七 萌芽
神殿から林を通り抜け、王宮へと向かう。己の父親の後をつけるなど、
先ほどの謁見願いは、王の不在を理由に断られたが、今度はすぐに受理され、依利比古は広間に通された。
「帰ったか依利比古。して、
武輝は、高座の上に敷かれた上等な兎の毛皮の上に、
「同盟の草案はまとめて参りました。しかし、
顔を上げながら、そう答える。
刺青で強調された武輝の鋭い目が、驚愕したように大きく見開かれた。
「何だと、太丹が死んだ? それは誠か?」
「はい。何やら恨みを買っていたようで、冬至の儀のさなかに刺殺されました。我が国にとっては歓迎すべき出来事でした」
「おお、まったくだ。太丹がいなくなれば、瀬戸内諸国との交易は我が国の思うがままだ」
青黒く縁どられた武輝の目が、ニンマリと弧を描く。
醜悪な顔だ────と依利比古は思った。自分の父親でなければ、いや、この国の王でなければ、こんな男に膝などつきたくはない。
「……今後、瀬戸内の情勢からは目が離せなくなるでしょう。私は春を待って、姫比に軍を派遣したく存じます」
姫比滞在中から温めていた案を打ち明けると、武輝は驚いたように目を剥いた。
「軍だと? わざわざ姫比に我が兵を送ると言うのか? その必要はない!」
武輝は腹立たしげに依利比古から顔を背けた。
「しかし、太丹王が亡くなったことは、ある意味では瀬戸内諸国にとっても吉報です。姫比になりかわり、制海権を手中にせんとする国々が出てくるでしょう。それを────」
「依利比古! 要らぬと言ったのが聞こえなかったのか? 瀬戸内のことは瀬戸内に任せればいいのだ。姫比に成り代わる国がいるのなら、その国と同盟を結べば良い。この筑紫ではまだ
武輝は、依利比古が言い終わらぬうちに、彼の案を否定した。
「ですが、今なら
「依利比古!」
轟くような声が広間に響いた。
「わしはお前に、何と命じた? 姫比との同盟を結んで来い、と命じたはずだが?」
「はい。ですから、同盟は結んで参りました」
「そうだ。わしが命じたのはそれだけだ。余計なことをする必要はない。ご苦労だったな。もう下がってよいぞ」
「……はい」
依利比古はぎりっと唇を噛み締めたまま、深々と頭を垂れた。そのまま、静かに広間を後にする。
これ以上何を言ったところで、武輝は聞く耳を持たないだろう。それは十分に想定していた事だったが、さすがに一刀両断に切り捨てられるといい気はしない。それに、不満なのは個人的な感情だけではない。戦や交渉事には時勢が大切なのだ。
父王を失った宇良王子が、慌てふためいている今こそが、姫比を取り込む千載一遇の好機だろう。
(父上は、この狭い筑紫島のことしか考えておらぬ……)
眉をよせ、高殿前の
「あちらも不首尾に終わったか」
フッと、笑いが込み上げた。たったそれだけの事で、不思議なほど鬱々とした気持ちが晴れてゆく。
依利比古はアカルの方へ向かって足を速めた。
「朱瑠! 十世との話し合いはどうだった?」
依利比古が嬉々として声をかけると、アカルは見事な仏頂面を彼に向けた。
「ははっ、その様子では、十世に嫌われたか?」
「……もともと嫌われてたみたいだ。十世にとって、私は敵なんだってさ」
よほど納得出来ないのか、アカルは童のように唇を尖らせている。女官の衣を着ているせいか、普段よりもちぐはぐさが増して笑いを誘う。
依利比古はアカルの唇に手を伸ばした。親指と人差し指で尖った唇をつまむと、驚いたアカルがパッと後ろに飛び退いた。
「何すんだよ!」
「あまりにも面白い顔をしているから、つい手が出てしまったのだ」
依利比古は笑った。右の指先には、まだアカルの柔らかな唇の感触が残っている。その指先を左の手のひらで包む。自分の行動が、自分でも不思議だった。衝動のままに動いたのは、生まれて初めてだ。
「面白いって……気安く触るな!」
アカルはすっかり怒ってしまったが、依利比古には良い気分転換だった。
「行くぞ。私の宮は向こうだ」
依利比古は勢いよく踵を返した。
仕方なさそうにアカルがついて来るのを確かめて、王宮の一番端にある、自分の高宮に足を向ける。
一歩進むたび、上向いた気持ちが自信に変わってくる。
筑紫の中しか見ていない父よりも、自分の方がこの
(私の考えが正しかったのだと、いずれ父上も知るだろう。私がいつまでも父上の言うことを聞くと思ったら大間違いだ)
武輝に対する叛意を、依利比古はずっと抑え込んできた。その
〇 〇
王宮の広場から離れた場所に、古い高宮がある。付属する平宮や庭は、最低限の手入れしかされておらず、全体的に古くて質素な佇まいだ。
この一画が、依利比古の宮だった。
(会って話がしたいと思っていたのは、私だけか……)
アカルは、女官の使う小さな平宮の片隅にいた。
そこで、十世との会話を反芻している。
(十世にとって私は敵か……まぁ、仕方ないのかな)
山猫の王の反撃で、十世は腕に怪我を負ったと聞いた。アカルのせいではないが、関係なくもない。
アカルは、
十世が依利比古を慕っているかどうかは、正直わからなかった。でも、もしそうなら、十世がアカルを嫌う理由が二つになる。恋は狂気と紙一重だと、アカルは
(あの痣は、何なのだろう?)
十世は、遠くから禍々しいモノが近づいて来る、と言って怯えていた。呪詛をする度に増える首の痣は、その悪しき神がつけた印なのだろうか。
(悪しき神って……なんだ?)
アカルは腕を組んだ。わからないことだらけで、頭の中がモヤモヤする。
「やめた!」
大きく首を振って、アカルは気持ちを切り替えた。
十世が、都萬国の王に呪詛を強いられているのは確認できたが、アカルに対する敵視は揺るぎそうもない。あの不気味な痣のことは気になるが、アカルが手を差し伸べたところで、十世は頑なに拒絶するだけだろう。
(私の出る幕なんか、ない)
アカルは小さくため息をついた。
十世に用が無くなれば、もうこの国にいる理由もない。早々に脱出方法を考えよう。そう思いながら、アカルはしみじみと部屋の中を見回した。
女官用の小さな平宮は、全体的に古ぼけていて、棚や衣をかける
(もしかして依利比古は、ここでは軽んじられているのか?)
姫比での依利比古は、煌びやかな衣を身にまとった殿上人だった。
誰よりも自信に満ち溢れ、にこやかな笑みの陰に、大国の威厳を滲ませているように見えた。
だが、考えてみれば、十世の神殿でも都萬王から身を隠していた。いくら意見が対立していたとしても、実の親子が盗み聞きのような真似をする必要があるだろうか。
十世のことを考えるのを止めた途端、依利比古に対する疑問が湧いてくる。
考えても分からないことばかりで、頭の中がムズムズしてくる。
(わからないなら、訊くまでだ!)
依利比古の言うように、自分には
アカルはすっくと立ちあがると、戸口に手をかけた。
「どこへ行く?」
手焙り火鉢にあたっていた目の細い女官が、慌てて立ち上がる。
「依利比古さまに、訊きたいことがある」
「控えなさい。自分が虜囚であることを忘れたのか?」
アカルの行く手を阻むように、女官が体を寄せてくる。
その時、外から声が聞こえてきた。野太い男の声だ。
「────依利比古! 異国で王子扱いされて勘違いでもしたか? この都萬国の王子は俺だけだ。俺に代わって兵を動かそうなどと思い上がる前に、己が出自を思い出せ!」
毒に満ちた言葉だった。
アカルは女官と顔を見合わせると、ほんの少しだけ戸を開けてみた。
細く開いた戸のすき間から、高宮の階を下りてゆく男が見えた。紫紺の衣を身にまとった体格のいい男だ。その姿形は、神殿で見た都萬国の王に似ていた。
気がつくと、女官もアカルと一緒になって外を覗いていた。
「今のが、都萬国の王子さまなの?」
「依利比古さまの兄、
答える女官も、僅かに憤っている。
「仲、悪いの?」
アカルが重ねて質問すると、思いがけない方向から答えが返ってきた。
「────兄とは母が違う。私は五歳の時に、この王宮に引き取られた」
外側から戸が開き、すぐ目の前に依利比古が立っていた。いつもと同じ、アカルを
「私に訊きたいことがあるなら、訊いてやろう。おいで」
依利比古は、呆然としているアカルの手を取った。
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