七 呪い返し


「いやぁー!」


 祭壇に向かって祈りを捧げていた十世とよが、突然悲鳴を上げて倒れ込んだ。

 白い獣が宙から現れ、十世とよの喉笛に食らいつこうとしたのだ。

 とっさに腕を上げ、喉を庇ったおかげで命は無事だったが、左腕には獣の歯形が穿たれ、見る見るうちに赤い血が腕を伝って流れてゆく。


「と、十世とよさま!」


 側仕えの女官たちが騒ぎ始めた。

 白い獣など視えていなかった女官たちは、何が起きたのかわからず怯えるばかりだ。


 十世とよは青ざめた。


 もう白い獣は消えていたが、あれは間違いなく、十世とよが捕らえて使鬼しきにした獣の神だった。


(千代姫の元に行かせたはずなのに……私は、失敗したのか?)


 腕の傷を抑えながら、十世とよは目の前が真っ暗になった。

 怪我のせいではない。この事態を王に知られるのを恐れたからだ。


「何の騒ぎだ?」


 聞こえて来たのは、満照みつてる王子の声だった。

 すぐにどかどかと騒々しい足音が近づいてきて、王子が姿を現した。


「その怪我はどうした? まさか、失敗したのではなかろうな?」

 目の縁に青黒い刺青いれずみをした満照みつてるが、蔑んだような目で十世とよを見下ろす。


「も……申し訳、ありません」


 蚊の鳴くような声で十世とよは答えた。

 武輝たけてる王も怖ろしいが、満照みつてる王子も容赦がなくて恐ろしい。


「謝って済む問題ではなかろうが! 父上は、おまえの力を見込んで、日の巫女の後継に押したのだぞ!」


「も、申し訳ありません!」

 恐怖のあまり、十世とよは傷を押さえていた手を離し、床にひれ伏した。


「だから……謝ったって駄目なんだよ!」


 満照みつてるは、ひれ伏した十世とよを思いきり蹴飛ばした。

 小柄でほっそりした少女の体が壁にぶつかり、床に叩きつけられた。


「あうっ」


 床に頭を打ちつけた拍子に唇が切れて、血が滴る。

 それでも、十世とよを庇う者は一人もいない。十世付きの女官たちも、身を縮ませて成り行きを見守っているだけだ。

 十世の頭を、満照みつてるが踏みつけた。


「父上には俺から報告しておく。おまえは次の手を考えろ。役に立たない者は、生きている価値がないと思え!」


 満照の言葉は、十世の心にぐさりと突き刺さった。


 その刹那、三年前の出来事が十世の脳裏に蘇った。武輝たけてる王に斬られて、血を流しながら死んでいった先代の日の巫女さまの姿だ。

 それは、十世の心を恐怖で支配し続ける悪夢の記憶だった。


 どかどかと足音を響かせて満照王子が遠ざかっても、誰一人動こうとはしなかった。


「何をしている? 早く十世を部屋に運び、手当てをしてやれ」


 満照と入れ違いにやって来たのは、弟の依利比古いりひこだった。

 大柄で髭の濃い兄の満照とは違い、細身で色白の依利比古には目元の刺青いれずみもない。肩先で切りそろえられた髪がもし長ければ、女性に見えるに違いない。


依利比古いりひこさま……)


 十世とよは心の中で彼の名を呼んだ。

 兄王子に遠慮しながらも、十世の身を案じてくれる依利比古は、二年前に日の巫女の後継を指名されてから、ずっと十世の心の支えだった。


(次は必ず、お役に立てるようにがんばりますから……)


 心の中でそう呼びかけながら、十世は意識を失った。


 〇     〇


 夜が更けた頃、弥山みせんの宮の端にある離れ宮に、再びどよめきが起こった。消えた時と同じように、突然アカルが姿を現したのだ。

 四隅に削り花を置いた千代姫の寝具に覆いかぶさるように、アカルは倒れていた。


朱瑠あかる!」


「巫女殿!」


 夜玖やくと青影は、アカルの元へ駆け寄った。

 ぐったりとした体を夜玖が抱き起こすが、アカルの意識はない。


「怪我は無いように見えるが……」


 青影が心配そうにつぶやいた時、夜玖の顔から緊張が解けた。

 意識のないアカルの口から、すぅすぅと規則正しい息づかいが聞こえてくる。


「大丈夫です。どうやら眠っているだけのようだ」


「そうか。眠っ……てるのか?」

 青影はホッとしたような、呆れたような笑みを浮かべると、

「どうやら無事に仕事を終えたようだな。何とも頼もしい巫女殿ではないか!」

 そう言って、わっはっはと豪快に笑いだした。


「誰か、夜玖殿を、巫女殿の部屋までご案内しろ!」


「はっ!」


 青影の近習から一人が立ち上がるのを見て、夜玖はアカルを抱き上げた。

 腕の中で静かに寝息を立てているアカルは、どこから見てもただの小娘で、夜玖の知っているどんな巫女とも違っていた。

 けれど、彼はもう、アカルのことを使えない小娘だとは思っていない。


「こんな小さい身体で、あの化け物相手に戦ってきたんだな。大したものだ」


 崇拝する水生比古みおひこの命令を全うできた事よりも、たった一晩で千代姫の呪いを解いてしまったアカルが、ただただ誇らしかった。


「目覚めたら、一言謝らねばなるまいな。水生比古さまに報告して、褒美が貰えるようにお願いしてみるか……うむ、それがいい」


 夜玖はアカルを寝所に運びながら、あれこれと考えていた。

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