのかも知れない。

 依利比古を人一倍想っているこの女官なら、きっと親身になって考えてくれるだろう。そう思い、アカルは一部を除いた一連の流れを、彼女に話して聞かせた。


「────なるほど。その火龍窟ひりゅうのいわやで見つかってから、あのようになってしまわれたのじゃな。何とおいたわしい」


 女官は袖の先で目元を押さえた。


「ところでさぁ、誰も月弓のことに言及しないんだけど、どうしてなの?」

 アカルがそう尋ねると、女官は衣の袖を目元から離して眉間に皺を寄せた。


「月弓の事はよく知らぬ。あやつは、依利比古さまが姫比きびへ赴かれる前に、身の回りの世話をする女官の代わりに船に乗ったのだ」


「え……じゃあ、月弓とはそんなに長い付き合いじゃないんだ」


「そうじゃ。けれど依利比古さまは、ご自分と同じ出自の月弓を気に入っておられた。だから、他の者たちも月弓を特別扱いしているのじゃろう」


「────え、あんたも、依利比古さまと月弓の出自を知ってるの?」


 アカルはぽかんと口を開けた。目の前に居る女官が、意外な事情通だったことに驚きを隠せない。


「むろんじゃ。私は、依利比古さまが王宮に来られた五歳の時から、側付きの女官としてお世話してきたのだからな」


 女官は得意げに胸を反らす。


「当時の依利比古さまは、それはそれは可愛らしい男童おのわらわのじゃった。

 その出自のせいで奥方様には毛嫌いされ、武輝さまには臣下の子のような扱いをされ、兄の光照さまには酷く苛められたり、悪戯の罪を擦りつけられたりと、とにかく酷い仕打ちを受けて来た。けれど、依利比古さまは何をされても悲嘆に暮れることなく、ただひたすらに耐え忍んでおられた。それがもう哀れで哀れで……何もして差し上げることの出来ぬ無力さを、ひしひしと感じていたものじゃ」


 目の細い女官は再び袖を濡らしている。

 アカルは手のひらをじっと見つめ、指折り数えてみた。


(もし彼女が三十路なら、依利比古が五歳の時、彼女は十五歳か……なるほど)


 彼女の依利比古を思う気持ちは、敬愛や崇拝ではなく、慈愛であったらしい。


「ねぇ、そろそろ名前を教えてくれない?」

 アカルは、この女官を仲間に引き込むことに決めた。


「何を言うておる、名なら東都で最初に会った時に言うたではないか」

 女官は袖の陰からジロリとアカルを睨む。


「へ?」


 東都と言えば、アカルが都萬国に連れて来られて、最初に目を覚ました場所だ。黒蜘蛛に襲われた場所でもある。しかし、正直この女官に会った時のことは覚えてない。


「忘れたのか? 山吹やまぶきじゃ」

「山……吹」


 アカルは目を瞬かせながら、へへっと笑った。


  


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