第二章
京極為兼の一行が毘沙門堂傍の為兼亭に到着したのは、
為兼亭に牛車が到着すると、家の者達が出迎えに現れた。為兼一行は、誰々も疲労が隠せなかった。平然としているのは一人政綱だけである。「如何なされました」「今まで何処へお渡りに」等々、家中の者達から声をかけられながら、牛車を降りる為兼・忠兼父子から離れた所に、政綱は一人立っている。門を潜ってはいなかった。それを見て、
礼を受け取ることを固辞するわけではないが、ここが貴族の屋敷である点、政綱には気がかりであった。朝廷に仕える貴族は、殊に
「お招きにあずかったは光栄なれど、俺は
「人狗…」
「どういう者か、これで幾らか伝わるであろう。為兼卿に改めてお尋ねあった方が良い」
「…承った。
侍は、邸内の為兼の許に走った。
人狗は、天狗の教えを受けた者達である。人を超えた能力を有し、往古より里に下って諸国を放浪するのを常としている。無論、どこぞの庄園で下司を務めるわけでもなく、幕府の置いた地頭でもない。所領所職を持たぬ人狗は、人助けをして手に入れる礼物の他には頼るものとてなかった。今夜、政綱は京極為兼の窮地を救ったが、怪異を相手にするのは生業であって、なにも親切心からのみの行いではなかった。
こうした生き方は、山伏とも似通うものだ。実際、人狗と山伏は世人からは混同され易い。観察すれば装束にも大きな違いがあるが、最も異なる点は、人狗が異界の住人だということだ。人狗は、天狗による神隠しに遭い、そのまま帰らなかった者達である。そうした者達は、〝この世〟ではなく〝あの世〟の住人になったのだと考えられていた。
その所為で、とかく血生臭く薄気味悪い噂の絶えぬ人狗は、〝外術使い〟等という甚だ不名誉な呼び方もされている。〝
政綱が人狗であるということで、穢れを持ち込んだと騒ぎになれば、双方にとって面倒なことになりかねない。後から騒がれて、悪い評判を立てられるのは困る。公家も、政綱にとっては商売相手である。それに、京極為兼の名は、権勢の仁として政綱の耳にも触れている。気遣いの出来るところを見せておいても、それ程損はないだろう。
為兼の言葉を携えた侍が戻って来た。待たされたのは、ほんの僅かな時間である。手には何も持っていなかった。
「政綱殿。主は、一向気にせぬ故、お連れせよと仰せでござった。さ、どうぞこちらへ」
これは意外な言葉だった。このまま門外で待たされ、礼物を受け取り、辞去するつもりであった。思っていたよりも、京極為兼は面白い人物のようである。戸惑いながら、貴族との珍しい縁を楽しむこととし、政綱は侍の後に続いた。
「政綱殿をお連れ致しました」
出居の入口で、侍が亭主に訪いを入れた。すぐに「これへ」と為兼の声がかかった。公家にしては力強く、よく響く声だ。政綱はそう思ったが、思い返せば、
入口の脇に畏まった侍の一歩前に進む。先程の
「政綱、面を上げよ」
政綱が顔を上げると、為兼がやや身体を前かがみにし、目を細めていた。
灯火は陽光には遠く及ばない。怪物への用心のためか、格子も障子も閉め切った室内は薄暗かった。為兼は政綱を見ようとしたが、政綱の背が高いせいで顔の辺りがよく見えない。
「ほう…。政綱」
為兼が、近くへ来い、と手招く。
「そなたは恩人ぞ政綱。遠慮はいらぬ。こう、ずっと近う参れ。さぁさぁ」
これが公卿の実際なのであろうか。それに、為兼の身振りは随分と大きい。喜怒哀楽は、はっきりと表現する人物のようだ。
言われた通り、政綱は無遠慮に歩み寄った。為兼の左右に列するのは、いずれも子息であろうか。それに並ばぬ位置で足を止め、再び着座した。
近頃目が弱ってきたのを感じている為兼は、少し前屈みになり、正対する政綱をじっくりと見た。
一文字に引き結ばれた口元、眉根を寄せたやや吊り気味の目、全体的に力強さを感じる顔立ちである。目に妙な光があるように感じるのは、おそらく気の所為ではない。人狗の異能は、その目に顕れるものらしい。為兼は知人からそう聞いたことがある。
