第二章



 京極為兼の一行が毘沙門堂傍の為兼亭に到着したのは、うし刻近くであった。紀政綱の見立て通り、道中に怪異は起こらなかった。車副達が黒雲の獣と死闘を演じていた間、空には厚い雲が流れ込み、月の光を遮ってしまっていたが、その雲も何処へやら消えてしまっていた。静かな秋の夜道である。虫の音に包まれての道中であった。だが、誰一人として秋の風物への関心を言葉にする者はなかった。

 為兼亭に牛車が到着すると、家の者達が出迎えに現れた。為兼一行は、誰々も疲労が隠せなかった。平然としているのは一人政綱だけである。「如何なされました」「今まで何処へお渡りに」等々、家中の者達から声をかけられながら、牛車を降りる為兼・忠兼父子から離れた所に、政綱は一人立っている。門を潜ってはいなかった。それを見て、直垂ひたたれ姿に太刀をいた男が、為兼の言葉を伝えにやって来た。この家に仕える侍であろう。為兼から、政綱を屋敷の出居でいに案内せよと仰せつかったという。為兼が帰邸前に言っていた、礼をする、というのは嘘ではないらしい。政綱は世の多くの人々と同じく、働きに見合った賞は成されるべき、と考えている。だが、立ち入るのは少々憚られた。

 礼を受け取ることを固辞するわけではないが、ここが貴族の屋敷である点、政綱には気がかりであった。朝廷に仕える貴族は、殊にけがれを忌み、触穢しょくえはできる限り避けたがるのである。黒雲の獣を仕留めこそしなかったが、太刀を血に濡らしたことには違いない。それが小事であったとしても、政綱には他にも憚るべき理由があった。

「お招きにあずかったは光栄なれど、俺は人狗にんぐでな」

「人狗…」

「どういう者か、これで幾らか伝わるであろう。為兼卿に改めてお尋ねあった方が良い」

「…承った。しばらくお待ちあれ」

 侍は、邸内の為兼の許に走った。

 人狗は、天狗の教えを受けた者達である。人を超えた能力を有し、往古より里に下って諸国を放浪するのを常としている。無論、どこぞの庄園で下司を務めるわけでもなく、幕府の置いた地頭でもない。所領所職を持たぬ人狗は、人助けをして手に入れる礼物の他には頼るものとてなかった。今夜、政綱は京極為兼の窮地を救ったが、怪異を相手にするのは生業であって、なにも親切心からのみの行いではなかった。

 こうした生き方は、山伏とも似通うものだ。実際、人狗と山伏は世人からは混同され易い。観察すれば装束にも大きな違いがあるが、最も異なる点は、人狗が異界の住人だということだ。人狗は、天狗による神隠しに遭い、そのまま帰らなかった者達である。そうした者達は、〝この世〟ではなく〝あの世〟の住人になったのだと考えられていた。

 その所為で、とかく血生臭く薄気味悪い噂の絶えぬ人狗は、〝外術使い〟等という甚だ不名誉な呼び方もされている。〝死穢しえの塊〟と恐れ蔑まれることも珍しくない。身分のある者達は特に人狗を嫌うものである。政綱が憚ったのはこの点であった。

 政綱が人狗であるということで、穢れを持ち込んだと騒ぎになれば、双方にとって面倒なことになりかねない。後から騒がれて、悪い評判を立てられるのは困る。公家も、政綱にとっては商売相手である。それに、京極為兼の名は、権勢の仁として政綱の耳にも触れている。気遣いの出来るところを見せておいても、それ程損はないだろう。

 為兼の言葉を携えた侍が戻って来た。待たされたのは、ほんの僅かな時間である。手には何も持っていなかった。

「政綱殿。主は、一向気にせぬ故、お連れせよと仰せでござった。さ、どうぞこちらへ」

 これは意外な言葉だった。このまま門外で待たされ、礼物を受け取り、辞去するつもりであった。思っていたよりも、京極為兼は面白い人物のようである。戸惑いながら、貴族との珍しい縁を楽しむこととし、政綱は侍の後に続いた。



