九 罠


 武人たちに囲まれて、アカルは王宮の中央広場に連れて行かれた。

 外はもう暗く、広場のあちこちには篝火が焚かれている。正面にある一番大きな高殿にも、きざはしの両脇に篝火が焚かれ、二階建ての高殿を下から赤く染めている。

 武人の長は高殿の階を上ったが、正面の大広間には入らず、回廊を左へ曲がった。そのまま建物に沿って回廊を歩き、奥にある小さな階を更に上る。

 二階の回廊に出ると左側に扉があり、その両脇に二人の武人が立っていた。

 武人の長が前に出ると同時に、扉を守っていた武人が脇に避けた。


武輝たけてるさま、朱瑠あかるを連れて参りました」

勇芹いさせりか、入れ」


 低い声が聞こえると、勇芹はアカルの背中を押した。

 大きな手で背中を押された瞬間、アカルの緊張が高まった。武輝を恐れている訳ではないのに、動悸が大きくなる。

 アカルは衣の衿を握りしめながら、深く息を吸った。

 ゆっくりと扉をくぐる。最初に目に入ったのは、壁を覆う赤い織布だった。灯明の小さな光に照らされて、部屋全体を赤色に染めている。


(紅花で……染めたのか?)

 ぼんやりとそんな事を思ったのは、無意識の現実逃避だったのかも知れない。


「ご苦労だったな」


 再び、低い声がした。

 声の方へ視線を向けると、部屋の中央に壮年の男が座っていた。酒杯を手に、気だるげな様子でアカルを見上げている。床には暖かそうな白い毛皮が敷かれ、脇には料理の乗った高御膳がいくつも置かれている。


(こいつが……都萬つま国の王?)


 神殿から出て行く後ろ姿は見たが、顔を見るのは初めてだ。目の周りに青黒い刺青いれずみがあるせいか、恐ろしく鋭い目をしている。


「お前が朱瑠か?」


 武輝は酒杯を置くと、ゆらりと立ち上がった。縦にも横にも大きな体が、アカルに近づいて来る。その威圧感に圧倒されたが、何よりもアカルを不快にさせたのは、武輝の視線だった。


依利比古いりひこが、姫比きびから連れて来たというのは、お前で間違いないか?」


「……はい」

 アカルが答えると、武輝はその武骨な手を伸ばしてアカルの顎を捕らえた。


「ふぅむ。隼人の血が混じっているようだな。で、依利比古にはもう抱かれたか?」


 眉をひそめ懸命に我慢し続けていたアカルの瞳に、怒りが閃いた。

 その表情から何かを感じ取ったように、武輝の頬がほころぶ。


「どうやら、手は出しておらぬようだな。お前、生娘か?」


 武輝の目が、アカルの体に注がれる。まるで全身を舐めまわすような気味の悪い視線に、肌がザワリと粟立つ。


「ならば、今宵の伽はお前に申しつけよう」

「と……ぎ?」

「何も知らぬか。まあ良い」


 武輝は、アカルの顎にかけていた手を背中に回すと、勇芹に目を向けた。


「下がってよいぞ」


 武輝が軽く顎を振ると、はっ、と一礼して勇芹が部屋から出て行く。

 その背中に、アカルが縋るような視線を向けた瞬間、武輝はアカルの浅葱色の上衣を後ろへ引き下げた。


「なっ、何を────」


 最後まで言わないうちに、白い毛皮の上に引き倒された。

 アカルの細い体に跨るように、武輝の巨体がのしかかる。圧倒的な重量に息が出来ない。アカルは呆然としたまま、薄気味悪い笑みを浮かべる男を見上げた。


十世とよ誓約うけいでは、お前は依利比古をたぶらかし、良くない未来を引き寄せる悪い女だそうだ……だが、殺すのはいつでもできる。そうは思わぬか?」


 武輝の手が内衣のえりにかかる。

 恐ろしさに、体が震えだした。


「いやだっ……」


 アカルは必死にもがいた。しかし、両手は上衣が絡みついたまま、背中の下敷きになっている。耳の奥がドクドクと脈打ち、他の音は何も聞こえない。アカルは唯一動かせる首を必死に振って、武輝を拒絶した。


 かつて、盗賊たちの城へ乗り込もうとした時は、己の貞操などどうでも良かった。それで里の子供たちを助けられるなら、迷う必要はなかった。後になって自分の覚悟が足りなかった事に気づきはしたが、あの時のアカルは、結局何もわかっていなかったのだ。


 でも、今は違う。この男に好きにされるくらいなら、死んだほうがましだった。こんな事になるなら、あの時、東都とうとの座敷牢で、黒蜘蛛に食べられてしまえば良かった。そんな暗い思いが胸に広がってゆく。

 武輝の酒臭い息が顔にかかり、全身に怖気おぞけが走った。


「そう怖がるな。わしは女子おなごには優しい男だ」


 分厚い手がアカルの頬から首筋を撫で、開かれた衿の間へ入ってゆく。


「やめろっ!」


 叫ぶと同時に、涙が込み上げた。瞬く間に、溢れた涙が顔の横を流れ落ちる。


(いやだっ……たすけて……鷹弥)


 ぎゅっと目をつぶった時、手首に絡みついていた衣が、スッと解けた。

 驚いたアカルは、目を瞠ったまま、自由になった両手を体の下から引き出した。

 両手が自由になったところで、重量のある武輝から逃げられるとは思えない。それでもアカルは、無我夢中で武輝の脇腹に手を伸ばした。

 体を捻りながら上体を起こし、渾身の力を込めて武輝の体を横へ突き飛ばす。すると、均衡を失った巨体がゴロリと横へ転がった。


 その一瞬を逃さず、アカルは泡間あわいへ飛んだ。しかし、何かにぶつかるような衝撃があり、目を開けると、アカルはまだ武輝の部屋の片隅に座り込んでいた。


(失敗‥…したのか?)


