十二 巫女の影


 朝方からシャワシャワという蝉の鳴き声で起こされるようになり、斐川ひかわの宮は本格的な夏を迎えていた。

 アカルはいつものように立ち居振る舞いの稽古をしていた。

 女官の夏衣は薄くて軽いが、裾が長いのでそれほど涼しくはない。


「暑いな」


 アカルは手で汗をぬぐうと、水を張った器を乗せた高御膳を持ち上げた。この高御膳に水を入れた器を載せて、こぼさずに運ぶことが出来たら合格だとあおいから言われていた。

 炊屋かしきやから葵の待つ高宮までの廊下を一人しずしずと歩くアカルの横を、武人の一団が通りすぎる。濃紺の上下に身を包んだ大柄の一団の中から、一人が立ち止まり振り返った。


「誰かと思えば、山猿巫女ではないか。女官に化けても尻尾が見えているぞ」


 嫌味たっぷりの言葉を投げつけて来たのは、水生比古の警護の武人のひとりで、アカルに向かって抜刀した兼谷かなやという男だった。


「シッポか、上手いことを言うな」


 アカルは笑った。

 自分でも、とうてい女官のマネなど出来そうに無いと思っていたところだ。


「私をどこに送り込むつもりか知らないが、とても役に立ちそうもないな」


 平然と言葉を返すアカルに、兼谷は眉間のしわを深くした。


「お前、馬鹿か? その行儀作法が本当に探女さぐめの訓練だと思っているのか? 水生比古みおひこさまが、自分のお気に入りの女を手放すとでも思っているのか?」

「おい、やめろ」

「黙れ兼谷!」


 仲間の武人が兼谷の腕をつかんで立ち去ろうとするが、兼谷は動かない。


「それは……どういう意味だ?」


 アカルの手から高御膳が滑り落ちる。

 大きな音を立てて廊下に落ちた高御膳の上から、水をまき散らしながら器が転がり出てガチャンと割れた。


「確認したけりゃ、大御殿に行って水生比古さまに直接聞くんだな」


 せせら笑うような兼谷の答えを聞いて、アカルは踵を返した。

 そのまま大御殿まで走りきざはしを駆けあがる。


「ここから先は誰も入れぬ!」


 戸口を守っていた二人の武人が槍を交差させてアカルを阻んだ。


「大事な話があるんだ、入れてくれ!」


 アカルは叫んで槍につかみかかったが、すぐに取り押さえられてしまった。


「何を騒いでいる」

 戸がほんの少し開いて、夜玖やくの顔がのぞいた。


「夜玖! 入れてくれ。話があるんだ!」

朱瑠あかる……」


 夜玖の顔が困惑したように歪む。


「構わん。開けてやれ」

 奥から水生比古の声がすると、アカルを取り押さえていた武人の手が緩んだ。



 部屋の中には水生比古と夜玖しかいなかったが、水生比古の前には地図のようなものが描かれた布がたくさん広げてあった。仕事を中断されたにも拘らず、水生比古は柔らかい表情でアカルを見上げた。


「どうした朱瑠? お前だから特別に部屋に入れたが、今は大事な話をしているところだ」


「特別?」

 アカルは怒りを抑えるようにぎゅっと唇を結んだ。

「聞きたい事がある。私がしている行儀作法は、探女の訓練ではないというのは本当か?」


「誰がそんなことを言った?」

「答えて!」


 深く刻まれたアカルの眉間のしわを見て、水生比古は目を細めた。


「お前に探女は無理だろう。だが、私の臣下としての訓練には違いない」

「では、仕事の内容を教えて欲しい。私が行くのは何処の国だ?」

「まだ決めていない」

「決めてないって、どういう事だ?」


 アカルが詰め寄ると、水生比古は呆れたようにため息をつく。


「お前が泡間あわいに入れるようになったら決めるつもりでいた。どうだ、入れるようになったか?」


 アカルはグッと唇を噛んだ。もう何日も修練を続けているのに、まだ泡間に入る糸口すら見つけられていない。


「なんだ、まだなのか。それではお前に任せられる仕事は無いな。私がもう一度手本を見せてやろうか?」

「手本?」


 水生比古はゆっくりと立ち上がると、片方の手をアカルの背に回した。

 一瞬でまた景色が変わった。けれどそこはアカルの知っている草原の風景ではなく、まるで灰色の靄の中にいるような何もない空間だった。


「ここは……」

 アカルは周りを見回したが、確かなものは何ひとつ見えない。

「ここも泡間なのか?」


「そうだ。泡間の結界の中は自分の心ひとつで見える景色を変えられる」

「じゃあ、今は何も考えてないってこと?」


 アカルは怒りを忘れて尋ねたが、水生比古は呆れた顔でアカルを見下ろした。


「お前はもう少し用心することを覚えた方がいいな。私と二人きりの場所で、誰も助けに来られないというのに」


 アカルの背中に回っていた水生比古の腕に力がこもり、強く抱き寄せられた。

 水生比古の大きな手が首の後ろに回り、後頭部を強くつかまれた瞬間、ふいに、歌垣の夜を思い出した。

 脳裏に浮かぶのは、思いつめた瞳で自分を見るトーイの顔。

 ハッと我に返ったアカルは、両手を伸ばして水生比古の口を塞いだ。


「ほう、何をされるか察したようだな。誰にされた? ソナか?」

「違う!」


 アカルは大きく首をふる。


「では誰だ? 私の知っている者か?」

 微笑むように細められた水生比古の目が、剣呑な光を放っている。


「あなたには関係ない。私の……命の恩人だ」

 アカルは力の限り水生比古を押し退けた。


「恩人……か」

 ふいに水生比古の目が和らいだ。諦めたようなため息がもれる。

「放してやるからそう睨むな」


 言葉通り水生比古はすぐに手を放したが、アカルは睨むのをやめなかった。


「あなたの臣下になると約束した。だから仕事はする。その代わり、二度と私に触れるな!」

「それはずいぶん酷い条件だな。まぁ……仕方ないか」


 水生比古は降参すると言うように両手を上げた。


 チリチリチリ──。

 アカルがようやく肩の力を抜いた時、不快な音が頭の奥に響いた。

 何の音なのか、いつから鳴っていたのかわからない。どこから聞こえて来るのかもわからなかったが、その音はやがて、切れ切れに聞こえる人の声のようなものに変わった。

 アカルは耳を澄ました。


「どうした?」

「いま、声が聞こえたんだ。人の気配もする。覚えがある気配なんだ」


 注意深く記憶を手繰り寄せるうちに、悲鳴のような少女の声を思い出した。


「あ……あの時だ! 千代姫の呪いを解いた時」


 アカルがそう言うと、水生比古は穏やかな気配を消し去った。


「千代姫に呪いをかけた術者が、この泡間に居るのか?」

「居るのかどうかはわからない。でも、たぶん……繋がっている」


 アカルは注意深く少女の気配の源を探した。



 ○     ○



(────誰かが、私を見ている?)


 自分に注がれる視線を感じて、十世とよはほんの一瞬、心が飛んでしまった。


「十世……十世! 聞いているのか?」


 厳しい声で問いかけられ、十世はビクッと肩を震わせた。遠くに飛んでいた意識が、一瞬で地べたに伏せる自分の元に戻って来る。

 恐る恐る顔を上げると、武輝たけてる王と満照みつてる王子の顔が並んでいた。がっちりと肉付きの良い親子は、目の周りを縁取る青黒い刺青を抜きにしてもよく似ていた。


「……聞いております」


 十世は蚊の鳴くような声で返事をした。

 この親子を前にするだけで、十世の心は恐怖に縮んだ。粗相をすれば、彼らはすぐに刃を引き抜いて十世を罰するだろう。それがわかっているのに、つい視線に気を取られてしまったのは失敗だった。


依利比古いりひこ姫比きび国に赴くことになったのは知っているな?」

「はい」

「依利比古に連絡用の使鬼しきをつけろ。良いな」

「はい」

「今度はぬかるなよ」

「はい」


 ひたすら頭を下げ続けて、似たもの親子が出て行くのを待った。

 ホッと息をついて顔を上げると、先程までは離れた位置に立っていた依利比古が十世の前までやって来た。


「使鬼をお付けいたします」


 美しい依利比古の顔を見て心を和ませた十世は、衣の裾を気にしながら立ち上がった。

 壁際の棚に並んだ壺の中から一つを選んで手に取ると、それを祭壇の上に置く。

 壺に入っているのはかつて捕らえたモノたちで、十世が選んだのは美しい尾羽をもつ鳥の化生だった。


 使鬼とはいえ、大好きな依利比古に女の気を持つものをつけたくはない。だから、あえて雄鳥の化生を選んだ。力は弱いが連絡用ならば役に立つ。

 ポンと壺にねじ込まれていた木の蓋を取ると、ゆらゆらと白い煙のようなものが出てきた。白い煙が少年のような人型になると、額に貼られた呪符が見えた。


「依利比古さま、お手を……」


 心を弾ませながら、十世は手を差出した。その手の上に、依利比古が無言で手を乗せる。


「依利比古さまの血を一滴、頂きます」


 邪気を払った針を依利比古の指先に刺すと、ぷくりと小さな赤い雫が膨らむ。十世はその指先を白い少年の呪符に落とした。


「この者に名をお与えください」

「……葉月はづき

「これでこの者は、あなたさまの使鬼でございます」


 十世は依利比古の指先を丁重に拭うと名残惜しそうに手を離したが、目は依利比古の顔から離れようとしない。

 形を成した使鬼・葉月の姿を見つめる依利比古は、いつにも増して美しかった。


 普段は目を合わそうともしない依利比古の視線が、ふいに十世を捕らえた。


「十世、いつまでも怯えてばかりでどうする。そのままではいつまで経っても今の状況からは抜け出せないぞ。もっと自分の力を有効に使え」


 鋭利な刃物のような鋭さで、依利比古は十世を叱咤した。


「は……はい、依利比古さま」


 自分を心配してくれたのだ。そう思うと、十世は嬉しさのあまり打ち震えた。

  

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