「政綱殿をお連れ致しました」

 出居の入口で、侍が亭主に訪いを入れた。すぐに「これへ」と為兼の声がかかった。公家にしては力強く、よく響く声だ。政綱はそう思ったが、思い返せば、公卿くぎょうの邸に招かれることはあっても、直接声を聴いたことなど殆どなかった。言うなれば、政綱の偏見である。

 入口の脇に畏まった侍の一歩前に進む。先程の車副くるまぞい達の姿が見えた。着座した政綱は、型通り頭を垂れた。相手が公家であろうと武家であろうと、人狗はその支配下にはない。所領を給わることも、官位を授かることもない。政綱は、人間の身分という尺度が関わらない世界に生きている。今の一礼も、敬意や服従の意思を表すものではなく、邸内に招いてくれたことへの謝意に過ぎない。

「政綱、面を上げよ」

 政綱が顔を上げると、為兼がやや身体を前かがみにし、目を細めていた。

 灯火は陽光には遠く及ばない。怪物への用心のためか、格子も障子も閉め切った室内は薄暗かった。為兼は政綱を見ようとしたが、政綱の背が高いせいで顔の辺りがよく見えない。

「ほう…。政綱」

 為兼が、近くへ来い、と手招く。膝行しっこうしかけた政綱に、為兼が声をかける。

「そなたは恩人ぞ政綱。遠慮はいらぬ。こう、ずっと近う参れ。さぁさぁ」

 これが公卿の実際なのであろうか。それに、為兼の身振りは随分と大きい。喜怒哀楽は、はっきりと表現する人物のようだ。

 言われた通り、政綱は無遠慮に歩み寄った。為兼の左右に列するのは、いずれも子息であろうか。それに並ばぬ位置で足を止め、再び着座した。

 近頃目が弱ってきたのを感じている為兼は、少し前屈みになり、正対する政綱をじっくりと見た。

 一文字に引き結ばれた口元、眉根を寄せたやや吊り気味の目、全体的に力強さを感じる顔立ちである。目に妙な光があるように感じるのは、おそらく気の所為ではない。人狗の異能は、その目に顕れるものらしい。為兼は知人からそう聞いたことがある。

「良い面構えをしておる。わしは何度か鎌倉に下向したこともあるが、これ程の者は御家人にもそうはおるまい」

「いや、それ程の者では…」

「何を申すか。暗夜を駆け抜け、妖物を退けたそなたの雄姿は、そこな者共が目に焼き付けておるわ。のう?」

 後ろに控えた先刻の車副二人が、主人に同調して頷く。

「あぁ、それから、ここに居並ぶはそれぞれ我が子息。まぁ養子ではあるが、息子達だ。今日は呼び集めてあったのだ。これ程帰りが遅くなるとは思ってはおらなんだが。あぁ、この忠兼は先程も会うたであろう」

 為兼と共に災厄に見舞われた若者、京極忠兼が笑顔で会釈した。年の頃は、十代後半と言ったところか。着衣の乱れも直し、落ち着きを取り戻している様子だ。

「我等には、紛れものう命の恩人じゃ。皆礼を申せ」

 為兼の言葉に諸子は頭を下げた。中でも年長とみられる一人が「かたじけのうござる」と礼を述べると、皆それに倣った。旅の空であればともかく、公家の邸でここまで素直な謝辞に包まれた経験はなかった。

「そう仰せられると、却って申し訳なく。あれを始末するには至りませんでした」

「いや、咄嗟に駆け付けてくれただけで、この通り大助かりじゃ。そなたがおらねば、わしも忠兼も供の者達も、皆死んでおったであろう。礼を申すぞ政綱。無論、この恩に報いるに、言葉だけでは足らぬ。約束した如く、礼物は整えさせておる。銭五十疋じゃ。目録と共に、後で遣わそう」

 ここで言葉を切った為兼が、出居の入口に目を遣った。政綱を案内した侍が応えて頷き、座を立った。

「あまり遅くに食べると、身体には良くないであろうがな。落ち着くといささかひもじく感じるであろう。大した物は用意できなんだが、有り合わせの物で膳を支度させておってな。ま、これも礼の内と思うて、今暫く付き合うがよい」

