十一 修練
翌日から、アカルの行儀見習いが始まった。教えてくれるのは、この
「お前の話し方はまるで男のようですね。若い娘が、なんと嘆かわしい!」
行儀見習いが始まるなり、葵はすぐにアカルの言葉使いの悪さを嘆いたが、その忍耐強さは素晴らしかった。間違えば何度も言い直させ、立ち居振る舞いにおいては柳の枝を片手にビシビシとしごいた。
柳の枝を繰り出す葵の手業は厳しくて、アカルは毎日休憩時間が待ち遠しくて仕方がなかった。
──そんなある日。
休憩時間に廊下へ出て行くと、庭を歩くソナと女官の群れを見かけた。
それはここ数日よく見かける光景で、アカルはそれを見るたびに落ち着かない気持ちになった。
このところ雨の降らない日が続いている。しかも今日は日差しが暑いくらいだというのに、女官たちは飽きもせずにソナについて回っている。
金海の王子であるソナの人気は日に日に上昇していて、少しでもお世話をしたい女官たちが毎日のようにとソナの近くへ集まっていた。
それは女官長の葵が嘆くほどで、女官たちがソナの噂で盛り上がる声を耳にしない日はなかった。
その頃から、アカルは無表情の仮面を装着するようになった。そうするだけで、落ち着かない心も静まってゆくような気がした。
「おや、金海の王子に駆け寄らない女官がいると思ったら、
高殿の方から
「そうですね」
素っ気なく答えるアカルに、水生比古は意地悪そうな笑みを浮かべた。
「なぁ朱瑠。もしもあの中の誰かが、ソナと共に西方へ行くと言い出したらお前どうする?」
「……祝ってやる」
アカルはもう、水生比古の言葉で動揺しないと心に決めていた。
「強情だな。いいのか、ほかの女にソナを取られても」
「べつに。ソナ王子は私のものじゃない」
「まぁ、お前がソナと一緒に行きたいと泣いて頼んでも、私はお前を手放さないがね」
「そんなくだらない話をしに来たのか?」
アカルは水生比古を冷たい目で見上げた。
「こんな行儀作法の練習などさせて、今度はどこへ送り込むつもりだ? 言っておくが、千代姫の時のように守る仕事ならともかく、密偵のような仕事なんて無理だぞ」
「そうだな」
水生比古があっさりとうなずいたので、アカルは余計に腹が立った。
「アカル! 水生比古さま」
渡り廊下に立つアカルたちに気づいたソナが、手を振りながら駈け寄ってくる。
「水生比古さま、少しアカルを借りていいですか?」
礼もそこそこにソナが明るくそう言うと、水生比古がいきなりアカルの肩をつかんだ。
「いや、残念だな。朱瑠は休憩が終わった所だ。また今度にしてくれ」
にっこり笑ってアカルの肩を押す。
アカルはソナに軽く会釈をして、そのまま葵が待つ部屋へ戻ろうとした。
「ずいぶん従順だな。私のことなど気にせず、あいつと話してくればいいのに」
後ろからついて来た水生比古が耳打ちしてくる。
アカルが無視すると、水生比古はアカルの肩を掴んだ。
「まさかお前、ソナと会わないようにしているのか?」
アカルの心臓が一瞬跳ね上がった。心の内を言い当てられて思わず動揺が顔に出てしまったが、水生比古の方へ振り返った時には元の無表情に戻っていた。
「いいえ。葵さまがうるさいので、真面目に仕事をしているだけです」
丁寧な口調でそう言って、肩に置かれた水生比古の手を振り払う。
そのまま葵の待つ部屋へ戻ろうとして、ふと、良いことを思いついた。
「そうだ水生比古さま、私をからかう暇があるなら、
「なに、泡間に入りたいのか?」
水生比古は怪訝そうな顔をする。
「はい。自在に出入り出来たら便利ですからね」
アカルが頼んでも、水生比古は乗り気でないのかなかなか答えない。
「実は……金海で乗馬中に矢を射られたことがあるんだ。私は武術など使えないし、もしも今後そういう事態になった時、泡間に逃げ込めれば少しは安心だと思うんだ」
「なるほど。危険回避に使いたいのだな。わかった。考えておく」
