第86話

「遅いな……」


 エリカは中々戻ってこなかった。先程の着替えにかかった時間と比べれば少し遅い。と言っても五分程度の差だと思うが、今の俺には果てしないほど永く感じる。

 俺はじっとしていられず、隣にいるであろうエリカの下へ向かうことにした。普段なら自ら呼びにいくなんてしない。万が一着替えが終わっていなかったら変態のレッテルを貼られるかもしれないし、女性の着替えを急かすようなことはしたくない。気長に待っているのがよいのだろう。

 そんなことわかっていても、自制できるほどの余裕はない。どうしてもエリカと話したかった。顔を見て、目を見て、エリカに聞きたいことがあるんだ。

 隣にあるのは物置のように使われている小さな空き部屋。いきなり扉を開くわけにもいかないのでノックをして確認する。


「エリカ?着替え終わったか?……ちょっと話さないか?」


 返事はなかった。俺の口ごもった言い方のせいで聞こえなかったのかもしれない。

 高揚しているようで、怯えているようで、ドキドキしているようで、ざわざわしているようで、熱いようで、冷えているようで、俺の心はかつてないほど錯乱していた。少しでも衝撃を与えたら爆ぜてしまうような、そんな繊細な爆弾を胸の内に抱えているみたいだった。その状態でまともに喋れているのかどうかなんてわからない。


「エリカ?おーい?入ってもいいか?」


 声を張ってもう一度呼びかける。声は震えていたがさすがに聞こえたはず。だがエリカからの返事はなかった。

 二回の呼びかけに応答がなく、渦巻いていた不安は大きくなって俺にまとわりついてくる。

 もしかしてエリカは怒っているんじゃないか?そうじゃなくても嫌だったんじゃないか?いくら仲がいいと言っても、そういう関係じゃない男となんて……。エリカが誰かと付き合ったという話は聞いたことがないし、おそらく向こうも初めてだったんじゃ……。だとしたら取り返しのつかないことをしてしまったんじゃ……。駄目だ、やっぱり話してみないとわからない。


「ごめんエリカ。返事ないけど入るぞ」


 決意したと同時に扉を開いた。その先にどんな表情のエリカが待っているのか。

 だがそこにエリカの姿は無かった。隠れるスペースなどほぼないが、一応探してみる。やはりいない。代わりにエリカが着ていたメイド服が綺麗に畳んで置いてあった。それだけでエリカがここにいないことがわかった。


「エリカ……どこ行ったんだよ」


 廊下に出て、近くを探してみたが見つからなかった。


「エツジ!」


 声が聞こえた方向に素早く振り向く。


「エリ…サユリ?」


 廊下の端の方から小走りでやってきたのはサユリだった。俺の名が聞こえた瞬間にエリカだと思い込んでしまったので拍子抜けした。事情を知らないサユリに失礼なので顔に出ないように気を付ける。


「教室にいなかったからどこだろうって探してたんだけど、ここにいたのね」


「どうした?というかもう解放されたのか?」


 俺たちが四組を出ていく直前も集まる人は増えていた。あの盛り上がりようからしてサユリもコウキも当分は捕まったままだと思っていた。


「エヘヘ、お手洗いって言って抜け出して来ちゃった」


「そっか。大変だな」


「だってせっかく見に来てくれたのにエツジすぐいなくなるんだもん。恥ずかしいけど……エツジには見て―――」


「なあ、エリカ見なかったか?」


「え?エリカ?見なかったけど……なんで?」


「いや……ちょっとな」


「……それより、ねえ、どうかしら?このドレス……その……なんていうか……ちょっと派手だけど―――」


「ごめん。俺ちょっとやらなきゃいけないことあるから行くわ。サユリも練習頑張れよ。じゃあ」


「ちょ、ちょっと待って―――」


 今は心も時間もサユリと話している余裕はなかった。サユリは俺になにか用があったのかもしれないが、申し訳ないが今度にしてもらおう。今はエリカを探さないといけない。いち早くエリカと話さないと気が気でない。




「そんなぁ……エツジに見てほしくてドレスのまま抜け出してきたのに……。エツジに褒めてほしかったのに……。エツジに可愛いって言ってほしかったのに……」




 俺は校舎中を探して回ったが、エリカは見つからなかった。実行委員が作業をほったらかして校内を歩き回るのもよくないので自分の教室に戻ることにした。


「もー二宮君どこほっつき歩いてたの!もしかしてサボり?」


「ごめんごめん。備品の整理してたらお腹痛くなっちゃって」


「そうだったんだ。それは仕方ないけど次からは声かけてよね」


「心がけます」


「まったくー…真弓さんはとっくに戻ってるのに」


「え?!」


 教室を覗き込むとエリカは黙々と作業をこなしていた。その後ろ姿は、何事もなかったかのようだった。

 俺も中断していた作業に取り掛かる為、エリカの隣に腰を下ろした。「戻ってたんだな」という探りの言葉に「黙って戻って来てごめんなさいね」というあっさりした言葉しか返ってこなかった。俺が聞きたいのはそうじゃなくて……。

 しばらく無言で手を動かしていた。話す内容を整理する時間だ。まとめ終えた俺は深く息を吸い込んで「エリカ」と呼びかけた。


「さっきのことなんだけど……」


「抜けてた分作業が遅れてるわ。頑張りましょ」


 まずは謝って、それから探り探り聞いてみよう、そう勇んだもののエリカの一声でブレーキがかかる。拒否されたわけでも、あしらわれたわけでもないのに、これ以上聞くことが出来ない空気を感じとった。声色、表情、目線、動作、なにがそうさせているのかわからないが、喉元まで出かけた言葉はすっと奥に戻っていった。

 教室に他の人がいるから、という理由ではないのは確かだ。二人きりだとしても変わらないだろう。

 少し安心している自分がいる。本当は怖かった。エリカとの関係が壊れてしまうかもしれない、そう考えると焦らないほうがいいのかもしれない。時が解決してくれるとは思ってないが、タイミングは重要だ。今は、まだ、ゆっくりと。


 ――――――エリカはどう思ってるんだ?嫌われたかな……怒ってるかな……ひょっとして悪い気はしてなかったりして……なんて甘い考えはなくても案外なんとも思ってないのかも……でもやっぱり初めてであれはよくないだろ……そもそもあれをカウントするのか?なあ……エリカ……どうなんだ?教えてくれよ……エリカ……。


 口に出すことができず行き場を失った俺の気持ちは、頭の中を延々とぐるぐる回っている。

 ああ、駄目だ、なにをしていてもエリカのことしか考えれない……。

 これを機に仲が悪くなったとか、話さなくなったとかはない。でも結局それ以降もタイミングはやって来なくて、そんな状態で、俺たちは文化祭当日を迎えることになる。

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