十七 八神の疾風
その静かな水面に波を立てながら、大きな船が東へ進んでいる。その船にアカルは乗っていた。
ソナの出発を待たずに智至を出たのは、
「お前は、酷い女だな。
大きな船の舳先に立っていたアカルの横で、熊のように大きな体をした
「酷い? 私が?」
全く身に覚えがないといった様子で、アカルは首をひねる。
「そうさ。嫌がる
夜玖は恨みがましい目でアカルを見る。
「しかも、
「は? 可哀そうなのは私の方だ。どこへ行っても兼谷がうろうろしてるから、ソナとは短い別れで我慢して、逃げるように智至を出て来たのに、どうして私があの人につき合わなくちゃいけないんだ。大体、私と一緒に西伯へ行ったりしたら、もっと奥方の怒りを買うだろ。女々しいのもいい加減にして欲しいよ」
海の上にいるせいか、堂々と文句が言える。
「朱瑠! いくらお前でも無礼だぞ!」
「何だよ、やるのか?」
アカルは不敵な笑みを浮かべて、帯に挟んだ短剣に手をかけた。この立派な短剣は、出発する前に水生比古がくれたものだ。
「馬鹿を言うな。お前など片手で一捻りだが、水生比古さまが大切にしているものを俺が傷つけられる訳がない。お前、あれだろ? あの海賊たちから悪い影響を受けてるだろ?」
「そうかもね」
アカルはクスッと笑った。
「でもまぁ、俺が岩の里からお前を連れ出した時に比べたら、ずいぶん表情豊かになったよな。あの時のお前と来たら、まるで人形みたいだったからな」
夜玖は一転して、しみじみとした表情を浮かべた。
「そうかな? まぁ、色々あったからな」
船べりに両手でつかまり、アカルは水面を見つめた。
陽の光を受けてキラキラと輝く水面はとても眩しかった。
岩の里を出たのはもうずいぶん昔のような気がする。西伯、金海、智至と三つの大国を見て来たのにまだ半年ほどしか経っていない。
そう思うと、とても不思議な気持ちになった。
〇 〇
『お前に行かせられるとしたら、姫比しかないな』
三日前、不満を露わにした水生比古が、そうアカルに告げた。
『姫比は瀬戸内の強国だが、国は豊かで安定している。比較的潜入もしやすい』
『わかった』
これが芝居だとわかっているはずなのに、水生比古は不安そうな顔をしていた。
『絶対に危ないことはするな。私は、情報を集める仕事など望んでいる訳ではない。お前がどうしても行くと言うから行かせるだけだ。姫比国の様子を、お前の目で見て来い』
『大丈夫だ。私は
偽りの会話をしながら、ふと、本当はそうした方が良いのではないかと思った。
岩の里に帰れば、世の中の動きとは全く縁のない生活に戻る。それは幸せな事だと思う一方で、本当にそれでいいのだろうか──という気持ちになった。
「──もうすぐ港に着くぞ」
夜玖の声に顔を上げると、大きくなった
「早いな。船だと、西伯までこんなに近いんだ」
水生比古の進言で、今夜は
「朱瑠さま、お待ち申しておりました」
白装束に身を包んだ女が深々と頭を下げる。
彼女はアカルを大神岳の巫女宮まで案内してくれた巫女で、アカルと一緒に山の神の贄にされかかり、鎮めの儀式を手伝ってくれた巫女だった。
「あなたは……ええと、サザナミだっけ?」
「いえ、
「ああ……ごめん。名前を覚えるのが苦手でさ」
アカルが恥ずかしそうに頭を掻くと、隣で夜玖がプッと吹き出した。
「でも、覚えていて下さったのですね」
嬉しそうに頬を上気させた小波は、もうあの時のような暗い顔をした女ではなかった。
「朱瑠さまが西伯へ来られるとの予言があり、こうしてお待ちしていたのです。今宵は弥山の宮にお泊りと聞きました。さぁ参りましょう。お荷物をお持ちします」
アカルの抱えていた葛籠を小波が取り上げ、夜玖が抱えていたアカルの荷物は、小波の後ろにいた男が引き受けた。
アカルはよくわからないまま、小波に連れられるように弥山の宮に向かった。
○ ○
「よく来た巫女殿。今宵はゆっくり休んでくれ」
夕餉に呼ばれた高殿で、青影が歓迎してくれた。
久しぶりに見る西伯王は、左目の傷痕も筋骨たくましい姿も少しも変わっていなかった。
高殿には、青影のほかに夜玖と巫女の小波、それから小波と一緒に港に来ていた男が同席していた。
(誰なんだろう?)
