九 鴉の王の誘い



朱瑠あかるが目を覚ましたって?」


 どかどかと足音を響かせて、夜玖やくがアカルの部屋に駆け込んできた。

 布団の上に座ったまま、女官から渡された濡れた布で顔を拭いていたアカルは、寝起きのぼんやりとした顔で夜玖を見上げた。


「おはよう……ヤゴ」


「だから、夜玖だって!」


 アカルに文句を言いながら、夜玖はせわしなく、笑い顔と怒り顔とを繰り返した。


「大体おはようって、お前……三日も寝てた奴が何をしれっと……俺たちがどれだけ心配したと思ってるんだ!」


「私は、三日も寝ていたのか? 何だか長い夢を見ていた気がするが……それは済まなかったな」


 ぽかんとしたままアカルが謝ると、夜玖は拍子抜けしたように表情をくずした。


「いや、お前は任務を全うした訳だし、疲れていた訳だし、俺たちが勝手に心配したんだから、お前が謝る必要はないんだが……」


 うつむいたまま一生懸命に褒め言葉を探そうとしている夜玖を無視して、アカルは女官に尋ねた。


「で、千代姫はどう?」


「はい。巫女様が呪いを解いてくださったあと、千代姫さまは目覚められ、もう大丈夫だと仰せになりました。まだ軽いものしか喉を通らないご様子ですが、体力がつけば元の千代姫さまに戻られるでしょう。本当にありがとうございました」


 女官は丁寧に頭を下げた。


「そうか、良かった」


「すぐに巫女様のお食事をご用意いたします」


 女官が去ってゆくと、アカルと夜玖は顔を見合わせた。


「呪いは解いたのだから、私はもう帰っていいんだよな?」


「いやっ、まだだ!」


 夜玖はあわてて、突き出した両手を左右に振る。


「千代姫さまが回復されるまでは、何が起こるかわからない。お前にはまだここにいて欲しいと、水生比古みおひこさまからも通達があったのだ」


「ふうん」


 アカルは不満げに唇を突き出した。会ったこともない奴に命令されるのは嫌な気がした。


「それじゃあ私は、千代姫が元気になるまで何をしていればいいんだ? 薬師の仕事は出来ないぞ」


「別に、何もすることはないさ。お前は誰にも出来なかった千代姫の呪いを解いたんだ。ご馳走でも食べてゆっくりしていればいい」


「ゆっくりって……」


 岩の里ではみんな自分の仕事を持っていた。仕事も収穫もみんなで均等に分けるのが里の暮らしだったから、待っていれば食事が出て来るのは病人だけだった。


(何をすればいいんだろう?)

 アカルは途方に暮れた。


〇     〇


 その夜、アカルが目覚めたことを知った青影あおかげが、アカルのために宴を開いてくれた。


「さすがは水生比古みおひこさまが推挙する、岩の里の巫女殿だ! 我らが何か月も手を尽くして出来なかったことを、たったの一晩で成し遂げてしまったのだからな!」


「誠に。さすがはわが君。櫛比古くしひこさまから受け継いだ事代ことしろの力は凄まじいものです」


 上機嫌の青影と夜玖が盃を酌み交わしている。

 高殿で開かれた宴には西伯さいはくの重臣たちも参加していたが、青影と夜玖しか知った顔がいないアカルには正直退屈だった。


 次々と運ばれてくる豪華な食べ物や飲み物も、そうそう食べられるものではない。

 夜が更けるにつれ、酒が回って大はしゃぎを始めた男たちに辟易して、アカルは宴の座から抜け出した。


「……まったく、よくもあれだけ飲み食い出来るものだ」

 きざはしを降りて庭に出ると、冷えた夜風と静けさが心地よかった。


(あと何日ここに居ればいいんだろう)


 する事もなく、知らない人々に囲まれて、何日も過ごさなくてはならないのだと思うと、アカルの気持ちはどんどん沈んでいった。


(トーイが居てくれたらなぁ)


 アカルは階の一段目に腰を下ろした。


(トーイが里にいたら、一緒に来てくれたかな? いや、もしトーイが居たら、ばば様は自分で西伯さいはくに来ていたかも知れないな)


 ──それだけ、あの子自身の闇が深かったってことだね。


 岩の巫女の声がアカルの脳裏に蘇った。


(私は十年もトーイと一緒にいたのに、あいつがどんな悩みを抱えていたのか、気づいてやれなかったんだな)