「喜んで」

 膳はすぐに運ばれて来た。確かに為兼の身位に照らせば豪勢という程ではなかったが、刻んだ野菜と茸の汁物は湯気をたて、炙った干し魚が丸ごと一尾。小ぶりの盆には柿が盛られ、更には酒が添えられている。

 放浪している政綱とは言っても、温かい酒販と無縁というわけではない。宿の整備された東海道であれば、懐が許せばそれなりの食事にはありつける。だが野山に分け入って働くことも珍しくないこの人狗には、たとえ有り合わせであろうと、十分なご馳走に思えた。

 会食の場というのは、居並ぶ面々の関係を確認する場でもある。事によっては、政治的な意味を持つ場にもなり得た。今夜のこの場は、政治の舞台にはなり得ないはずだ。為兼の養子達には、裏表がある様にはみえなかった。義理の関係とはいえ家族の恩人である政綱に対し、打ち解けた様子を見せようと努めている。それは打算からではなく、謝意の表れであろう。

 だが、主人の為兼はどうであろうか。命を救ったのは確かながら、偶然出会った人狗へのもてなしは、良く言えば開放的、悪く言えば不用心のように思われた。

 京極為兼については、政綱も色々と耳にしてきた。今は上皇となった熈仁ひろひと親王の歌道師範として身を立て、歌壇かだんに一勢力を築いた。上皇の信任の下に朝廷の政務へ口入くにゅうに及んでいるらしい。こうして言葉を交わしてみると、悪辣な人物などとは到底思えない為兼であるが、とやかく陰口をする者達も少なくない。そうした敵を作り過ぎたせいか、佐渡に流されたこともある。優れた歌人であると共に、政治の人でもある。政綱は、世間に行われている様々な説を、そう解釈していた。

 勧められるままに箸をつけた政綱であったが、この辺りが気にかかり、探るような視線を為兼に向けた。為兼も察したのか、魚をつつく手を止めた。

「政綱。何ぞ気にかかる事でもあるか?」

 どんな恐ろしい目に遭ったのかと、忠兼を質問攻めにしていた面々も、何か込み入った話が始まるのを察し、会話を止めて二人を見守った。

「されば…大納言殿の御厚情は誠に有難く、この膳にも満足しておりますが、何故ここまでなされます?」

「成程、もっともな問いであるな。理由は幾つかあるが、一つはそなたも察しがつくであろう」

「あの化物を討てと?」

「いかにも。仕留めれば、重ねて礼を致そう。人狗の生業なりわいからして、そなたにも悪い話ではないはずぞ」

 この答えは至極当然で、納得の行くものである。政綱も期待していた部分もあった。だが、幾つか、というからには他にも狙いがあるのだろう。気にはなるが、為兼には隠す気もないように思われたので、政綱は目の前の仕事を逃さぬよう、話を着けることを優先した。

「仕留めるとなれば、追い払うのとは少々異なります。双方命がけ故、見合うものが約束されておらねば手を出しかねますな」

「さもあろう。皆々、働きには相応の報いがなければな。わしも朝恩を受ける身なれば、その事は分かっておるつもりじゃ。それで、そなたの申す見合うもの、とはどの程度を言うのか?」

