第三章
京極亭を去った政綱は、昨晩襲撃を受けた場所をもう一度確認するため、河原へと歩いた。日中よりもまだ幾分か薄暗い。河原の側に粗末な小屋をかけて暮らす人々は、辺りを見回しながら歩く政綱を不安気に見守っている。この
京都周縁の山々からは、往古から多数の人狗が旅立った。それこそ、平安遷都よりも遥か昔から続いた伝統であった。尤も、その伝統も今から百数十年程前より下火となり、現在では両手で数えられる程度しかいない。少なくとも、政綱の知っている人狗の数は、その程度でしかなかった。その人手不足も手伝って、近頃では、人狗と山伏とが混同される始末である。しかし、天狗の方では、人狗を古代同様の人数まで増やそうという意思がないらしい。天狗が人間にその力を与え、人狗を生み出した本来の目的は、困窮する人々を救うことではなかった。あくまで天狗自身のためなのであった。実際には、人狗は人々の平穏に、ほんの僅かばかり貢献し得ているのだが、それは本来の目的ではない。おそらくは人間に対する何かしらの複雑な思いが、人狗を大きく増やさないことに関係するのだろうと、政綱は考えている。
しばらく歩いて、昨晩の場所を探し当てた。あれからまだ誰も通っていないらしく、為兼一行が襲撃され、抵抗した痕が地面に残されていた。そもそも、
為兼は昨年、念願叶って勅撰和歌集を奏覧に供しているが、細かな手直し等のこともあり、忙しく過ごしていた。更には「この冬には、人生の節目を予定している」とのことで、猶更完成を急いでいるのであった。特に関心がなく尋ねはしなかったが、思うに出家でもするのだろう。手直しに一区切り着いた為兼の慰労を兼ねて、内裏において和歌会が行われたのが昨晩のことだった。若き当今は、為兼の才能を認めた伏見院の第三皇子。諱名を富仁という。学問にかける熱意は、為兼の和歌にかけるそれに劣らず、弱冠とはいいながら為兼も敬服すること度々であった。
為兼にとって歌は単なる芸ではなかった。彼にとって歌は、信仰とも政治とも不可分の関係にある。当今はその為兼の述懐とも、教戒ともいえる指導を非常に悦び、その教えを重んじた。還暦を迎えた為兼にとって、一言一言を深く理解しようと努める帝との対話は、緊張の時間でもあるが、やはり楽しいひと時なのである。
それに昨晩は、忠兼を伴っていた。忠兼は、清華家の
だが、昨晩に限って言えば、この為兼の親心と満足が災難を引き起こした。思わず時を過ごした為兼は、今晩の興が醒めぬ内に、即席で月見の歌会を行おうとしたのであった。歌会といっても、京極父子二人だけである。要するに、禁裏歌会の余韻を惜しもうと、態々河原まで足を運んだのである。これが災いの原因となった。政綱にしてみれば、思わぬ稼ぎ口を拾うきっかけとなったのではあるが。
政綱は猫又が消えた草叢に踏み込み、痕跡を探した。昨晩対峙した時に肌で感じていた妖気は、宮仕えの女房が着物に焚き染めた香のように残っている。その〝残り香〟が一番濃い場所を探り当てた政綱は、屈み込んで猫又の痕跡を探した。為兼から〝餌〟を受け取り猫又を釣り出すことにしてはいるが、痕跡を辿って追うことが出来るのであれば、そうした方が手っ取り早い。〝餌〟を損なう心配もないし、棲み処に乗り込んで不意打ちを喰らわせることが出来るかもしれなかった。今回都に到着する前に、遠江の広い湿地で旅人に害を成す
