十 奴婢


 西都さいとの空に朝日が昇った。

 都萬つま国は、太陽の国と呼ばれる姫比きび国に並ぶ温暖な国だ。晴れの日が多く、平地ならば雪が降ることは稀だ。

 今日も空気はひんやりと冷たいが、空は気持ちが良いほど青く晴れ渡っている。

 朝餉を終えた依利比古いりひこは、突き出し窓から清々しい空を見上げていたが、ふと、高御膳を下げに来た女官の一人に目を止めた。アカルの見張りを言いつけた女官だ。


「何をしている、朱瑠から目を離すなと申したはずだ」


 眉をひそめながら声をかけると、細い目をした女官は一瞬驚いたように口を開けてから、慌ててその場に跪いた。


「依利比古さまはご存じだと……朱瑠は昨夜、王命を受けた武官に連れて行かれました」


「何だと?」

 依利比古は目を瞠ったまま立ち上がった。

「武官は朱瑠を名指しにし、王命だと言いましたので……」

 女官はさらに頭を低くして小さくなる。


狭嶋さしま、狭嶋はいるか!」

 依利比古は扉の向こうに声を掛けた。

「はっ」

 高宮の入口に膝をついたのは、昨日、アカルの護衛をしていた武官だ。


「西都の兵に朱瑠が捕らわれた。どこにいるかわかるか? お前の兄は、この西都の警護頭だったはずだ。何か聞いていないか?」


「何も聞いてはおりませんが、お許しがあれば、これより兄の元へ行って参ります」

「そうか────」


 依利比古が一瞬答えを躊躇ためらった時だった。

 階を駆け上がって来た西都の兵が、狭嶋の隣に膝をついた。


武輝たけてるさまよりのご命令をお伝えします。まもなく、伊那いな国より、ヒオク王子さまと長青ちょうせい殿が来訪されるとのことです。武輝さまに代わり、お二人の相手を頼むとのことです」


「ヒオクと長青が……まもなく?」


 何もかも自分一人で決めるくせに、面倒事はすぐに押しつける。武輝の悪い癖だ。いつもの事とは言え、依利比古は眉間の皺をさらに深くする。


「わかった。承りましたと、お伝えしてくれ」

「はっ」


 こんな時に、面倒な相手が来たものだ。

 西都の兵が帰って行く姿を目で追いながら、依利比古はしばし考えを巡らせていたが、やがて狭嶋に目を向けた。


「朱瑠の件は後回しだ。着替えたら、ヒオク王子と長青殿を迎えに行く。共に参れ」

「はっ」


 狭嶋が素早く頭を下げる。

 依利比古は眉間に皺を寄せたまま、御簾で仕切られた奥の間へ入った。普段なら月弓が傍にいて、様々な手伝いをしてくれるが、今は不在だ。


(父上は何故、朱瑠を捕らえたのだろう?)


 今優先すべきなのはヒオク王子と会うことだが、アカルの安否も気にかかる。


葉月はづき、いるか?」


 誰もいない空間に向かって小さく呼びかけると、何処からともなく白い小鳥が出現し、衣をかけておいた衣桁いこうの上にとまる。


『依利比古さま、何か用?』

 葉月は小鳥姿のまま、いつも通りの能天気な返事をする。


「朱瑠の居場所を探して欲しい。わかり次第教えてくれ」

『わかった!』

 葉月は現れた時と同様に、忽然と姿を消した。



 〇     〇



「急げ、もたもたするな!」


 見張りの兵士の声が飛ぶ。

 まだ薄青い夜明け前から、大きな水甕を頭に乗せた女たちが、王宮と台地の下にある泉を行き来していた。アカルは女たちに混ざって、木々に囲まれた坂道を下っている。水汲みの女たちは、少女から年かさの者まで様々な年齢の者がいたが、兵士に見張られているせいか、みな無言のまま黙々と歩いている。


