一 岩の里


 煌々と月が輝いている。


 断崖の岬に囲まれた狭い入り江の砂浜に、大きな火が焚かれている。その火の周りには、岩の里の若者や娘たちが集まっている。みな小柄で丸顔、大きな瞳に彫りの深い顔立ちをしている。

 彼らは、渡海人とかいじんとの混血を奇跡的に免れた、この八洲やしまの先住民、いにしえの民だ。


 今夜は種まき前の満月の夜。年に一度の『歌垣うたがき』の夜だ。意中の相手に歌を贈り、贈られた相手は歌を返す。古から伝わる妻問いの儀式だ。

 穏やかな波の音と一緒に、楽しそうな笑い声が聞こえて来る。


 崖の上から浜辺の様子を眺めていた男は、無表情のまま踵を返した。


「アカルのやつ、どこへ行ったんだ」


 苛立つような言葉がつい口からもれる。

 歌垣に参加してないのは確かだというのに、里のどこにもアカルの姿は見えない。いくら満月の夜とはいえ、このまま山の中に入ってしまえば闇夜と同じだ。


 もう一度里の中を探すべきかと立ち止まった時、茂みの向こうの大木に、寄りかかるように座っている人影を見つけた。

 人影の傍らには白い鴉がいる。


「あの鴉!」

 男は勢いよく茂みを飛び越えると、人影に駆け寄った。


「アカ……ル」


 声をかけようとしてやめた。木に寄りかかったまま、アカルは眠っていた。

 いつの間にか白い鴉は消えている。男は軽く舌打ちするとアカルの傍らに片膝をついた。


 月明かりを受けて輝く長い黒髪。白い顔。長いまつ毛。首元には、紐で括られた赤い石が、月の光を反射している。

 この少女が目を覚ませば、大きな瞳は冷ややかな色を帯び、口を開けば男のような言葉しか出て来ない。けれど、眠っている今はあどけない寝顔を月光にさらしている。


 男がそっと手を伸ばして髪に触れた途端、アカルの頬に涙が流れた。見る見るうちに白い顔が苦悩の表情に歪んでゆく。

 男は顔を引きしめると、アカルのそばから立ち上がった。


「おい、起きろ、アカル!」

 男が乱暴に肩をつかむと、アカルは目を覚ました。


「ああ……トーイか。助かった」

 木の幹から体を起こしながら、アカルは手の甲で涙をぬぐう。


「また、あの夢を見ていたのか?」


 そう言って目の前にどっかりと腰を下ろしたトーイが、心配そうに眉間のしわを深くする。

 アカルは笑った。


「そうだ。お前に助けられた時の夢だ。未だに消えてくれない」


 アカルがため息まじりにそう答えると、トーイの顔はますます険しくなった。


 岩の里で一番の大男。浅黒く引き締まった体に細面の整った顔立ちは、この岩の里ではアカルと並んで異質な存在だった。

 アカルもトーイも、この里の生まれではない。二人はこの里の人たちに助けられた、渡海人の子供だったのだ。


「それより、今年も歌垣に出なかったのか? トーイが誰に妻問いをするのか、こっそり見てやろうと思ってここへ来たのに」


 アカルはぼやいた。

 トーイは不愛想な男だ。誰に話しかけられても、笑顔を見せたことがない。けれど、里の娘たちには密かに人気があるのだ。


「まぁ、結局寝ちゃったけどさ。二十歳にもなって独り身なのはどうかと思うぞ」

 アカルが揶揄うと、トーイはため息をついた。


「お前だって今年で十五だ。今からでも出たらどうだ? お前が出るなら、俺も出る」


「なに言ってるんだよ」

 アカルは肩をすくめて立ち上がると、パタパタと衣の土をはらった。そのまま踵を返して山を下ろうとすると、トーイに腕をつかまれた。


「お前、本気で巫女になるつもりか?」

 緩んでいたはずの眉間のしわが、また険しくなっている。


「当り前だろ。ばば様は命の恩人なんだ」


 五歳の頃に、アカルは川へ捧げられた。渦巻く濁流から救い上げてくれたのは、当時十歳だったトーイだが、彼を守護し導いたのは、岩の里の巫女だった。

