九 泡間(あわい)


 いつの間にか、夜が明けていた。

 アカルは宮の外に佇む人影が気になって、あまりよく眠れないまま朝を迎えた。

 身支度を整えていると女官がやって来た。

「朝餉の用意が出来ております。こちらへどうぞ」

 女官の後について行くと、昨夜とは別のこじんまりとした高宮へ案内された。


「よく眠れたか?」

 高宮には水生比古みおひこが座っていて、高御膳がふたつ、向かい合うように用意されていた。

「あまり……夜玖やくとソナ王子は?」

 アカルは仕方なく、水生比古の向かいに座った。


「あいつらはまだ休んでいるだろう。昨夜は遅くまで飲んでいたからな。私と二人では不服か?」

「べつに。いただきます」

 両手を合わせて木の匙を手に取る。朝餉は菜入りの粥と魚の煮物だった。


「眠れなかったとは、何か気になる事でもあったか?」

「いえ、庭の人影が気になって……一度消えたから物の怪だと思うけど」

「物の怪?」

 水生比古はぽかんと口を開けた。


「ずっとこっちを見ているから気になっただけで、べつに害はなかった」

「ほう、その物の怪は男か?」

「いや、女のようだった」

「そうか……」


 アカルの答えに水生比古は一瞬首を傾げたが、すぐに話題を変えた。

「昨夜は面白かったぞ。ソナはずいぶん、自分の中に流れる西方の血を気にしているようだな。西方へ行く話も聞いたぞ」

「そう」

「お前も、ソナと一緒に行きたいのではないか?」

 いきなり心の迷いを見透かされた気がしてぎくりとしたが、アカルは平静を保ったまま水生比古の顔を見返した。

「……そんなことは考えたこともない」


「隠さなくても良いぞ。顔を見ればわかる。お前、ソナに恋しているだろう? あいつの淡い色の髪や宝石のような瞳は八洲やしまの人間には無いものだからな」

 からかうように笑ってはいるが、水生比古の目は冷たい光を宿している。

「それはない」

 アカルが断言しても、水生比古の顔からは冷たい微笑は消えない。


「ソナは、お前を連れて行きたいと言っていたぞ。むろん、私は断ったがな。お前は私の大切な手駒だ、手放すつもりは無い」

 アカルは眉をひそめた。

「手駒? あなたの命に従うのは一度きりだ。あなたも同意したはずだ?」

「お前の仕事次第とは言ったが、約束をした覚えはないぞ」


「そんな! 千代姫の護衛はちゃんと務めだじゃないか。あなたはそれでも一国の王か!」

 アカルが怒りを露わにしても、水生比古は落ち着き払っている。

「あなたが何と言おうが、私は岩の里に帰るからな!」

 もう優雅に朝餉など食べている場合では無かった。アカルは匙を置いて立ち上がった。


「貴様、無礼だぞ! 水生比古さまが優しくしているからといって付け上がるな!」

 今まで無言で戸口を守っていた武人が抜刀した。

「えっ」

 武人の勢いに、アカルは目を見張ったまま体を強張らせた。

「控えろ、兼谷かなや

 立ち上がった水生比古が、アカルを守るように抱き寄せる。


「いいえ、許せません!」

 止めてもなお向かってくる武人に、どこから現れたのか夜玖が駆け寄るのが見えた。

 他の武人もわらわらと部屋に乱入して来る。


「……面倒な」

 耳元で、舌打ちするような水生比古の声が聞こえたと思った途端、まわりの景色が一変した。さっきまで美しい高宮の室内にいた筈なのに、いつの間にかどこまでも続く草原のような何もない場所にアカルは立っていた。


「ここは?」

 夢を見ているのかと思った。けれど、すぐそばにいる水生比古の霊威も、アカルの肩を抱く大きな手の感触も夢とは思えなかった。

「ここは泡間あわいだ。お前ならわかるだろう、我らの世と神々の世の狭間だ」

「神域とは違うのか?」

「似たようなものだ」


 そこは山猫の王を解放した闇の空間や、狼の王に引き込まれた空間にどこか似ていた。けれど、彼らの創った領域に入ることは出来ても、アカルには自分でその空間を創り出すことなど出来ない。