猫又は大きく二つの種類に分けられる。山に棲むものと、人里に棲むものである。人里の猫又は人に馴れており、化け猫同様に悪戯をしかける程度に留まることが大半だ。実際、猫又だと言われて見に行ってみれば、少々長生きした化け猫で、人をからかって遊んでいるだけの大して害のないものだったことも多い。それに比して、山に棲む猫又は概して狂暴だ。小さな村落などが襲われると、たちまち皆殺しに遭ってしまう。為兼達を襲ったのは、山に棲む猫又に違いないと政綱は考えていた。運良く痕跡を辿って山に忍び込んだとしても、不意打ちを仕掛けられるとは限らない。だが幸いに、一山を丸ごと縄張りに出来る程の猫又は居ないと言われており、敵地であっても付け入る隙は何処かにあるものだ。危険を冒す価値はある。
政綱は、草の表面に乾いた血痕を見付けた。かざした手に〝力〟が伝わる。験力のある僧侶や巫女などの血でないとしたら、昨晩の猫又のもので間違いないだろう。
猫又はこの辺りで黒雲に変化したらしい。この更に向こう、河原に向かって雲は逃げ去ったが、血痕が残っているのはここだけらしい。敵も見上げたものである。猫又の変化は実に大したもので、雲に変わってしまうと矢でも刀でも傷付けられない。狸が化けたのとは違って、血を滴らせながらフワフワ飛ぶような間抜けなことにはならない。だからと言って受けた傷が瞬時に癒えるわけでもないが、あの程度の刀傷で死ぬ相手でもなかった。
「あんた人狗かい?」
やはり〝餌〟に頼るしかないかと考えていると、遠巻きに見ていた乞食の一人が、草叢には入らずに声をかけてきた。政綱の後からついて来ていたらしい。世の人々はこの乞食を見習うべきだと政綱は思った。人狗が入った草叢に、不用意に足を踏み入れてはならない。勇ましさを見せたいからか、或いは好奇心を抑えきれなかったものか、人狗に追随して草叢や森に踏み入って、危険な目に遭う人間がいる。海道沿いで仕事をしていると、鎌倉の武士が勇躍現れて、そのまま妖怪の腹に収まることがある。全く政綱の所為ではないのだが、その家族から逆恨みされたこともあった。
「いかにも。何か用か?」
「やっぱりな。初めは山伏かと思ったが、腹当を着て篭手も脛当もしている。見たところ袈裟もかけていない。それで合点がいった。人狗に相違いないとね」
「山伏とは違うと分かってもらえてなによりだ」
「人狗を見るのは初めてではないからね。この間も一人見たしな。人狗仲間では京見物が流行っているのかね?」
「あぁ。寺社見物より、河原でも見ていた方が楽しめるな」
「人狗が坊主嫌いだというのは本当なんだな」
「俺達ではなく、あの連中が人狗を嫌っているんじゃないのか。特に京の連中はな」
「ふうん…そっちに行っても構わんかね?」
政綱は無言で頷いた。
乞食は――大抵そうであるが――痩せていて、ボロボロに擦り切れた単を着ていた。だがこの男の表情には卑屈なところは見えない。伸びるに任せた蓬髪は、こまめに川で洗っているらしい。そう酷い臭いではなかった。
「いやぁ、その琥珀を嵌め込んだような目を真っ直ぐ見たのは、今日が初めてだよ。本当に
暗闇で光るようなことはないが、人狗の瞳は猛禽類の目に似ている。今日、大天狗と言えば鼻高天狗を想像するものだが、元からそうだったわけではない。実は、下っ端だと思っている鳥類型の方が、天狗の古態を留めているのである。政綱の生きるこの時代では、大天狗達も鷲や鷹、鳶等に似た姿をしている。〝鳥人間〟と言えば想像し易いだろうか。
「目には力が宿るとか言うだろう。天狗の力を授かると、皆こうなるんだ。それにしても、琥珀に例えられたのは初めてだ」
「へぇ、天狗からの貰い物か。良く見える目なんだってな。それで、その目で探し物かい?また死体が見つかったんだろう?」
「死体?」
「違うのかね?では何かね。宝探しでも?」
「それなら楽しかったろうがな。死体があったと言ったか。見たのか?」
「あぁ見たとも」
「いつのことだ?」
「ほう、お役に立てそうかね?」
