南三陸と私の紀行文

自分にとって、とても歴史的な旅であった――


 ある人間が、私にこう言った。


「お前は関係無い」


 だったら、どうして、あなたは今も私を見ているのでしょうか?

 これが、私の人生なのだと、本当は思っているからでしょう。

 それは、決してやさしさではない。


 侮辱です。





 ――自分の東日本大震災が発生した、その日の話をしよう。


 自分はその日は自宅にいた。

 午前中は何事もなくすごしたと思う。昼は自宅でご飯を食べた。

 両親と兄も自宅にいた。

 それからしばらくして、午後2時20分くらい、自分は確か、天気も気温もよかったので外出した。

 自宅から徒歩で40分くらいのところにある地元の観光地の神社に行った。冬場はなるべく歩くようにしていた。


 自宅から線路を越えて、川沿いの公園内の道をぬけて、川沿いを歩いた。

 この道は砂利道である。

 地震発生時刻の46分くらいは川沿いを、丁度越えたくらいの場所にいたと思う。それからバイパスの高架橋の下をくぐって、細い道路を歩いていった。


 報道では関西でもかなりゆれたらしいけれど、自分はまったく気がつかなかった。

 神社へお参りして、その敷地内にあるお堂の軒下に座って空をながめていた。たぶん、午後4時前くらいまでずっと座っていたと思う。帰りも当然歩いた。

 帰宅したのは午後5時前くらい。夕食の時間だったと思う。

 両親も兄もテレビを見ていた。地震が発生して大変なことになったと聞かされた。


 大津波警報が表示されていて、画面に表示されている日本列島の太平洋側や青森県の津軽海峡、秋田県の日本海の海岸、鹿児島県そして沖縄県の東シナ海沿岸まで、すべて赤色だった。

 東京都心や横浜ではビルがゆれて地面にひび割れが出来たり、千葉県では液状化現象で海辺の海水がしみ出たり給油施設の火災で夜中じゅう燃えていたり、そういう映像を真夜中の3時くらいまで、ずっと見ていた。



 三陸海岸をおそった黒色の大津波が映っていた。

 家も船も簡単に流されていく。もちろん人も流されていく。

 確か翌日の東北は雪が降ったと思う。

 大津波でいきなり水の底へ沈んだ人は、何も現状を知らないまま死んでいったのだろう。


 大津波に流された屋根の上に避難して、そのまま太平洋へ流されていった人は、何を思ったのだろう。

 数日後の体育館に設置された遺体安置所。その中のたくさんの棺桶の写真を見て、自分は、大災害とはこういうものなのだということを理解した。



 その東日本大震災の被災地の中で、どうしても印象的な場所がある。


 南三陸町の防災庁舎である。


 その建物の屋上まで、津波が押し寄せた映像や写真を見たことがあった。

 残ったのは壊れた鉄筋だけ。周囲には何も建物がなかった。

 その防災庁舎を取り壊すか壊さないのか、という議論が話題になったことがあった。

 被災者にしてみれば見たくもない、思い出したくもない建物なのだと思う。

 一方で、大震災の記憶を後世に残さなければという話もあった。



 自分はこの防災庁舎が南三陸町から無くなる前に、あるいは建物全体が崩壊する前に、どうしても見ておきたかったのである。

 今まで日本全国のいろんな場所を旅してきたけれど、それは観光地であった。

 たぶん日本の近代史の中でも、太平洋戦争の爆心地と同じくらいの歴史的な出来事だと思ったので、身体が丈夫に動けるうちに行ってみようと考えた。


 東北はかなり遠い。自分なりの覚悟を決めて南三陸へ行ったのである。

 自分にとって、とても歴史的な旅であった――




 2014年5月12日の午前中は、自転車に乗って川沿いを北上して、かなり遠くの小さな公園まで出かけていた。

 自分は嫌なことがあると自転車に乗って、よく気分転換をする。

 近所には、いくつかの自転車道がある。川沿いの自転車道の途中に小さな公園がある。春になると桜が満開になって花見客でにぎやかなのだけれど、5月の午前中には誰もいない。

 自分はベンチに座って休んでいた。


 自分は嫌なことがあると旅にも出かけたくなる。日本全国いろんなところを行ったので、もう行きたいところはないかな、と考えていた。

 そういえば、東北には行ったことがないことを思いした。本州で一番北へ旅したのは栃木県の日光東照宮までであった。本州でそこから北へはない。

 北海道は行ったことがある。だから自分は東北で、どこかいい旅先がないかと考えてみた。


 その時に、東日本大震災の被災地が思い浮かんだのである。

 阪神淡路大震災の被災地である神戸には日帰りで行くことができるけれど、当時は18歳で、わざわざ被災地を見ようと考えることもなく、また進学のこともあって心の余裕はなかった。