「良い面構えをしておる。わしは何度か鎌倉に下向したこともあるが、これ程の者は御家人にもそうはおるまい」
「いや、それ程の者では…」
「何を申すか。暗夜を駆け抜け、妖物を退けたそなたの雄姿は、そこな者共が目に焼き付けておるわ。のう?」
後ろに控えた先刻の車副二人が、主人に同調して頷く。
「あぁ、それから、ここに居並ぶはそれぞれ我が子息。まぁ養子ではあるが、息子達だ。今日は呼び集めてあったのだ。これ程帰りが遅くなるとは思ってはおらなんだが。あぁ、この忠兼は先程も会うたであろう」
為兼と共に災厄に見舞われた若者、京極忠兼が笑顔で会釈した。年の頃は、十代後半と言ったところか。着衣の乱れも直し、落ち着きを取り戻している様子だ。
「我等には、紛れものう命の恩人じゃ。皆礼を申せ」
為兼の言葉に諸子は頭を下げた。中でも年長とみられる一人が「
「そう仰せられると、却って申し訳なく。あれを始末するには至りませんでした」
「いや、咄嗟に駆け付けてくれただけで、この通り大助かりじゃ。そなたがおらねば、わしも忠兼も供の者達も、皆死んでおったであろう。礼を申すぞ政綱。無論、この恩に報いるに、言葉だけでは足らぬ。約束した如く、礼物は整えさせておる。銭五十疋じゃ。目録と共に、後で遣わそう」
ここで言葉を切った為兼が、出居の入口に目を遣った。政綱を案内した侍が応えて頷き、座を立った。
「あまり遅くに食べると、身体には良くないであろうがな。落ち着くと
「喜んで」
膳はすぐに運ばれて来た。確かに為兼の身位に照らせば豪勢という程ではなかったが、刻んだ野菜と茸の汁物は湯気をたて、炙った干し魚が丸ごと一尾。小ぶりの盆には柿が盛られ、更には酒が添えられている。
放浪している政綱とは言っても、温かい酒販と無縁というわけではない。宿の整備された東海道であれば、懐が許せばそれなりの食事にはありつける。だが野山に分け入って働くことも珍しくないこの人狗には、たとえ有り合わせであろうと、十分なご馳走に思えた。
会食の場というのは、居並ぶ面々の関係を確認する場でもある。事によっては、政治的な意味を持つ場にもなり得た。今夜のこの場は、政治の舞台にはなり得ないはずだ。為兼の養子達には、裏表がある様にはみえなかった。義理の関係とはいえ家族の恩人である政綱に対し、打ち解けた様子を見せようと努めている。それは打算からではなく、謝意の表れであろう。
だが、主人の為兼はどうであろうか。命を救ったのは確かながら、偶然出会った人狗へのもてなしは、良く言えば開放的、悪く言えば不用心のように思われた。
京極為兼については、政綱も色々と耳にしてきた。今は上皇となった
勧められるままに箸をつけた政綱であったが、この辺りが気にかかり、探るような視線を為兼に向けた。為兼も察したのか、魚をつつく手を止めた。
「政綱。何ぞ気にかかる事でもあるか?」
どんな恐ろしい目に遭ったのかと、忠兼を質問攻めにしていた面々も、何か込み入った話が始まるのを察し、会話を止めて二人を見守った。
「されば…大納言殿の御厚情は誠に有難く、この膳にも満足しておりますが、何故ここまでなされます?」
「成程、
「あの化物を討てと?」
「いかにも。仕留めれば、重ねて礼を致そう。人狗の
この答えは至極当然で、納得の行くものである。政綱も期待していた部分もあった。だが、幾つか、というからには他にも狙いがあるのだろう。気にはなるが、為兼には隠す気もないように思われたので、政綱は目の前の仕事を逃さぬよう、話を着けることを優先した。
「仕留めるとなれば、追い払うのとは少々異なります。双方命がけ故、見合うものが約束されておらねば手を出しかねますな」
「さもあろう。皆々、働きには相応の報いがなければな。わしも朝恩を受ける身なれば、その事は分かっておるつもりじゃ。それで、そなたの申す見合うもの、とはどの程度を言うのか?」
「それは相手次第ですな」
「ふむ。では問うが、あれは何なのだ?獣が如く思われたが…」
「大納言殿は、
「猫又?聞き覚えはあるな…はて、何処で聞いたやら。して、あの化物がその、猫又なのか?」
