揺籃の国

滝野れお

第一章 西伯国

●別れと始まり●

序 水神の贄


「ごめんよ────あの森で、狼に喰われたと思って、諦めてくれ」


 朝早くに起こされたアカルは、眠い目をこすりながら寝床から起き上がった。

 泣きそうな顔をしたおじさんが、アカルの寝床の脇に立っている。彼はつい先日、夜の森で狼に囲まれていたアカルを、命がけで助けてくれた人だった。


(どうして謝るんだろう?)


 アカルは不思議に思った。彼の言葉は、まだ幼いアカルには理解できなかった。

 ただ、自分にとって良くないことが起きている。それだけはわかった。


 狼の牙から助けられた夜、アカルは彼の住む川の里に連れて来られた。自分がどこから来たどこの子供なのか、答えられなかったからだ。


 川の里は、長い海岸線にぽっかりと口を開けた潟湖のある、河口の里だった。

 大きな川に沿って広がる田畑や藁葺き屋根の集落は、数日前から降りはじめた雨で濡れそぼり、緑の稲穂は重そうに垂れ下がっていた。


 助けてくれたおじさんは、アカルを自分の家に泊めてくれ、おばさんは温かい粥をごちそうしてくれた。何か手伝いをしなくてはと思ったものの、降り続く雨のせいで、小さな子供が出来るような仕事はあまりなかった。


 昼でも暗い空には、時折、豪雨の中を縫うように閃光が走り、雷鳴が轟いた。

 大人たちは、毎日不安そうに川や田畑を見つめていた。

 一人が「水神の怒りだ」と言えば、その場にいた全員が水の神に祈りを捧げた。

それでも川の水は日に日に増えて、岸に近い畑は流されてしまったという。

 誰もが水に怯えていた。




「ごめんよぉ、あたしたちを助けると思って、堪忍しておくれ」

 お粥をくれたおばさんも、涙を流している。


(まただ……)


 謝られる度に、居心地が悪かった。お腹が冷たくなり、頭の奥は痺れて、アカルは何も答えることが出来なかった。


 おじさんに手を引かれて、アカルは藁葺き屋根の家から外へ出た。

 編み笠も被らず、雨に濡れながら集落を離れ、二人は茶色く濁った大きな川の畔まで歩いた。

 そこには大勢の大人が集まっていて、アカルたちが近づくと、怯えたようにスーッと離れていった。

 遠巻きに囲む大人たちは、アカルたちから目を背けている。しかし、その中心にいた白装束の女だけが、アカルを真正面から見据えていた。


「娘を川へ!」


 白装束の女が叫んだ。

 土色の濁流の前まで引きずられた時、アカルは眩暈に襲われた。渦巻く川の水に、今にも飲み込まれそうだ。


(ああ、そうか。川に捧げる子供が欲しかったんだ)


 そう認識した時は、怒りも悲しみも何も感じなかった。

 知らない子供なら、この里の人は誰も困らない。自分はあの時、狼に食べられて死んでいたんだから────あの時、誰も助けてくれなかったと思えばいい。

 体の奥が冷たかった。胸にぽっかりと空いた穴から、魂が冥府へと引っぱられてゆくようだった。


 ドォォォォォォォーン!


 黒雲の向こうが光った途端、雷鳴と地響きが同時にやって来た。

 恐ろしさに身を縮めたアカルの背を、男が目を背けながら突き飛ばす。


 ドボンという重たい水音は、すぐに濁流の音にかき消され、やぐらの上では、白装束の巫女が祈りはじめた。



 川に落とされたアカルは、たちまち水流に弄ばれてぐるぐる回った。

 濁った水の中でギュッと目をつぶっていたはずなのに、ぼんやりと明るくなった視界に、水色の長い髪を揺らめかせた、きれいな女の人が見えてくる。


(あれが、水の神さま?)


 その姿を見て、ホッとした。

 自分が贄になれば、神さまはきっと里の人たちの願いを叶えてくれる。

 そう思ったのに、水神は困ったような顔をしていた。


(どうしたの? あたしの命じゃ足りないの?)


 アカルが必死に問いかけても、水神は困ったように首を振るだけだ。


(なんだ……贄なんて……あたしの命なんて、いらなかったんだ)


 ゴボッと、最後の息が口からもれた。


 もう死ぬのだと覚悟を決めた時、体に縄を巻き付けた少年が、濁流の中を泳いでくるのが見えた。

 茶色い水の中にいるアカルには、とうてい見える筈の無い光景だというのに、少年の姿は頭の中から消えてゆかなかった。

  



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る