「それは相手次第ですな」

「ふむ。では問うが、あれは何なのだ?獣が如く思われたが…」

「大納言殿は、猫又ねこまたという名を聞いたことはございませぬか?」

「猫又?聞き覚えはあるな…はて、何処で聞いたやら。して、あの化物がその、猫又なのか?」

それがしの見立てでは、そうなりますな」

 黙って聞いていた忠兼が口を開いた。

「猫の化物なのか?」

「年劫を経た猫が成ると言われております。腹を満たすために人や畜生を襲うだけではなく、狩ること自体を目的に襲うことも」

 忠兼達が唸るような声を上げる。成程、食事をしながら語るには相応しくない話ではある。だが、そうした気兼ねとは無縁の生活を送ってきた政綱は、話を続けた。

「黒雲に変わる辺り、猫又でも特に年劫ねんごうを経たものでしょうな。執念深いのは申すまでもなきこと。また行き会えば、同じように襲いかかって参りましょう」

「……だが、猫とも思えぬ声をしておったが?」

「声ですか。忠兼殿は、虎や豹をご存知でしょう」

「それは、絵や皮なれば見たこともあるが…」

「あれ等も、言うなれば大きな猫ではありますが、とてもそうは思えぬ声で鳴くのです。吠えると言った方がよいかもしれん」

「政綱殿は見たことが?」

「何度か。勿論、この国には虎も豹も居りはしませぬ。山に居る我等の師が、見聞を深めよとて見せてくれましてな」

「師と言うのは、つまり…?」

「天狗でござる」

 人狗は天狗の教え子であるとは彼等も知ってはいるが、いざその人狗から〝天狗〟の名を聞くと、妙に感心してしまうものらしい。座中、感嘆を漏らさぬ者とてなかった。

「政綱、いま虎や豹と申したが、むしろ今夜見たあれが、虎なり豹なりの化物ということはないのか?」

「海を渡ればそうしたモノもござりましょうな。なれど、あれは猫又に相違ござりませぬ」

「何故そう思う?」

「月が隠れておりましたので、対峙したお供の人々には見えてはおらぬと思われますが、某は夜目が利く故、あれの尾が二つに分かれているのがよく見え申した。知る限り、猫に似た身体、二又の尾となれば、猫又の他は思い当たりませぬ」

 感心してしきりに頷く為兼であったが、思い出したように汁をすすり始めた。

「おいどうした、冷めてしまうぞ」

 すっかり箸の止まった子息達に声をかけている。大した男だ。どうもこの京極為兼は、剛毅な人柄であるらしい。狭量で激し易く、君寵くんちょうを頼んで尊大に振舞うと言われているが、おごりばかりがそうさせるのではないらしい。政綱が知る戦いとは違う、公家の彼ならではの戦いがあるのではないか。荒い風に打たれて育った人物。政綱にはそのように感じられた。

「それで、猫又退治にはどれ程の礼が相応しいのだ?」

「されば、先に銭五十疋をお約束頂きましたが、それを一倍して頂きたい」

 政綱の言った〝一倍〟とは今日敢て使うことのない言葉だが、中世当時では一般的な言葉だった。現代語に置き換えれば〝二倍〟ということになる。

「併せて一貫か。中々の額であるが…よかろう。退治致せば、間違いなく給うであろう」

「では銭一貫。猫又退治が終わった後に頂戴致しまする」

「今夜の五十疋はよいのか?」

「それも、終わった後に」

 一貫あれば、しばらく食べていけるだろう。為兼は、根無し草の境遇を思い遣って憐れに感じた。為兼には佐渡国への遠流に処された過去がある。その道中を思い出し、この淋しい人狗の旅路を思い描いた。

「感じ入ったぞ政綱。人狗については種々風説を聞いておったが、その者に依りけりじゃと申すのが、そなたに会うてよく分かった」

 人狗は往古より放浪が常である。里に下りた山伏の中には、腕力に、或いは験力にものを言わせて乱脈に及ぶ者が居るように、人狗にもまた性質の悪い者が居た。似通った所の多い両者は、その悪行も一括りにして伝わっているのである。政綱も身に覚えがないこともない。大抵は政綱自身に原因はなく、騒動に巻き込まれてのことではあったが。

 先月は海道沿いの橋本宿で、どこぞの御家人と口論になり、橋本の名所である橋から入江に投げ込んだ政綱であったが、それへの反省は微塵も見せずに、為兼に一つのお願いをした。猫又を釣り出す〝餌〟が欲しかったからである。政綱の要求を受け入れた為兼であったが、〝餌〟の行末を思うと、顔色を曇らせずにはいられなかった。

「さてさて。はや還暦を迎えたと言うに、全く何という年であろうことか……」

 為兼は今年で六十歳になるらしい。政綱は自分が何歳であるのかを数えそうになったが、人間と人狗では齢のとり方が違う。人狗は異界に育った〝あの世の者〟だ。少なくとも、見た目には為兼よりも随分と若く見える政綱は、家人の求めにより暁まで宿直とのいした。そのまま一睡もせずに京極亭を辞去したのであった。

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