武官のような身なりをした男で、年は夜玖と同じくらいに見える。
「さっそくで悪いが、巫女殿と話がしたいという者が居るのだ。食べながらで良いので聞いてやってくれ。
青影が手を振ると、小波の隣に座っていた男が床に手をついて深々とお辞儀をした。
「私は門番の疾風と申します。今は西伯に身を寄せておりますが、十年前までは
「八神の里?」
予期せぬ名前を聞いて、アカルは思わず目を見張った。
「もしかして、私を知っているのか?」
アカルが反応したのが嬉しかったのか、疾風はパッと顔を上げると破顔した。
「はい! 幼かった朱瑠さまはお忘れでしょうが、里の外へ遊びに行くときなどに、よく門番の私に話しかけてくれました。
八神の里が賊に襲われたあの日、私は援軍を呼びに走りましたが時すでに遅く、八神の里は炎上した後でした。
あの日、遊びに行かれた朱瑠さまの行方は知れないままで、ずっと案じておりました。先日、岩の里の巫女さまの名が朱瑠さまだとお聞きし、幼いころを思わせるお姿を拝見して、一度お会いしたいと思っていたところへ今回の来訪の知らせ。居てもたってもいられず、青影様にご相談申し上げた次第です」
「そうか……実は、私は八神にいた頃の記憶はほとんど無いんだ。八神が燃えた時のことも夢で見ただけで曖昧だし、親兄弟のこともわからない」
アカルがため息まじりにそう言うと、疾風はひどく驚いたような顔をした。
「では、朱瑠さまは、岩の里に預けられていた訳ではないのですか?」
「えっ……預けられたって、どういう意味?」
「いえ、それは……その」
疾風は夕餉に集った面々を困惑したように見回した。
「なんだ、我らが聞いては困るような話か?」
青影が酒を飲みながら訊くと、疾風はますます困ったような顔をする。
「私の事なら気にしなくていい。八神で孤立していたのはうっすらと覚えているんだ。話してくれ」
「はい……」
疾風はうなずいたが、それでも話すのが辛そうだった。
「私がその話を聞いたのは、単なる噂なのです。里長のお母上様、朱瑠さまのお婆さまにあたる方が、朱瑠さまを岩の里に預けてはどうかと言っているらしい、という噂でした。
当時の朱瑠さまは、不思議な話ばかりすることで有名でしたし、里長のほかのお子様たちとも馴染めぬご様子でした。朱瑠さまのご生母さまは既に亡くなっておりましたから、もしや本当に預けられたのではと……」
疾風の話は、アカルの曖昧な記憶を裏打ちするものだった。
「そうか。でも、岩のばば様からはそんな話は聞かなかったな。八神は岩の里と交流があったのか?」
「いいえ、そうではありません。朱瑠さまの母上は、岩の里の方だったのです」
「私の母が、岩の里の?」
アカルは再び目を見張った。疾風の話には驚かされてばかりだ。
「はい。里長が山中で朱瑠さまの母上と出会われ、一目ぼれをしたそうです。何度も何度も岩の里に通ってやっと妻にしたのだと、酔った折にはよく話しておられました。ですが……八神の里では周囲の目も厳しく、お母上も里に馴染めぬまま体を壊してしまわれました」
「そうだったのか……」
顔も覚えてない両親の話を聞くのは不思議な気がしたが、智至で水生比古の奥方の怒りを受けた今のアカルには、母の人生の様々なことが分かる気がした。
「母は、岩の里の人間だったんだな」
アカルはしみじみと嬉しそうにつぶやいた。
ずっと外の人間だと思っていた自分が、岩の里に縁ある者だった。アカルにとって、それは何よりも嬉しい知らせだった。
「なるほどな、巫女殿の力は岩の里の母上譲りと思うと納得だな」
青影はそう言ってニンマリと笑う。
「しかも、八神の里長の娘だったとは。あんな事がなければ、金海へ行っていたのは千代姫ではなく巫女殿だったかも知れんな」
陽気にわっはっはと笑う青影のお陰で、しんみりとしていた夕餉の席はいきなり賑やかになった。
「いやいや青影さま、この朱瑠が大人しく金海へ嫁に行くと思いますか? 俺は無理だと思いますね。それに、水生比古さまは朱瑠を養女にはしなかったでしょう」
青影の盃に酒を注ぎながら、夜玖がチラリと意味ありげな目をアカルに向けて来る。
アカルは夜玖の視線の意味を悟って顔をしかめた。
「それはないよ。八神が賊に襲われなくても、私はきっと岩の里に預けられていただろう。今と何も変わらないよ」
そう、何も変わらないのだ。
どちらへ転んでいても、自分の人生は岩の里と共にあったのだ。自信をもってそう言えることが、アカルは嬉しかった。
「明日は早く立つのか?」
「はい。青影さま、私の荷物を弥山の宮で預かっては貰えませんか?」
用心のため、青影にも行先は告げていなかった。旅に出るにしても岩の里に戻るにしても、青影や水生比古に貰ったたくさんの衣などは持って行けない。
「もちろん、構わんよ。旅は身軽が一番だからな」
青影の優しい言葉に、アカルは笑顔でうなずいた。
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