 岩の巫女はトーイの抱える闇も、出て行った理由も知っていたに違いない。


(一緒に来てくれと言った時、トーイはどんな気持ちだったんだろう。私はどうして気づいてやれなかったんだろう。馬鹿野郎は私の方だ)


 自分が淋しいからと言って、トーイを責める資格などない。

 アカルは膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。


 バサッ バサッ

 大きな鳥の羽ばたきが聞こえた。

 羽音の主を探していると、目の前に白い鳥が舞い降りてきて、すぐ近くに植えられた細い庭木にとまった。

 その白い鳥には見覚えがあった。


「お前……岩の里にいた鴉か?」


 アカルがそう尋ねた途端、白い鴉の輪郭がふわりとぼやけて人の形になった。

 白鴉が変化した青年の姿には見覚えがあった。銀色に輝くような長い白髪と青い衣、それにこれほど綺羅綺羅しい首飾りをつけた人間は滅多にいない。


「鴉の……王?」

 夢の中で見た男の名を、アカルは口にした。


『ようやく気付いてくれたな、お嬢ちゃん!』

 夢と同じ口調で答えると、鴉の王はニヤリと笑った。


『お嬢ちゃんがオレを助けてくれたあの日から、ずーっとそばにいたのにさぁ、ちっとも気づいてくれないんだもん。お嬢ちゃんが川の里の贄にされるって、岩の巫女に教えたのはオレなんだよ』


 ペラペラと休みなく喋る鴉の王を見ているうちに、だんだんと笑いが込み上げて来た。


「そうか、あの夢は本当にあった事だったんだ……って事は、鴉の王をあの岩に縛り付けたのは、ばば様だったってこと?」


 アカルは我慢できずに、ケラケラと笑いだした。


「それじゃあ、燃えてしまったあの里が……私の故郷だったんだ」


 夢から覚めた時はあまり実感はなかったけれど、あの燃えてしまった八神やがみの里が自分の故郷なのだと、何故かすんなりと受け入れることが出来た。


「そうか、私にも故郷があったんだな」


 家族の顔も覚えてはいないし、里も既に焼け落ちてしまった。けれど、岩の里で感じていた疎外感は消え、不思議な安心感を覚えた。


八神やがみの里は、今どうなっているんだろう?」


『あの里なら平和にやってるよ。行きたければ今度連れてってやってもいいけど、今は大神岳おおかみだけの王がお嬢ちゃんに会いたがってるんだ。暇を見て会いに行ってやってくれないか?』


「大神岳の王?」


 アカルが首をひねった時だった。


「なんだ、こんな所にいたのか!」

 夜玖がアカルの姿を見つけて、階を降りて来た。


 アカルは夜玖の方を振り仰いでから、急いで庭木の方へ目を戻したが、もう鴉の王は消えてしまっていた。


「宴の主役が消えては、青影さまに失礼だぞ」


 赤い顔をした夜玖は、仕事上仕方なくアカルを探しに来たようだった。

 もう少し鴉の王と話がしたかったアカルは、がっかりしながら、座っていた階の一段目から立ち上がった。


「私はもう十分もてなしてもらった。今後はこのような席は遠慮させてもらう」


 そう言って踵を返したが、その場で立ち止まった。


「ねぇヤゴ」


「夜玖だ」


 むっつりと夜玖が答える。


「これで三回目だぞ。いい加減覚えろ」


「ごめん。動植物にちなんだ名前だと憶えやすいんだけどさ、それ以外の名前はなかなか覚えられないんだよ」


「俺は虫じゃない。こんど間違えたら張り倒すぞ」

 酔っぱらいの緩慢な動作で、夜玖は手を突き出す。


「わかったよ。ところで、ヤクは八神の里という所を知ってる?」


「ああ。西伯の東端にある里だろ? 知っているぞ」


「なら、十年くらい前に、その里の近くで戦があったかわかるか?」


「戦? いやぁ、戦はなかったはずだが……そう言えば、盗賊に襲撃されたことはあったな。西伯さいはくの軍が駆けつけるまでに、火をかけられて大部分が焼け落ちたが、確か田畑に損害はなかったはずだ」


「そうか……ありがとう」


 礼を言ってさっさと階を上ってゆくアカルを、夜玖はぽかんとした顔で見送った。

  

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