水生比古の「考えておく」ほど当てにならないものはないが、今は気にしないことにした。
三日ほど経った頃、ようやくお呼びがかかった。
「朱瑠、水生比古さまがお呼びだ。ついて来い」
行儀見習いを終えた夕刻、夜玖が呼びに来た。
連れて行かれたのはずいぶんと奥まった場所で、小さな離れ宮の前には、三方を板塀で囲んだ白砂の庭があった。
「ここは私が幼いころ、修練に励んだ場所だ」
庭に面した廊下で水生比古が待っていた。
「へえ、あなたでも修練なんかしたんだ」
「するさ。教えてくれる師がいなかったから自己流だが、とにかくあの頃の私は、父のすることをすべて真似してみたかったんだ」
白砂の庭を見ながら微笑む水生比古の顔は、見たこともないほど穏やかだった。
「私は何の修練もしたことがないけど、それでも出来るかな?」
「お前が泡間に入りたいと言ったんだ。やるしかないだろう」
「そうだった」
アカルは深呼吸をして心を整えた。
「何をすればいい?」
「そうだな、やり方は人それぞれだが……私はあの砂の庭に座って、見えない手を伸ばして入口を探した」
「見えない手?」
「そう、自分には見えないもう一つ手だ。私が教えられるのはそれだけだ。泡間への道は自分で探るしかない」
「わかった」
アカルは短い
四角い白砂の庭の中央に座り、アカルは心を落ち着けた。
両手を合わせて目をつぶり第三の手を想像するが、それはお腹から生えていたり首から生えていたりと珍妙なものばかりで、思わず苦笑してしまう。
アカルは仕方なく、見えない両手があるように想像してみた。本物の両手と同じように肩から生えていることにすると、案外上手くいった。そこから見えない両手をするすると伸ばして、泡間への入口を探す。
(そもそも、泡間への入口ってなんだ?)
あのとき水生比古は一瞬でそこへ移動し、また一瞬で戻ってきた。アカルはめまいがしたくらいで、この世と泡間との境目など自覚する暇もなかった。
「この離れ宮には自由に出入りして良い。暇をみて好きな時に修練に励め」
水生比古はそう言って去っていった。
結局その日は夜遅くまで座り続けても、泡間への手掛かりすらつかめずに終わった。
〇 〇
自分の離れ宮に戻ると、庭に面した縁台に人影が見えた。縁台に腰かけて足をぶらぶらさせている様子で誰だかわかった。
「ソナ、どうしたんだ?」
アカルは持ち手のついた灯明皿を持ったまま縁台に出て行った。小さな灯りが縁台をほのかに照らす。
「やっと会えたねアカル。きみの離れ宮を見つけるのに苦労したんだよ」
「そうか、悪かったな」
アカルはソナの隣に腰かけた。こうして星空の下で並んでいると、金海での日常が戻ってきたような気がした。
「水生比古さまは、アカルを独り占めし過ぎだよ」
ソナは不貞腐れていた。
「あいつは、自分の手駒をソナに取られると思ってるんだ。馬鹿な事を。西方へは行かないと言ったのにな」
「アカル……」
「私の里の話はしたよな?」
「ああ。岩の里だろ」
「うん。岩の里の老巫女は、水神の贄にされて川に流された私を救い、この年まで育ててくれた恩人なんだ。もうずいぶん高齢だから、いつぽっくり逝ってしまうかわからない。私はあの婆さんに恩返しがしたいんだ」
「アカル、今夜はずいぶん饒舌だな。俺に諦めさせたいの?」
首を傾げるソナをアカルは真っすぐ見つめ返した。ソナの金色の瞳は暗くて良く見えなかったけれど、それが救いだった。
「ソナと一緒に行けないのは残念だけど、自分で決めた事なんだ」
「わかったよ」
ソナは縁台からひょいと飛び降りて庭に立った。
「でも、まだ準備は出来てない。アカルの気が変わったら言って。待ってるから」
手をヒラヒラさせて庭の奥へと消えてゆく。
「……変わらないよ」
アカルは誰もいない庭に向かって小さく答えた。
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