第85話
「ねえエツジ君。なにかしてほしいこととかあるかしら?」
「いきなりどうした?」
「今日はエツジ君が王子で私がメイド。今ならなんでも言うこと聞いてあげるわよ?」
「言うことを聞く」という割には詰め寄ってくるエリカ。メイドとはもう少し控えめなイメージだが、その破壊力は凄まじいものだった。メイド姿のエリカにこんな風に迫られて煩悩が花開かない男なんていないだろう。あれやこれやと頭の中で欲望が駆け巡りながらギリギリで理性を保っていた。
「落ち着けって」
「遠慮しないで、ほら、なんでもいいのよ?」
教室の端まで追いやられ、これ以上は下がれない。いい香りを鼻に感じるほど顔が近い。近くなればなるほど思考は停止し理性が吹っ飛ぶ。
これ我慢しろってほうが無理じゃない?もう本能の赴くままに……。
ガラガラガラッ。突如扉の開く音が聞こえた。それはこの教室に俺たち以外の誰かが入ってきたことを知らせる音だ。こんな姿を他の人に見られるわけにもいかないので二人して急いで身を隠した。
「確かこの部屋に置いてあるはず……あ、これよこれ」
「へぇー…うちらのクラスのものってここに置いてあるんだ」
どうやら入ってきたのは俺たちのクラスの誰か二人らしい。声だけなので誰かはわからないが、おそらく材料でも取りに来たのだろう。
俺たちのいる場所は教室の奥。身を屈めれば机と積み上げられた段ボールによって入り口からは見えないはず。このままじっとしていればやり過ごすことが出来そうだ。
落ち着きを取り戻して一息ついた時、首筋にすぅすぅとなにかを感じた。
「わっごめ―――」
「しっ……バレちゃうわ」
首筋にあたっていたものの正体はエリカの吐息だった。咄嗟に隠れたせいで俺とエリカはとんでもない体勢になっていた。いつぞやのベッドの上を思い出す。いや、それ以上に今回は距離が近い。
「あれ?今なにか聞こえたような」
「ちょっとやめてよー。怖いじゃん」
やばいやばい……体が熱い……心臓が破裂しそうだ。
バレてしまうかもしれないというスリルと息を感じるほど近いエリカによって鼓動は今までにないくらい激しい。
幸い奥まで覗きに来ることはなく、材料も手前にあったようなのでバレずに済みそうだ。
「そういえば真弓さんここにもいなかったね」
「んー…どこ行ったのかな?」
「案外二宮君と抜け出してたりして?」
「えー?あの二人に限ってそれはないでしょ」
二人組の去り際に聞こえたその会話のせいで、今の俺たちの状況がいけないことをしているように思えてしまう。実際傍から見ればそうなのだが…。エリカも同じことを思ったのか視線を逸らした。でもその仕草と表情が妙に艶っぽかった。
「ふぅー…やっと行ったな」
「そ、そうね……」
「ほんっとにごめん!わざとじゃないんだ!」
「わかってるわよ……それに…やじゃ…ないわよ…」
この部屋に来てから落ち込んだり、照れたり、楽しかったりと感情の振り幅が大きくて変化に忙しい。時間にしたら短いが密度は濃い。
「前にもこんなことあったわね」
エリカも思い出していたのだろう。今回はあの日よりもさらに近かった。まるで中断したあの時の続きを再現しているかのようだ。
「そうだな。俺も―――」
ガラガラガラッ。
再び聞こえたその音の意味を瞬時に理解し、身を隠すよう自然と体が反応した。
素早く動けたのはよかった。でも先程同様焦りすぎてたんだ。もう少し落ち着いていれば……俺が浮かれていなければ……俺がつまらないことを考えなければ……なにも起きなかったのかもしれない。
「やばいっ。隠れ―――んっ……」
「んっ……」
誰が望んだか知らないが、再現はまだ続いていたんだ。
「ついでに布も持ってってあげるの忘れてたー。えーっと……これかな?」
「おーいあったー?」
「あったあった。ごめんねー。戻ろっか」
ガラガラガラッ。
二人が出ていった後、俺たちはそっと立ち上がった。何も言わず、目も合わさず、互いに背を向けて少し距離をとった。
俺は触れた感触を確かめるように唇に手をあてた。背を向ける前に見たエリカが同じことをしていたのはなにを意味しているのだろうか。
――――――こんなことあるのかしら?
あの時のエリカに今の俺はなんて答えるのだろう?
「私……着替えてくるわね」
「そうだな……俺も」
着替えていても上の空だった。頭の中でついさっきまでの出来事が映像となって何度も何度も再生されている。どこまでが正確なのか曖昧だが、感触だけは覚えている。ほんの一瞬のことだったのに、俺の唇が夢ではないことを証明している。
認めていいのか、向こうはどう思っているのか、あれは本当に……、思考は追い付かず頭の中がごちゃごちゃになっている。なにが起こったのかなんとなくわかってても、素直に受け入れることが出来ない。俺お得意の勘違いの可能性もある。
仮に俺の思っている通りだとしたらあまりよいことではない。正直俺からしたら嫌なわけないけど、罪悪感や不安の方が嬉しい気持ちを上回っている。
エリカに嫌われたかもしれない。
「初めて……なんだよな……」
定義があるかどうかなんて知らない。今の俺にとって辞書に並べられた文字やネットを彷徨う情報は意味をなさない。
俺が望む答えを知っているのはエリカだけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます