十六 恋の終わり


 朝起きるなり、アカルは額を押さえた。頭がガンガン叩かれているように痛い。

 昨夜はどうやって帰って来たのか記憶がないのに、ソナの宮にある部屋のひとつを借りて寝ていたようだ。


「これが二日酔いというものか……」

 何とか身支度を整えて隣の部屋に入ると、ソナがいつもと変わらぬ様子で高御膳を運んできた。

「おはようアカル。ちょうど朝餉が届いたよ」

「……ソナは元気そうだな」

「あはは、アカルは二日酔いかぁ」

 アカルとは対照的に、ソナは上機嫌だ。


「食欲ないだろうけど食べろよ。毒見はしてあるから安心して」

「毒見?」

 ソナの向かいに座ってアカルは眉をひそめた。

「アカルは命を狙われてるだろ? まぁ、金海の王子が食べるかも知れないから、ここに居る限り毒を盛られることはないだろうけど、一応ね」

「そうか……智至ちたるの大巫女から抹殺指令が出ているんだっけ」

 アカルはぼんやりと考えた。巫女宮に連れて行かれて殺されそうになった事など、遠い昔のことのように思える。


「私はどうも、外の巫女からは嫌われるらしい」

 小さなため息をもらして、青菜の浮かんだ汁物をひと口すする。ほどよい塩味が体に染み渡るようだった。

「アカルが悪い訳じゃないさ。人は自分よりも力ある者を認めたがらないからね。けど、馬鹿だよね。妬む心が消えない限り、その相手を超えることは出来ないのにね」

「なんか、良いこと言うね。さすがは金海の王子だ」

「惚れ直したか?」

「そうかも」

 二人は顔を見合わせて笑いあった。


 朝餉を終えてからもアカルとソナは縁台に並んで座り、ずっと話し続けた。

その間、アカルは笑顔を浮かべて軽口をたたいた。

「出発は十日後だっけ?」

「ああ。秋口から南へ向かう風があるらしくてさ。それに乗って大陸沿岸を南へ向かう」

「交易品は決まったの?」

「一応ね。八洲やしまの珠と真珠は人気があるし、絹織物と干し鮑も仕入れるつもりでいるよ」

「そうか、楽しみだな」


「アカル……きみを一人にするのは心配だ」

 縁台についていたアカルの手に、ソナの手がそっと重なる。

「大丈夫だ。私はソナを見送ったら岩の里へ帰る。心置きなく出発してくれ」

「まったく……きみって人は」

 ソナが苦笑した時、宮の外から女官の声がした。

「何だろう、ちょっとごめん」

 ソナが立ち上がり、離れ宮の入口へ向かう。縁台にひとり残されたアカルはぼんやりと庭を見つめた。



朱瑠あかる

 宮の脇から呼びかけられた。

 顔を見なくても誰だかわかっていた。少し前から、水生比古みおひこの気配がこの宮を包んでいたから。

「少し、良いか?」

 珍しく遠慮がちなその声に、アカルは笑った。

「私も、あなたに話さなきゃいけないことがあった」

「それは、巫女宮でのことか?」

 水生比古は、アカルの顔色を窺うようにゆっくりと近づいて来る。


「智至の巫女たちは私の言葉を聞いてくれなかったから、あなたに話さなきゃと思ってたんだ」

 アカルは笑顔を引っ込めると、姿勢を正した。

「あなた方の御祖神みおやがみは、人の世に争いが近づいていると言っていた。争いが起これば地底の火の神であり幽界の神が力を増し、戦で多くの命が亡くなるそうだ。神はあなたの力でそれを防いで欲しいと願っていた。伝えてくれと頼まれた」


「そうか……御祖神はお前に伝えたのだな。神が選んだ巫女であるお前を、あろうことかわが国の巫女は殺そうとした。しかもそのきっかけを作ったのは私の妻、白珠しらたま姫だ。すべては私が未熟なせいだ。父上なら巫女宮をも掌握していただろうに。本当に申し訳ない」

 水生比古は頭を下げた。


「本当だよ。筑紫に対抗して大陸との交易路を画策するより、自分の国を固めた方がいいんじゃないか?」

「ふ、返す言葉もないな」

 水生比古は苦笑した。

「白珠姫の故郷は高志こうし国といって、曾祖父の代までは戦の絶えない敵国だった。祖父の代では同盟を結ぶまでになったが、北の諸国をまとめる高志の力は今でも侮れない。高志から来た妻もだ」

 水生比古はゆっくりと歩み寄り、縁台に座るアカルの前に立った。

「ここに居る限り、お前の命は狙われるだろう。今ならお前を手放してやれる。ソナと一緒に行け」

 真剣な目をして自分を見る水生比古を、アカルも真っすぐ見上げた。


「私は……もう決めたんだ。岩の里に帰る」

 しかし水生比古は激しく首を振った。

「岩の里ではダメだ。お前を狙う者が簡単に入り込める」

兼谷かなやか? 大丈夫だ。そこまで気を遣わなくてもいいよ」

「朱瑠!」

 水生比古の手がアカルの肩をつかんだ。

「私は、お前を手放すのが辛い。とても辛いんだ。お前は、ソナと別れるのが辛くはないのか? 私と違って、お前とソナは互いに想い合っているのだろう?」

 水生比古の眉間には苦悩するような深いしわが刻まれている。


「そうだな、私はとても辛い。でも、ソナは違うんだ。あの人にとって私は、初めて西方への夢を分かち合えた仲間の一人でしかない」

 夕べ酒場でその事に気づいた。

 あの時は胸が潰れそうな気持になったのに、こうして口に出してみると、当たり前のことのようにすんなりと受け入れている自分がいた。


「それは、お前の思い過ごしではないのか?」

「わかるんだ。自分もそうだったからわかる。とても大切な、何よりも大切な人がいたけど、私にとってそれは恋じゃなかった。相手に思いを告げられても、ただ困惑するだけだった。ソナは、あの時の私と同じなんだ」