 ブルブル震える手で、口を覆う。

 恐ろしかった。武輝が呼べば、外にいるたくさんの武人がなだれ込んでくるだろう。捕らえられたら、今度こそ逃げられない。


 毛皮の上に転がった武輝が、重そうな体を起こし始めている。もはや反撃する勇気もなく、アカルは赤布の壁際にうずくまり膝を抱えた。


 まだ武輝は、暗がりに居るアカルに気づいていない。だが、起き上がればすぐに見つかってしまうだろう。絶望的な気持ちのまま、アカルは両手で顔を覆った。


(どうしたらいい……鷹弥)


 思い浮かぶのは、鷹弥の顔ばかりだ。海を隔てた遠い場所にいる彼は、いくら呼んでも助けには来ない。わかっているのに、望むのは彼の腕だけだった。


『泣くな……人の子よ。そなたは、そんなに弱き者であったか?』


 鈴の音のような、声が聞こえた。

 ハッと顔を上げると、アカルの足元に、白い毛に覆われた丸い頭が見えた。白い猫がアカルを見つめている。記憶していたよりもずっと小さくなってはいたが、山猫の王に違いなかった。


「どうして……あなたがここに?」


 山猫の王は、かつて十世の使鬼しきにされ、千代姫の呪いに使われた神だ。アカルが解き放ってからは、たしか────。


「あっ……」


『そうじゃ。あの後わらわは、十世の元へと飛んだ。わらわを使役した報いを与えるためじゃ。十世の命までは取れなかったが、意趣晴らしはできた。だが……この高台を包む結界に阻まれ、外へ出ることが出来なくなった』


 小さくなった白山猫は、不満そうに鼻面を横に向けた。


「そうか、だから私も泡間へ入れなかったのか……もしや、手首に絡まった衣を解いてくれたのは、あなたですか?」


 自分の頬が涙で濡れていることに気づき、アカルは衣の袖で涙を拭った。


『そなたには恩があるからな。じゃが、この小さな結界を作っているのはそなたの力じゃ。安心しろ、あの者たちにそなたの姿は見えぬ』


「小さな結界……そうか。ありがとう、山猫の王」


 そっと手を伸ばして、アカルは小さな白山猫を抱き上げた。体温こそ無いものの、ふわふわの手触りに心が和らいでくる。


『のうアカル、そなたは強くはないが、弱くもない。本当に弱い者は、そなたのように逃げることすら出来ぬ。この国の中だけでも、意に沿わぬことを強いられる者は沢山いる。なのに、弱くもないそなたが、このように隠れて泣いていてどうするのじゃ?』


 山猫の王の言葉に、胸を衝かれた。返す言葉が見つからない。

 アカルは、恐る恐る武輝の方へ目を向けた。



「どこへ消えた!」

 武輝は呆然と辺りを見回してから、外で待機していた勇芹を部屋に呼び入れた。


「いかがいたしましたか?」

「……あの娘が消えた」

「消えた? まさか、物の怪の類だったのでしょうか?」

「知らぬわ! 巫女気のある娘だったのかも知れん。が、どのみち結界の外には行けぬ。どこかに潜んでいるはずだ。探せ! まだ殺すな!」



 武輝は怒りながら、勇芹にアカルの捜索を命じている。

 この結界から出れば、間違いなく捕らえられるだろう。捕らえられれば、たぶん、二度目はない。武輝に凌辱されるか、殺される。でも、だからと言って、いつまでも結界に隠れていることは出来ない。十世たち巫女が捜索に加われば、アカルはすぐに見つかってしまうだろう。

 アカルは深呼吸を繰り返した。


「────山猫の王、私がここを出て行く時は、あなたも一緒に行こう。一緒なら、きっと結界から出られるよ……」


 アカルはそっと白山猫を床に下ろした。


『行くのか?』


「うん」

 小さく頷いて、アカルは立ち上がった。


(弱くない私は、戦わないと……)


 両方の拳を握りしめて、アカルは歩き出した。震える足を無理やり動かし、武輝のいる方へ向かう。武輝の傍には、部下に指示を出し終えた勇芹が残っている。鍛え上げられた武人が相手では、かなうはずはない。それでもアカルは、負けないように虚勢を張った。


「私はここに居る!」


 鋭く叫んで、薄暗い空間から姿を現すと、武輝と勇芹は驚いたように固まった。


「私に手を触れないと誓えば、もう姿を消さないでやる!」


 上衣で乱れた内衣を隠し、泣きそうな顔のままアカルは胸を張る。

 不思議な気配を纏ったその姿に、勇芹は思わず圧倒された。


「いかが、いたしますか?」


 小声で伺いを立てると、武輝は憤りを隠さずぐぬぬと唸った。


「殺すな、捕らえよ! 今宵は興が冷めた。その娘は奴婢の小屋にでも入れておけ!」


 怒りに満ちた武輝の声が響く。

 勇芹は素早く、しかしアカルには触れぬように気をつけながら、宮の外へ出て行った。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る