「
黙って聞いていた忠兼が口を開いた。
「猫の化物なのか?」
「年劫を経た猫が成ると言われております。腹を満たすために人や畜生を襲うだけではなく、狩ること自体を目的に襲うことも」
忠兼達が唸るような声を上げる。成程、食事をしながら語るには相応しくない話ではある。だが、そうした気兼ねとは無縁の生活を送ってきた政綱は、話を続けた。
「黒雲に変わる辺り、猫又でも特に
「……だが、猫とも思えぬ声をしておったが?」
「声ですか。忠兼殿は、虎や豹をご存知でしょう」
「それは、絵や皮なれば見たこともあるが…」
「あれ等も、言うなれば大きな猫ではありますが、とてもそうは思えぬ声で鳴くのです。吠えると言った方がよいかもしれん」
「政綱殿は見たことが?」
「何度か。勿論、この国には虎も豹も居りはしませぬ。山に居る我等の師が、見聞を深めよとて見せてくれましてな」
「師と言うのは、つまり…?」
「天狗でござる」
人狗は天狗の教え子であるとは彼等も知ってはいるが、いざその人狗から〝天狗〟の名を聞くと、妙に感心してしまうものらしい。座中、感嘆を漏らさぬ者とてなかった。
「政綱、いま虎や豹と申したが、むしろ今夜見たあれが、虎なり豹なりの化物ということはないのか?」
「海を渡ればそうしたモノもござりましょうな。なれど、あれは猫又に相違ござりませぬ」
「何故そう思う?」
「月が隠れておりましたので、対峙したお供の人々には見えてはおらぬと思われますが、某は夜目が利く故、あれの尾が二つに分かれているのがよく見え申した。知る限り、猫に似た身体、二又の尾となれば、猫又の他は思い当たりませぬ」
感心して
「おいどうした、冷めてしまうぞ」
すっかり箸の止まった子息達に声をかけている。大した男だ。どうもこの京極為兼は、剛毅な人柄であるらしい。狭量で激し易く、
「それで、猫又退治にはどれ程の礼が相応しいのだ?」
「されば、先に銭五十疋をお約束頂きましたが、それを一倍して頂きたい」
政綱の言った〝一倍〟とは今日敢て使うことのない言葉だが、中世当時では一般的な言葉だった。現代語に置き換えれば〝二倍〟ということになる。
「併せて一貫か。中々の額であるが…よかろう。退治致せば、間違いなく給うであろう」
「では銭一貫。猫又退治が終わった後に頂戴致しまする」
「今夜の五十疋はよいのか?」
「それも、終わった後に」
一貫あれば、しばらく食べていけるだろう。為兼は、根無し草の境遇を思い遣って憐れに感じた。為兼には佐渡国への遠流に処された過去がある。その道中を思い出し、この淋しい人狗の旅路を思い描いた。
「感じ入ったぞ政綱。人狗については種々風説を聞いておったが、その者に依りけりじゃと申すのが、そなたに会うてよく分かった」
人狗は往古より放浪が常である。里に下りた山伏の中には、腕力に、或いは験力にものを言わせて乱脈に及ぶ者が居るように、人狗にもまた性質の悪い者が居た。似通った所の多い両者は、その悪行も一括りにして伝わっているのである。政綱も身に覚えがないこともない。大抵は政綱自身に原因はなく、騒動に巻き込まれてのことではあったが。
先月は海道沿いの橋本宿で、どこぞの御家人と口論になり、橋本の名所である橋から入江に投げ込んだ政綱であったが、それへの反省は微塵も見せずに、為兼に一つのお願いをした。猫又を釣り出す〝餌〟が欲しかったからである。政綱の要求を受け入れた為兼であったが、〝餌〟の行末を思うと、顔色を曇らせずにはいられなかった。
「さてさて。はや還暦を迎えたと言うに、全く何という年であろうことか……」
為兼は今年で六十歳になるらしい。政綱は自分が何歳であるのかを数えそうになったが、人間と人狗では齢のとり方が違う。人狗は異界に育った〝あの世の者〟だ。少なくとも、見た目には為兼よりも随分と若く見える政綱は、家人の求めにより暁まで
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