「教えてくれねば分からんが、知らぬよりは良いだろうな」
「そうか。では話そう」
乞食も一種の生き方だ。こうした折を掴んで施しを受けるのが乞食の習いだ。政綱は男に礼をしようと懐を探った。懐は大分軽いが、まだ幾らかは銭がある。猫又退治に成功すれば、一貫もの銭が手に入る。これも仕事のためと思い、男に礼銭を渡そうとした。
「いや、この程度で礼は求めない。気遣いは無用だ、人狗殿」
政綱は手を止めて乞食に見入った。この凛とした佇まいはどうしたことか。
「悪かった。無礼を詫びよう。許してくれ」
こうなる前は、名乗るべき名があったに違いない。意図せず自尊心を傷つけたことを、政綱は心から謝罪した。乞食は少し恥ずかしそうに笑っている。
「いやいや、こちらこそすまない。見栄を張ったりして。このまま施しを受けずにいられたら、どんなにか胸がすくことか。人狗殿、この身を哀れに思うのであれば、何を探しているのか教えてくれないか?或いはそれが、幾らかの銭に代わるかもしれん」
「俺の話が銭に?人に語って聞かせようということか?」
「そういうことだ。器量次第では稼げるかもしれん」
武家にも公家にも、嫡子と庶子との別が存在する。それは母親の血筋に左右される場合が多い。だが特に武家では、この乞食が言った器量、つまり実力が嫡庶を決めることもあった。血筋だけが家長を決めるとは言い切れない。この男も、どこかの御家人が没落した姿なのかもしれない。
「昨日の夜のことだが、この辺りに猫又が出た。俺はそれを仕留めるつもりでいる」
「猫又?年を取った猫の化け物か。なるほど、それは人狗の出番だな。では、一昨日見つかった死体は…」
「お主はその死体を見たと言ったな」
「見た。それは酷いものだった。犬にでも食われたんだと思っていたが、そうか猫又に…」
「一昨日と言ったか?」
「そうだ。一昨日だった。見つけたのは朝だな。腕と、それから足だけで、後は血の海さ」
「一昨日は雨だったな…」
政綱は一昨日近江国の番場宿に入っていたが、雨が降っていたので無理をして京都までは出なかった。
「あぁそうだった。血は雨が洗い流しただろう」
「その腕と足はどうした?」
「放っておいては、犬と烏が更に食い荒らすだろう?河原に穴を掘って埋めた。男か女か、無論名も分からないが、可哀そうでね」
昨夜、猫又はあっさりと身を退いたが、あれは腹が減っていなかったからなのかもしれない。男が葬った死体が猫又の被害者かどうか、猶断定には至らないが、そう考えれば素早い転身も納得できる。
「どうだね?役には立ったかな?」
「あぁ」
「そうか。それで人狗殿、猫又はまだこの辺りに?」
「お主が埋めた死体が奴の餌食になった者だとなると、腹が膨れても山には帰らなかったということだ。山で鹿を追うより、人を襲った方が楽だと覚えたのかもしれん。そうであれば、そう遠くない所に巣くっていると考えるべきだろう。昼間は姿を見せんが、夜は近付かない方が賢いな」
「何ということだ…」
「お主の住まいは近いのか?」
「少し歩いた所だ。そこも危ないだろうか…?」
「今夜中に終わらせるつもりだが、用心して、近付かぬように仲間に言っておいてやれ。言うまでもなかろうが、お主もだぞ。京の連中は物見高いが、猫又相手に見物だと言ってみても手加減などしてはくれん。死にたくなければ今夜は出歩くな。俺はお主のように死体を葬ったりはせんぞ」
「そうしよう。しかしまさか、そんな恐ろしい奴が近くに棲んでいたとは…」
「間々起こり得ることだ」
短く礼を述べて、この場を立ち去ろうとした政綱だったが、足を止めて乞食に向き直った。
「どうした、聞き忘れたことでも?」
「俺の他に人狗を見たと言っていたな。それも一昨日のことか?」