 東日本大震災は1000年に一度の大災害と言われていたので、時間的な余裕も自分にはあることだし思いきって行ってみようと決心した。


 自転車に乗って、自宅へ帰ったのは正午くらいだったと思う。その時には、まだ被災地のどこに行くかも決めていなかった。

 とにかく、早く自宅を出て特急に乗って、新幹線に乗らなければという思いだけだった。



 まずは仙台市に行こう。

 そして、仙台駅前のビジネスホテルに宿泊して、被災地への場所や交通手段はホテルのネットサービスを利用して調べようと決めた。

 自宅でインターネットで急いで仙台駅前のビジネスホテルを探した。運良くホテルが見つかった。

 いつもより大きめのバッグに下着や服を入れて、さらに今回の旅ではノートパソコンとLANケーブルも持っていくことにした。

 ホテルの中にはwifiが利用出来ないホテルもあるからである。

 でも、それを調べる時間がなかった。



 急いで自宅を出て、近鉄特急で名古屋駅へ向かう。

 自宅から仙台駅までは、およそ6時間くらいかかる。

 名古屋駅に着くと、JRのみどりの窓口で仙台駅までの新幹線自由席の切符を買った。東海道新幹線で東京駅へ、東京駅から東北新幹線に乗り換えて仙台駅という順番である。


 自分の外出中のネット環境はwifiだけである。スマホの定額サービスは利用していない。

 だから、近鉄電車に乗ったら仙台駅に着くまではネットが利用出来ない。

 移動中にネットが利用出来たら、新幹線の車内からでもホテルの情報や予約が出来て、被災地の詳しい情報も調べることができるのだけれど。

 そこのところは長年の旅の経験と勘でおぎなっている。


 旅先で道を歩いていても、街の雰囲気でどこになにがあるか、どこに行けばいいのかが分かってくるのである。

 例えば国道沿いにはコンビニがあるとか、駅前には飲食店があるとか。

 食料の買い出しの時はどこにスーパーがあるのか、観光地であるならばトイレに行きたくなった時、駅前には必ずデパートやホテルがあるからとか。

 そういう情報が長年の旅の経験と勘で、わざわざ調べなくても、大体分かるようになってくるのである。



 仙台駅に着いたのは午後8時くらいだったと思う。

 東北新幹線の車内では駅に着くまで寝ていた。駅からタクシーで、ビジネスホテルの名前を言って送ってもらった。

 チェックインして部屋に入ると、バッグからノートパソコンを取り出してネット環境に接続した。

 仙台に着くまで頭の中で旅のプランを考えていた。最初に書いた防災庁舎の町へ行くことだけは決めていた。でも、どこに防災庁舎があるのかホテルで調べるまで知らなかった。

 調べたら南三陸町だという。

 今度は南三陸町がどこにあるのかを調べた。要するにノープランである。


 路線図を調べてそれをレポート用紙に手書きする。

 南三陸町までの電車は調べることが出来て、その後、当初は三陸海岸を北上して岩手県の内陸を電車で通って、中尊寺金色堂を見てそこから新幹線に乗って帰ろうと計画していたのだけれど、東北はかなり広くて、この計画で進めていくと、帰りの新幹線で名古屋に着くころには午後11時過ぎになってしまい、近鉄特急の最終に乗れなくなる可能性が出てきた。

 それならばと岩手でホテルを探して一泊するか、再び仙台駅までもどってホテルを探して、一泊するかの二つの選択肢しかなかった。

 しかし、今回の旅のテーマは被災地なので、南三陸町に午前中に行って、正午くらいに来た道をもどって、新幹線に乗って帰ろうという確実なプランに決定した。



 2014年5月13日午前8時くらいだったと思う。

 ホテルをチェックアウトして地下鉄に乗って仙台駅へ行く。仙台駅からJRの東北本線に乗った。途中車窓から日本三景の一つ松島の風景が見えた。小牛田こごた駅で志津川駅行きの電車に乗り換える。

 ……と思ったけれどどれに乗り換えればいいかわからない。

 駅員に聞いてみたけれどそれでもよくわからなかった。このあたりは勘で判断した。


 無事に電車に乗ることができた。石巻線から気仙沼線へ、柳津駅に着いた。

 ここから先の志津川駅までは線路がなかった。

 本当にレールが無いのである。地震と津波で全部壊れたみたいである。

 柳津駅からBRTというJRの路線バスを利用することになる。このバスに乗り換えて志津川駅を目指す。途中、バスがバス専用の道路を通った。何か様子が違う。普通の道路じゃなかった。