「あなたはいったい何者なんだ? 智至ちたるの王なのに、巫女のような力を持っている」

 平然としている水生比古を、あらためて怖ろしいと感じた。

 水生比古のそばから身を引こうとしたが、がっちりと肩を抱えられてしまう。


「私はお前を手放す気はないと言ったが、せっかく二人きりなのだからはっきり言おう。朱瑠、私の妻にならぬか?」

 冷ややかな目に真っすぐ見つめられて、アカルはさらに身をすくませた。

「は……何言ってるの……なるわけないだろ」

 震える手で水生比古の体を押しのけようとするが、びくともしない。


「つれないな。おまえが金海へ行ってから、私はお前の事ばかり考えていたというのに」

「そんなの知らないよ。私のような小娘で良いなら、千代姫を妻にすればよかったんだ。彼女はあなたのことを崇拝していたぞ」

「千代は関係ないだろう。お前でなければ私には意味がない」

 水生比古はアカルとの攻防を楽しむように、一層アカルの体を抱き寄せる。


「放せ! あなたには奥方がたくさんいるんだろ? 私がそんな男の妻になると思うか?」

 アカルは水生比古を突っぱねた。

「そう言われたら仕方がないが……もしも私にひとりの妻もいなければ、おまえはうんと言うのか?」

「……いや、それでも断る」


 水生比古の力がわずかに緩んだ。

「本当につれないな。私は、自分の意志で妻を娶ったことはない。私の婚姻はすべて同盟の絡んだ政治の一部だ。若い頃は、国のためならそれでもいいと思っていたんだがな」

 アカルはハッとして水生比古を見上げた。

「千代姫も、似たようなことを言ってた」


「そうか。国を動かすためにはしなければならない事もあるが、巫女のお前がそれを理解出来ないのもわかる。仕方がないから妻は諦めるが、臣下として私に仕えてくれ」

 水生比古の目は、自らの提案を面白がるように笑っていた。


「どちらも断る」

「それはだめだ。お前が選べるのは妻か臣下の二つに一つ。選ぶまではこの泡間から出られないぞ。確かめてみるか?」

 水生比古はそう言ってアカルを腕の中から解き放った。


 アカルはすぐに草原の中を駆けまわった。

 広々として見えるのに、どんなに走っても水生比古が立っている場所からなかなか離れない。空間のゆがみや切れ目を探しても見つけられず、鴉の王や狼の王に助けを求めても、応える声はなかった。

 結局、アカルは泡間から出る方法を見つけることが出来なかった。


「泡間と言っても、ここは私の創った結界の中だ。泡間にいるモノでもそう易々とは入って来れぬ」

 ゆっくりと近づいてくる水生比古に、アカルは振り返った。

「あなたは、本当に人の子なの?」

 とても普通の人間だとは思えなかった。

 本気で怯えるアカルを見透かすように、水生比古は笑った。


「もちろんだ。私の父、先の智至王だった櫛比古くしひこは、私よりもっと大きな力を持っていたぞ」

 水生比古は立ちすくむアカルの手を取った。

「お前はいずれ、私の父に会うことになるだろう」

 ぐっと手を引かれ、アカルは再び水生比古の腕の中に囲い込まれた。

「さぁ、どうする? 妻になるか、それとも臣下として仕えるか、答えは決まったか?」


 アカルは身じろぎをして顔を背けると、ぎりっと唇を噛んだ。

 水生比古の手のひらの上で転がされているのがわかった。自分が臣下を選ぶしかない事をわかった上で、彼がそう仕向けている事も。

 それでも、ここから抜け出すには選ぶしかなかった。


「仕方がないから、臣下になるよ。だけど、私が心からあなたに仕えると思ったら大間違いだ」

「構わんよ」

 水生比古は満足げに笑った。 

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