「夜が明けるぞ! 急げ!」


 アカルは見張りの兵士に急かされながら、藁を丸く束ねたカンブシを頭に乗せ、その上に水の入った甕を乗せて立ち上がる。ぐらりと足元がふらつくのは、渡海の間、薬で眠らされていたせいだ。


(これくらいで、情けない……)


 歯を食いしばって、アカルは坂道を登り始めた。

 水の入った甕はとても重いが、自分よりも小さな少女ですら平気でこなしている。それに、武輝たけてるに襲われそうになった昨夜のことを思えば、今はどんな仕事でも大歓迎だった。

 昨夜は彼女たちの半地下の建物で眠ったが、暗くて人の顔など見えなかったが、東の空から朝日が上ってくると、薄青い霧も晴れて、水甕を運ぶ女たちの姿が見えてきた。


(不思議だな。ここはまるで、岩の里のようだ)


 小柄で丸顔の女たちは、大きな目に彫りの深い顔立ちをしている。それは古の民の特徴と同じで、アカルは不思議な懐かしさを覚えた。


(この筑紫島にも、いにしえの民が残っていたのだな)


 もちろん、渡海人との混血がない訳ではないだろう。けれど、岩の里にいた時と同じで、この女たちの中でアカルは一番背が高い。


(そういえば……都萬の王は私を見て、ハヤトの血が混じっている、と言っていた。きっとこの人たちが、ハヤトの民なんだ)


 水汲みが終わってからも、女たちと一緒にたくさんの水仕事をした。泥のついた芋や野菜を洗い、鍋を洗い、器を洗い、汚れた布まで洗った。

 水仕事ですっかり指先の感覚がなくなっていたのに、女たちは小屋へ戻ると、むしろに座り糸を紡ぎ始めた。中央に穴の開いた平たい丸い石に木の棒をさした紡錘つむを、宙で独楽こまのように転がして、ふわふわの真綿から器用に糸を紡ぎだしている。

 アカルも岩の里で似たような仕事をしたが、苧麻ちょまという植物の繊維を糸にしたものだったので、真綿から糸を紡ぐのは初めてだった。


「やり方わからないの?」

 まごまごしていると、小さな女の子がアカルに話しかけてきた。

「そうなんだ。教えてくれるか?」

「うん。いいよ」


 女の子はアカルの手から紡錘を取り上げると、切れ目の入った棒の端に真綿の繊維を絡めた。


「こうして引っかけてから、紡錘をくるくる回すの。それからそおっと引っ張ると、ほら、糸になるでしょぉ?」

 少女は慣れた手つきで糸を紡いでいる。


「わかった、やってみるよ」

 教わった通りにやってみたが、これがなかなか難しく、太さにむらのある糸が出来てしまった。


「あのね、この真綿はね、穴が開いたりして、きれいな糸が取れなかった繭を煮たものなんだって。王さまの衣にはなれないけど、この真綿を紡いだ糸で作った衣は、とっても軽くて暖かいんだって。あたしもいつか、そんな衣を着てみたいなぁ」


 女の子は夢見るような目をする。彼女たちが着ているのは粗末な苧麻の衣だ。アカルも岩の里や姫比の下働きの衣として着ていたが、夏は良くても冬の寒さはしのげない。


「……そうだな」

 アカルは頷いたものの、胸の奥が痛んだ。


(ここの人たちは、姫比にいた下女と同じか、それより悪い)


 昼間は逃げないように監視され、夜は建物の扉を貫木かんのきで閉ざされてしまう。

 水汲みの後に、薄い汁物のような粥が配られたが、それきりもうすぐ日が暮れる。アカルは空腹で倒れそうだったが、例え夕餉があるとしても、朝と同じものだろう。

 厳しい労働をさせ、死なない程度に食べ物を与えている。いずれ弱って死んだとしても、この国にとっては何の痛手でもないのだ。

 同じ人の子として生まれながらも、国や身分によって、人の暮らしは天と地ほど違ってしまう。やり場のない怒りにアカルは体を震わせた。

  

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