十 奴婢
今日も空気はひんやりと冷たいが、空は気持ちが良いほど青く晴れ渡っている。
朝餉を終えた
「何をしている、朱瑠から目を離すなと申したはずだ」
眉をひそめながら声をかけると、細い目をした女官は一瞬驚いたように口を開けてから、慌ててその場に跪いた。
「依利比古さまはご存じだと……朱瑠は昨夜、王命を受けた武官に連れて行かれました」
「何だと?」
依利比古は目を瞠ったまま立ち上がった。
「武官は朱瑠を名指しにし、王命だと言いましたので……」
女官はさらに頭を低くして小さくなる。
「
依利比古は扉の向こうに声を掛けた。
「はっ」
高宮の入口に膝をついたのは、昨日、アカルの護衛をしていた武官だ。
「西都の兵に朱瑠が捕らわれた。どこにいるかわかるか? お前の兄は、この西都の警護頭だったはずだ。何か聞いていないか?」
「何も聞いてはおりませんが、お許しがあれば、これより兄の元へ行って参ります」
「そうか────」
依利比古が一瞬答えを
階を駆け上がって来た西都の兵が、狭嶋の隣に膝をついた。
「
「ヒオクと長青が……まもなく?」
何もかも自分一人で決めるくせに、面倒事はすぐに押しつける。武輝の悪い癖だ。いつもの事とは言え、依利比古は眉間の皺をさらに深くする。
「わかった。承りましたと、お伝えしてくれ」
「はっ」
こんな時に、面倒な相手が来たものだ。
西都の兵が帰って行く姿を目で追いながら、依利比古はしばし考えを巡らせていたが、やがて狭嶋に目を向けた。
「朱瑠の件は後回しだ。着替えたら、ヒオク王子と長青殿を迎えに行く。共に参れ」
「はっ」
狭嶋が素早く頭を下げる。
依利比古は眉間に皺を寄せたまま、御簾で仕切られた奥の間へ入った。普段なら月弓が傍にいて、様々な手伝いをしてくれるが、今は不在だ。
(父上は何故、朱瑠を捕らえたのだろう?)
今優先すべきなのはヒオク王子と会うことだが、アカルの安否も気にかかる。
「
誰もいない空間に向かって小さく呼びかけると、何処からともなく白い小鳥が出現し、衣をかけておいた
『依利比古さま、何か用?』
葉月は小鳥姿のまま、いつも通りの能天気な返事をする。
「朱瑠の居場所を探して欲しい。わかり次第教えてくれ」
『わかった!』
葉月は現れた時と同様に、忽然と姿を消した。
〇 〇
「急げ、もたもたするな!」
見張りの兵士の声が飛ぶ。
まだ薄青い夜明け前から、大きな水甕を頭に乗せた女たちが、王宮と台地の下にある泉を行き来していた。アカルは女たちに混ざって、木々に囲まれた坂道を下っている。水汲みの女たちは、少女から年かさの者まで様々な年齢の者がいたが、兵士に見張られているせいか、みな無言のまま黙々と歩いている。
「夜が明けるぞ! 急げ!」
アカルは見張りの兵士に急かされながら、藁を丸く束ねたカンブシを頭に乗せ、その上に水の入った甕を乗せて立ち上がる。ぐらりと足元がふらつくのは、渡海の間、薬で眠らされていたせいだ。
(これくらいで、情けない……)
歯を食いしばって、アカルは坂道を登り始めた。
水の入った甕はとても重いが、自分よりも小さな少女ですら平気でこなしている。それに、
昨夜は彼女たちの半地下の建物で眠ったが、暗くて人の顔など見えなかったが、東の空から朝日が上ってくると、薄青い霧も晴れて、水甕を運ぶ女たちの姿が見えてきた。
(不思議だな。ここはまるで、岩の里のようだ)
小柄で丸顔の女たちは、大きな目に彫りの深い顔立ちをしている。それは古の民の特徴と同じで、アカルは不思議な懐かしさを覚えた。
(この筑紫島にも、
もちろん、渡海人との混血がない訳ではないだろう。けれど、岩の里にいた時と同じで、この女たちの中でアカルは一番背が高い。
(そういえば……都萬の王は私を見て、ハヤトの血が混じっている、と言っていた。きっとこの人たちが、ハヤトの民なんだ)
水汲みが終わってからも、女たちと一緒にたくさんの水仕事をした。泥のついた芋や野菜を洗い、鍋を洗い、器を洗い、汚れた布まで洗った。
水仕事ですっかり指先の感覚がなくなっていたのに、女たちは小屋へ戻ると、
アカルも岩の里で似たような仕事をしたが、
「やり方わからないの?」
まごまごしていると、小さな女の子がアカルに話しかけてきた。
「そうなんだ。教えてくれるか?」
「うん。いいよ」
女の子はアカルの手から紡錘を取り上げると、切れ目の入った棒の端に真綿の繊維を絡めた。
「こうして引っかけてから、紡錘をくるくる回すの。それからそおっと引っ張ると、ほら、糸になるでしょぉ?」
少女は慣れた手つきで糸を紡いでいる。
「わかった、やってみるよ」
教わった通りにやってみたが、これがなかなか難しく、太さにむらのある糸が出来てしまった。
「あのね、この真綿はね、穴が開いたりして、きれいな糸が取れなかった繭を煮たものなんだって。王さまの衣にはなれないけど、この真綿を紡いだ糸で作った衣は、とっても軽くて暖かいんだって。あたしもいつか、そんな衣を着てみたいなぁ」
女の子は夢見るような目をする。彼女たちが着ているのは粗末な苧麻の衣だ。アカルも岩の里や姫比の下働きの衣として着ていたが、夏は良くても冬の寒さはしのげない。
「……そうだな」
アカルは頷いたものの、胸の奥が痛んだ。
(ここの人たちは、姫比にいた下女と同じか、それより悪い)
昼間は逃げないように監視され、夜は建物の扉を
水汲みの後に、薄い汁物のような粥が配られたが、それきりもうすぐ日が暮れる。アカルは空腹で倒れそうだったが、例え夕餉があるとしても、朝と同じものだろう。
厳しい労働をさせ、死なない程度に食べ物を与えている。いずれ弱って死んだとしても、この国にとっては何の痛手でもないのだ。
同じ人の子として生まれながらも、国や身分によって、人の暮らしは天と地ほど違ってしまう。やり場のない怒りにアカルは体を震わせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます