十 白い女


 瞬く間に、高宮に戻っていた。

 もう武官たちは持ち場へ戻ったのか、夜玖やくだけがひとり高宮に残っていた。

水生比古みおひこさま、どこへ消えていたのですか!」

「面倒を押し付けてすまなかったな、夜玖」


 水生比古が夜玖に歩み寄るのを見て、アカルはひとり高宮の外へ出て行った。

 泡間あわいへ行ったせいなのか、船酔いのような頭痛とめまいがしていた。

 戸と廊下の段差に座り込むと、静かな庭が見えた。昨夜からしとしとと降り続いていた雨は、今は勢いを増して雨音高く降り続いている。


(……何でこうなるんだ)


 水生比古が相手だとまるで歯が立たない。ただ翻弄されるばかりの自分が悔しくて情けなくて、アカルは座りこんだまま頭を抱えた。

 雨が勢いを増したせいか、廊下には誰もいない。

 ふと、白いものが目の端に映った気がして顔を上げると、正面の廊下の先に白い衣を着た女が立っていた。


(あれは……昨夜の)


 見覚えのある姿にアカルは息を呑んだ。

 こちらに向かって歩いて来る可憐な白い花のような姿を、アカルは魅入られたように見つめた。

 雨音のせいなのか、足音ひとつ聞こえない。

 女は優しい笑みを浮かべたまま、真っ直ぐアカルの前まで来ると、いきなりアカルの首に両手を絡ませた。


「うっ……」

 女の白い手がアカルの首を絞める。

 必死に抵抗し引きはがそうとしても、首に絡んだ手はゆるまない。それどころか、万力のような力でアカルの喉を締めつける。


(この人は……)


 アカルの喉が空気を求めて震えた。

 白い姿がぼんやりと滲んで、気が遠くなってゆく。

 どこか遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえたが、何を言っているのかわからなかった。




 激しく揺さぶられた。

 急に息が出来るようになって、アカルは涙が出るほど咽かえった。

 目を開けると、目の前に水生比古の顔が見えた。


「朱瑠! 大丈夫か?」

 水生比古がアカルの体を抱いていた。

 廊下の先には、武人に取り押さえられている白い女の姿が見えた。

「あの人は……誰?」

 アカルは震える指先を、白い女に向けた。


「私の妻の一人だ。ずっと体調を崩して寝込んでいたはずだ」

 水生比古は、苦いものを飲み込んだような顔をしている。

「あの人は……昨夜の物の怪だ。たぶん、知らないうちに生き魂を飛ばしていたんだ」

鈴音すずねが、そんな事を……」


 訳が分からないと言うように水生比古は首をふる。

 たくさんの奥方を持つ水生比古には、きっと一人一人の思いを汲むような暇は無いのだろう。婚姻は政治だと言っていたくらいだ、相手もそうだと思い込んでいても不思議ではない。けれど、アカルには鈴音の気持ちがわかった気がした。首をつかまれた時に、哀しい情念のようなものが流れ込んできたからだ。


(あの人は、自分の夫に恋するあまり、水生比古さまが気にかける者を排除したかったんだ)


 その一途さが怖ろしかった。

 抱き上げようとする水生比古の手を、アカルは勢いよく振り払った。


「私のことより、あの人を気にしたらどうだ。あなたのせいで、あの人は私を襲ったんだ。どんな気持ちだったのか、ちゃんと理解したらどうなんだ。それが、たくさんの妻を持つ男の務めではないのか?」


「朱瑠……」

 いつも自信に満ち溢れていた水生比古の表情が、困惑した情けない顔になっていた。

 アカルは水生比古から、もう一度鈴音の方へ視線を戻した。


(これが、恋か……)

 鈴音の存在が別の恐怖となって、じわじわとアカルの心に迫ってくる。

(怖ろしい……こんな風に人の心を狂わせてしまうのなら、私は一生、恋などしたくない)

 アカルは力の入らない足でよろよろと立ち上がった。


 〇     〇


 その日一日、アカルは離れ宮から出なかった。

 鈴音のことが、なかなか頭から離れてくれなかった。


(ソナに会いたいと思うこの気持ちは……恋なのだろうか?)


 アカルは自分の中に生まれた感情を初めて自覚した。それは、一歩間違えたら彼女と同じ狂気に囚われてしまうという、恐怖に満ちたものだった。


(恐ろしい……)


 恋心など消えてしまえばいいのに。

 そう思っても、ソナの事を考えるだけで甘く温かな感情が胸に広がってゆく。

 頭から追い出そうと思えば思うほど、ソナの光に透ける巻き髪や黄金のような明るい瞳が、自然と頭の中に浮かんでくる。

 それはまるで、見えない縄に縛られているようだった。




 食欲がないので食事を断ると、日が暮れてから夜玖がやってきた。

「朱瑠、気持ちはわかるが、ちゃんと飯を食え」

 夜玖は持って来た平たい器をアカルのそばに置いた。その器には小さな塩にぎりが二つ乗っていた。


「水生比古さまは、お前の言葉をちゃんと実践しているぞ。鈴音さまにお咎めはなかったし、原因を取り除こうとしておられる」

「そう」

 アカルは素気なく答えた。


 水生比古と鈴音の事などもう気にしていなかった。彼女にまた襲われるのではないかという不安もなかった。それよりも、アカルは自分のことで精いっぱいだった。


「なぁ朱瑠、世の中のことに疎いお前にはわからないだろうが、水生比古さまだって好きでたくさんの妻を持っている訳じゃないんだ。一国の王、それもこの辺りの宗主国の王ともなると、同盟国の方から娘をもらってくれと言ってくる。それを受けなければ、同盟を破棄されると相手に誤解されかねんのだ。水生比古さまは、今までだって出来ることはしてきたんだ」

 夜玖は自分の主を必死に庇う。


「なぜそんな話をするの?」

「だってお前……鈴音さまに襲われて、怒っているんじゃないのか? だから、飯も食わずに引き籠っているんだろ?」

 夜玖は戸惑ったようにアカルの顔をのぞき込んでくる。

 アカルは大きなため息をついた。


「違うよ。あの奥方には同情してる。私が引き籠っていたのはソナ……じゃなくて、水生比古さまに脅されて、臣下になると言ってしまったからだ」

 アカルは嘘をついた。夜玖に、ソナへの思いを話すわけにはいかなかった。


「本当なら、私は今頃、岩の里に帰っていたはずなのに……」

 アカルはそう言ってから夜玖が持って来た塩にぎりに手を伸ばすと、パクリとかじった。

「塩辛い……」

 ふくれっ面のまま塩にぎりを食べるアカルを、夜玖は呆れたように見つめた。


「水生比古さまはお前を気に入っている。お前はあの里へ帰りたいと言うが、お前が水生比古さまに仕えることは、あの里のためにもなると思うぞ」

「戦になったら守ってくれるからか?」

「それだけじゃない。飢饉や流行り病の時にも助けてやれる」

「ふうん」

 そんなことは助けてもらわなくても大丈夫だと思ったが、言うのをやめた。


「で、次はどんな仕事をするんだ? 私は何処へ行かされる?」

 アカルが食いつくと、夜玖は困ったように笑った。


「それなんだが……お前、しばらくはここで行儀見習いだ。金海での侍女見習いがあれでは、俺とて報告しない訳にはいかなくてな。立ち居振る舞いと、お前の場合はなんと言っても言葉使いだ。次の任務までにキッチリ身に着けてもらうことになった」

 仕事熱心な夜玖の顔を見返しながら、アカルはもう一度、重いため息をついた。

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