「あぁ、そのことか。あれは…」
乞食は少し考えるような仕草をとっていたが、流石に宿直の疲れが出てきた政綱が質問を撤回しようとしたところで答え始めた。
「細かい日時などは思い出せんが、一昨日よりは更に前だね。死体を見付けるより、もう一日か二日程前に、河原を歩いて行くのを見た」
「では、三日は経っているわけか。どんな見た目だった?」
「どんなと言われてもな。人狗は皆そういった装束だろう?背丈は、あんたよりは低いかもしれん。といっても、こんな風に言葉を交わしたわけでもないしな…」
「そうか。まぁ、分からんのは残念だが――」
「そうだ!」
今度こそ立ち去り、西京辺りの無住の破れ堂か、或いはどこか橋の下で休もうと考えていると、乞食が膝の辺りを打った。何かを思い出したらしい。
「矢を多く差した
「ほう…」
箙を負って旅をするとなると、思い当たる人狗が一人いた。政綱にしても弓矢と無縁というわけではないが、あまり持ち物が多いと旅に障りが生じるため、普段持ち歩くことはなかった。政綱の知る人狗達もそれぞれ同じようなものである。一人を除いては。
「忝い。色々と」
「なぁに、大したことでは。武運を祈るよ人狗殿。あんたが猫又に勝って評判を取れば、俺の話を面白がって聞きたがる連中も出てくるだろう。となれば、そこからは俺の戦だ。上手いことやれるかは分からんがね」
「精々励むとしよう。お互いにな」
今度こそ気高い乞食と別れた政綱は、西京に向かった。京の所々に知人がいるのだが、上がり込んだついでに土産話をせがまれては堪らない。誰にも邪魔されずに、今の内にひと眠りしておきたい。猫又は夜にしか姿を現さないからだ。
ひと口に京都と言っても、西と東とでは様子が違っている。かつて、碁盤目状の整然とした宮都を作ろうとした名残はあるのだが、西京は早くから廃れてしまい、京であって京ではない、そんな景色が広がっていた。古来、狐に化かされたという話や、光り物を見たという話は、西京を舞台にすることが多い。いかにも何かが憑りついていそうな古堂など、政綱の興味をそそる建築も少なくない。勿論、住みたいというのではなかった。
政綱が昼寝の場所に選んだのは、そうした古堂の一つだ。昔は綺麗に瓦が葺いてあったらしい屋根はあちこち破れており、その堂の周りを、もはや用をなしていない垣根の跡が点々と囲っている。垣根の外側には、幅が狭くて浅い溝が掘ってあるらしいが、泥や落ち葉で埋もれてしまっていた。
その囲いの内、かつては庭だったと思しい場所に、柿の木が一本立っていた。中々の長命であろう。立派な枝ぶりの木だ。熟れきって落ちた実の酸い臭いが、しっとりと湿った空気の中に漂っている。綺麗な実は成っていない。おそらく誰かが収穫したのだろう。政綱が堂の中に入ろうとすると、一羽の烏がその柿の木に止まった。まるで挨拶でもするように、カァ、と一声鳴いた。堂の戸に手を懸けたまま、政綱は烏に「おい」と声をかけた。烏は首を傾げて政綱を見ている。
「俺が明日まで生きていたら、礼をすると約束しよう。仲間に伝言を頼みたい。聞いてくれるか?」
烏がもう一声鳴いた。鳶に話しかけた時程はっきりとは伝わってこないが、おそらく了解の印だろう。政綱は烏に伝言を託し、少し黴臭い堂の中に入った。旅慣れた人狗は、少々のことなら我慢してスヤスヤと眠れてしまう。鼠の糞にまみれているわけでも、蚊の唸る藪が近くにあるわけでもない。環境としては上々だ。政綱が後ろ手に戸を閉めると、それを待っていたかのように烏は柿の木を飛び立ち、すぐに羽音は聞こえなくなった。
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