八 炎の夢
「おじさん、どうして縛られてるの?」
小さなアカルは、大きな岩に括りつけられた男を不思議そうに見上げた。
ここは深い山の中で、人が通れるような道もない。
アカルも山で遊んでいるうちに迷ってしまい、道なき道を進んでいるうちに、ぽっかりと木々の途切れたこの大岩にたどり着いたのだ。
空はもう茜色に染まっている。
(早く帰らなくちゃ、またお婆様に叱られてしまう)
そう思っても、岩に括りつけられている男から目が離せない。
男が括りつけられている大岩は、男の背丈の二倍はある。その大岩にがっちりと縛り付けられていたのは白髪の男だったのだ。
アカルは首を傾げた。
純白の長い髪は光り輝き、白い肌は瑞々しい艶を保っていて、アカルの知る白髪の老人とは全然違っている。しかも、男はとても鮮やかな青い衣を身に纏っていて、額や首には見たこともないほど綺羅綺羅しい飾りもつけている。
『これは驚いた。お嬢ちゃんにはオレが見えるのだな?』
「うん、見えるよ」
こくりとうなずいて、アカルは胸を張る。
『これはまさしく天の助けだ。お嬢ちゃん、この縄を解いてくれないか。なに、難しいことはない。お嬢ちゃんの可愛い指先で、この縄をちょっと触ってくれればいいんだ』
「触るだけで縄が解けるの? 変なの」
首を傾げながらも、アカルは好奇心いっぱいに岩に近づいた。確かに近づいて見れば、
『見てないで触ってくれよ。それだけでいいんだからさ』
白髪の男が焦れたようにそう言うのが聞こえると、アカルの脳裏には雷光のような閃きが訪れた。
「おじさん、悪いことしたんでしょ? だったらアカルは縄を解けないわ。お婆さまがいつも言っているもの。悪いことをしたら罰を受けるんだって」
アカルは腕を後ろに組むと、一歩二歩と大岩から離れてゆく。
『いやいや、お嬢ちゃん。確かにオレは悪いことしたけどさ、ちょっとした悪戯だったんだ。それなのに、岩の巫女にここに縛り付けられて、もうかれこれ三十年は経つよ。人の赤子が三十のおっさんになるまで縛られてりゃ、もう罪も償えたと思わないか?』
「さ、さんじゅうねん?」
アカルは目を丸くした。
やっと五歳になったばかりのアカルには計り知れない年月で、白髪の男が可哀そうになってくる。でも、何だか変だ。
「おじさん、本当に三十年も縛られたままなの? それにしては、お顔も衣もきれいだよ。アカルなんて山でちょっと迷子になっただけでこうなのに」
そう言って両手を広げたアカルの夏衣はあちこち泥で汚れていて、草履をはいた足
は傷だらけだった。
『そりゃそうさ、オレは人の子じゃない。鴉の王だ』
「からすのおう? からすって、あの黒い鳥でしょ?」
『そうだ。オレはワタリガラスの王だ。オレを助けてくれたら、お嬢ちゃんを家まで送って行ってやる。もうすぐ日が暮れてしまうからな。家は何処だ?』
「この山の麓にある
『そんな近くならひとっ飛びだ。さあ、縄に触っておくれ』
「わかった!」
帰りたい一心で、アカルは岩に括りつけられた空色の縄に手を触れた。
ぷつりと音がした途端、空色の縄は跡形もなく消えてしまい、目の前には満面の笑みを浮かべた鴉の王が立っていた。
『よし、暗くなる前に帰るぞ』
鴉の王は片手でひょいとアカルを抱き上げると、そのまま空を飛んだ。
「うわぁ、すごい! アカルも鳥になったみたい!」
『怖くないか?』
「うん。怖くない!」
アカルは初めて見る上空からの景色にはしゃいでいたが、山の頂を超えたところで急に口をつぐんだ。
山裾が茜色に染まっていた。
それは夕日の色ではなく、もう薄い群青の空を染め上げるほどの炎の色だった。
「火事?」
『いや、違う。戦かもしれないな』
「いくさ?」
アカルの震える体を、鴉の王は抱きしめた。
『人の子はすぐに争うからな。この様子だと、
「下ろして鴉の王! あたし行かなきゃ!」
居ても立ってもいられず、アカルは鴉の王の腕の中で暴れはじめた。
『おい、髪を引っ張るなって。下ろしてやるが、近くは危ない。少し離れた場所に下ろすぞ』
「……うん」
答えてうなずくものの、炎に染まった里から目が離せない。小さな手はぎゅっと鴉の王の衣を握ったままだ。
鴉の王は小さく息をつくと、燃え盛る集落からは少し離れた川べりにアカルを下ろした。
地に足がついた途端、アカルは里に向かって駆け出した。
「父さまぁ! お婆さまぁ!」
水田の中の道を駆け、まだ火の回っていない逆茂木と塀の間を走るアカルの前に、大きな音を立てて里の門が崩れ落ちる。
「あ……」
アカルは立ち止まった。
門の上につけられていた木彫りの鳥が、ころんとアカルの前に転がってくる。
立ちすくむアカルの耳に、とどろくような歓声が聞こえて来た。
「八神の王を打ち取ったぞ!」
「おお!」
「さすが若!」
まだ若そうな男の声に続き、取り巻きが囃し立てる声が聞こえて来る。
「……とうさま」
アカルはフラフラと吸い寄せられるように、門の中が見える所まで歩いた。
門の中には、剣を高々と夜天に掲げている男がいた。
建物を焼く炎のせいで黒い影にしか見えなかったけれど、その男は周りにいる男たちよりも一回り小さく、まだ少年のようだった。
少年が炎に顔を向けた時、額に布を巻いた顔が見えた。まだ若くて張りのある右の頬には、その若さに似つかわしくない大きな傷痕が見えた。
夜空に掲げる剣先には黒いものが刺さっていた。それが何なのかわかった瞬間、アカルは息ができなくなった。
『おい、お嬢ちゃん。ここは危ない』
追って来た鴉の王に肩をつかまれた瞬間、アカルは意識を手放した。
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