 トンネルの壁ギリギリの細い道路なのである。どうやら線路を改造して道路にしている。


 ――やがて海が見えてきた。三陸海岸である。

 これも様子が違う。所々の海岸線になにもない。整地されていた。津波の影響である。

 はじめて自分の目で見た、実際の被災した風景がそれである。



 志津川駅の前のあたりまでバスが来ると、いっきに視界が広くなる。でも、まったくなにも無い。

 それでも遠くに建物が見えた。それが防災庁舎であることはすぐにわかった。

 自分のこの旅の目的地である。

 志津川駅を下車、見える防災庁舎までは十数分の距離。途中なにもない。整地された土地だけである。

 少し小高くて長く続いているところがあった。最初は何か分からなかったけれど、よく見たらそれが線路跡だと気がついた。

 レールはない。小さな陸橋もボロボロ。ところどころに雑草がはえていた。



 ――防災庁舎の前までついた。

 正面玄関跡に地蔵があった。千羽鶴もあった。花束もあった。

 自分は防災庁舎を見上げる。ボロボロである。

 右側に非常階段が見える。グニャグニャである。

 津波の勢いのすさまじさが想像出来た。


 屋上を見上げる。写真や映像で見たことがある。

 3月11日のあの日、あの屋上まで津波は直撃して、その中で、数人の人たちが手すりにしがみついている場面。多分、みんな死んだのだろう。


 自分は合掌した――


 防災庁舎から海を目指した。相変わらず整地された土地、何もない。

 堤防が見えた。ボロボロである。

 堤防の意味はあったのだろうかと考えた。隣にあった市場らしき場所に行って、そこから海を眺めた。


 振り返ると丘の上がいくつか見えた。

 左側の丘には学校らしき建物があり、右側の丘には畑と一戸建ての家が見えた。

 自分は右側の丘を目指して歩いた。途中整地された土地でダンプカーが動いていた。工事をしているのだろう。

 左側には川があって、その向こう側には遠くにある防災庁舎が見える。


 自分はこの防災庁舎と南三陸町の全景を、その丘の上から一望して写真を撮ろうと思ったのである。


 丘の上に上がった。畑の土手から写真を撮ろうと思った。敷地内である。

 すると、一戸建ての家の中から男性が出てきた。自分は、すかさず挨拶をする。

「どうも。ここから写真を撮らせてもらっていいですか?」

「はいはい、どうぞどうぞ」

 なんか、なれた返答だと感じた。

 多分、自分のような人が、よくこの場所に来て写真を撮っているのだろう。

 と同時に見て行ってください、というような思いが、その男性の返答から伝わってきた。


 丘の下に家はまったくない。しかし、この家は丘の上にあったから残っている。

 ここに来る人に対して見て行ってくださいという思い、願いを感じたのは、責任感というか使命感というか罪悪感というか、そういう複雑な気持ちがあったからなのかもしれない……と考えた。


 写真をいくつか撮り終わると、その男性はいなかった。

 そのまま来た道を下って駅へ向かう。

 帰りのバスまではあと一時間あった。

 近くに南三陸ポータルセンターという施設があり、そこで東日本大震災のパネル展示をしていたので見た。

 また、バス停に隣接して仮設の商店街のようなお店が集まっていたから、ずっと見て回っていた。

 確か南三陸の海の幸のおみやげを、ここで買ったと思う。


 帰りのバスに乗る。帰りの電車に乗る。

 どちらもずっと車窓の外を見ていた。

 柳津駅まではバス、所々に整地されて人工的に綺麗になっている場所が見える。電車が到着するまでしばらく、駅前で時間をつぶしていた。

 目の前には緑色の葉がしげった桜の木があったと思う。静かな場所だった。


 平和だ――


 あんなことがなければ、この辺りも平穏に時が流れていたのに、などと考えていた。

 電車が来た。仙台駅までの直通電車だったと思う。

 平和だった。住宅も多く見えてくるようになった。平和だ、本当に平和だった。自分にはそう見えた。




 ――自宅から数分の公園。

 3月上旬、ちょうど東日本大震災が発生した11日くらいになると、その公園にある河津桜が満開になる。

 自転車に乗ってこの公園を通る時に、その河津桜が目の前によく見える。

 東日本大震災と河津桜、自分はこれを心の中で結びつける。


 多くの仮設住宅が造られた。

 住みなれない住居で生活していかなければならないというのは、思っている以上に難しくてつらいだろう。

 自分が引っ越しした時のことを思い出して、そう考えた。

 遺体が見つかった場合であれば、精神的なくぎりをつけることは出来るかもしれないが、行方不明者として遺体も見つからない場合は、精神的にどうすればいいのか分からないはずである。


 仮設住宅で孤独死する人が多いという。

 死んでいった人達は無念であるが、生き残った人達も、これからも生きていかなければならないという重荷によって苦しむ。

 被災地を遠くからしか見ることしか出来ない人も、東日本大震災という歴史と同じ時代に生まれた人も、はっきり言ってみんな不幸だ。

 死んだほうがましだとか、死にたいとか、そういう思いをもつのは自分は理解出来る。

 自分もその一人だからである。


 自宅が倒壊して近所にいた友人がいなくなって、家族もいなくなって、これ以上なにをがんばればいいのか。どうしていけばいいのか。

 頑張ったところで、絶対にもとには戻らない。

 慣れない生活で体力を減らして、気力も無くして、食欲も無くなり、精神的な病気、うつ病になり、そして孤独死である。


 だから、被災者に頑張れという言葉を言うのは失礼だと思う。

 言われなくても被災者はずっとがんばっているのだから――


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