 思い浮かぶのは、岩の里の夜だった。自分に向けるトーイの想いに気がついて、困惑した。驚いて、傷つけるような言葉で振り払った。


「もしそうだとしても、あいつが自分の気持ちに気づいてないだけかも知れない。お前と別れてから、そのことに気づくかも知れないぞ」

 不機嫌丸出しでソナを庇う水生比古に、アカルは笑顔を向けた。

「それでもいいんだ。私もね、岩の里の婆さまを置いて行けるほど、強くソナを想っている訳じゃない。だから、私は行けない」


「まったく……お前は」

 水生比古はため息をついた。

「私は、お前を手放す気などなかった。もしお前の命が狙われていなかったら、ずっと手元に置いて、お前が諦めて私の手の中に落ちて来るのを待っていただろう」

「は?」

 アカルは呆れたように水生比古を見上げた。

「何を言ってるの? 私はあなたの半分くらいしか生きてない小娘だろ?」


「小娘か……そうだな」

 水生比古は苦笑した。

「お前は笑うだろうが、その小娘に心を奪われた。たぶん西伯さいはくで初めて会ったあの夜、お前が白い獣に乗って弥山みせんの宮に戻って来た時から、私の心はお前に奪われていた。それまでは、女の気持ちなど考えた事はなかったのにな……」

「最低だね」

「ああ。王としても、一人の男としても最低だ」


 自嘲の言葉を口にする水生比古は、今まで見たこともないほど悲しそうな顔をしていた。

 そんな水生比古の顔を見ているのが辛くなって、アカルは庭の方へ視線を移した。

 美しくならされた砂と木々を見ているうちに、庭木の影に佇む男の姿を見つけた。遠目にも、その男が兼谷だとわかった。


「ところで、御祖神の願いはちゃんと聞き届けてくれるんでしょうね?」

 アカルがいきなり話を変えたので、水生比古は狼狽えた。

「え、ああ。それはむろん、出来るだけのことはする」

「出来るだけ? そんなことで人の世の争いが止められるのか?」

「それは……わからんな」

 水生比古の顔に、今までとは違う深い影が浮かんだ。


「この八洲は絶えず争ってきた。今は落ち着いているが、確かに争いに向かっている。阿羅のヒオク王子が伊那いな国に入ったことで、その風が少し強さを増したのかも知れぬ。どうやら伊那国は、伊希真いきま王子を排して、娘婿のヒオクを王に戴くと決めたようだな」

「イキマ?」

「伊那国の王子だが、お前は知らないだろうな」

 水生比古は微笑みを浮かべた。


「かつて筑紫には、強大な力を持つ日の巫女がいた。岩の里の大巫女はどうか知らぬが、筑紫にとっての日の巫女は、王と変わらぬ権力を持っていたんだ。その日の巫女を支え、筑紫の国々を統べていたのが伊那国だ。伊希真は筑紫内乱まで日の巫女に仕えていたが、その後あまり名を聞かぬようになった。

 伊那国は内乱で力を失い、都萬つま国が筑紫の宗主となりつつある今、ヒオクを迎えた伊那国は変わろうとしているのかも知れん」


「他国のことなのに、ずいぶん詳しいね」

 アカルは感心した。そして、水生比古があちこちに密偵を放っていたことを思い出した。

「伊那にも密偵がいるのか?」

「ああ。だが、筑紫の勢力図は変わりつつある。都萬国にはまだ密偵を送り込めていないし、姫比きびをはじめ瀬戸内の情勢もつかみ切れていない」

「ふうん」

 アカルはしばし考えた。

「では、私が行ってやろうか?」

 水生比古は顔色を変えた。

「何を言っているんだ! 密偵がどれほど危険な仕事かわかっているのか? お前だって、情報収集など自分には出来ないと言っていたではないか! そ、それに、私は本気でお前を探女さぐめにするつもりなど無かったのだぞ!」


 自分のために慌てふためく水生比古を見るのは面白かった。

 水生比古のせいで色々な迷惑を被ってきたけれど、この顔を見られただけで許してもいいと思えた。

 クスクスと笑うアカルを、水生比古は魂を抜かれたような顔で見つめた。


「嘘だよ。兼谷が見ているんだ。振り返らないで聞いて。私は岩の里に帰るけど、兼谷には遠くへ行ったと思わせたいんだ」

 アカルは小声で囁いてから、顔を上げて声を張った。

「岩の里へ戻っても危険なら同じことだろ。私だって、岩の里に兼谷が来たら嫌だ。それに、御祖神の話も気になる。もしも戦を回避できるなら、あなたの手駒になってやってもいいよ」


「朱瑠、お前……」

 水生比古は頭を抱えてへたり込んだ。

「もちろん水生比古さまも、戦を回避すべく動いてくれるんでしょ? 報酬は、私の命と等価のものを岩の里にやってくれればいい」

「お前は……私を試しているのか?」

 へたり込んだまま、水生比古はアカルを見上げた。それは、いつの間にか手の届かない場所へ飛び去ってしまった小鳥を追うような、悲しそうな目だった。


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