 その岩の巫女は、いつ死んでも不思議ではないほど高齢だ。神の声を聞くことが出来たアカルは、彼女の後を継ぐことで恩返しができると思っていた。


「俺だって、浜に流れ着いたよそ者の子供だった。恩なら他のことでも返せるだろ」

 いつもよりも激しく突っかかってくるトーイに、アカルはたじろいだ。


「痛いよトーイ。手を放せ」


「ちゃんと答えるまで放さない」


 体の大きなトーイはただでさえ威圧感があるのに、今は瞳の力だけで獣を射殺せそうな怖い目をしている。


「仕方ないだろ。ほかに神の声を聞ける子がいないんだ。ばば様は何も言わないけど、後を継ぐのは私だって、みんな言ってる」


 アカルはふて腐れたようにそっぽを向く。


「アカル!」

 トーイはグッと手に力を込めてアカルを引き寄せた。

「俺はこの里を出る。お前も一緒に来い」


「えっ?」

 アカルは目を瞠ったままトーイを見上げた。

「うそ……里を出るって、どうして? ばば様は知ってるの?」


「……知ってる」

 吐息のような答えが返って来た。

 トーイの大きな手が、アカルの髪を抱くように首の後ろにそっと触れる。


「アカルを連れて、誰も知らない所へ行くと言ったら、笑ってた。ばば様は、お前を次の巫女にする気はないって」


「そんな……」


 呆然とするアカルのすぐ目の前に、トーイの目が見えた。

 さっきまで獣を射殺せそうなほど険しかった瞳の光は消え、申し訳なさそうな、詫びるような目でアカルを見ている。


 ハッと身を引こうとした瞬間、首の後ろを抑えられ、そのまま唇が重なった。

 自由な方の手で必死にトーイの体を押し戻そうとしたが、どんなに叩いてもピクリとも動かない。


 ようやく唇が離れ、トーイが身を起こした時には、アカルの体は宙に持ち上げられて、トーイの肩に担がれていた。


「放せ! 下ろせ! 私はどこにも行かないぞ、トーイ!」

 アカルは両手でトーイの背中を叩いたが、彼は平然と山道を下りてゆく。


「里を出たいなんて、今まで一度も言わなかったじゃないか! なのに……いきなり一緒に来いなんて、酷いじゃないか!」

 アカルの目に涙がにじんだ。


 よそ者である二人を受け入れてくれた、岩の里の人たち。

 海沿いの小さな谷間に住む、大きな目をした小柄で優しい里人は、どんな時でも旅人を歓迎し、困っている人を助け、争いごとがあれば話し合いで解決する、高潔な古の一族だった。


 よそ者として扱われたことは一度もない。けれど、アカルはずっと、自分が異分子だと感じていた。

 岩の里の人たちは、どんなに困っても助けた子供を贄にしようなんて思わない。けれど自分には、あの川の里の人たちと同じ血が流れているのだ。そんな自分に、ここにいる資格があるのだろうか。

 口に出した事はなかったけれど、心の中にはいつもそんな思いがあった。


 五つ年上のトーイの気持ちはわからなかった。トーイは男で、狩りの腕も里で一番だったからだ。けれど、笑わない彼に、アカルは自分と似た鬱屈を感じていた。

 同じ渡海人の血を引き、同じような思いを抱えた二人は、この十年の間、ほとんどの時間を共に過ごした。いつの間にか、互いが互いの心の拠り所になっていたのだ。


 それなのに。


「下ろせ! 私は行かない。里を出るならお前ひとりで行け!」


 言い放った途端、体が地面に下ろされた。

 屈んで目線を合わせたトーイが、困ったような顔でアカルの目をのぞき込んでいる。


「悪かった。明日の夜明けまで待つ。気が変わったら……来てくれ」


 トーイはそう言うと、身を翻して山を下りて行った。

 アカルは答えることが出来なかった。

 口を開こうとすると唇が震えて、言葉が出て来なかった。


(トーイの馬鹿!)


 アカルはギュッと唇を噛みしめた。

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