2 べとべとさんのわけ
◆
「はい、あの講義の教科書」
「どもっす」
「しかし、運がないねえ、売り切れなんて。他に僕が
「いえ……」
先輩から当初の目的だった本を受け取っても、なんとなくもやもやした気分で、俺はちらりと窓の外を見た。
先輩の家のお隣の、淡いクリーム色の壁がそこにはある。
さっき、泣きそうになっていた女の子が入って行った家だ。
「あの、先輩」
「何?」
正直なところ、この人のそういう言動には慣れてきたし、下手に突っ込まない方がいいのは知っている。
だが、好奇心が猫を殺すとしても、気になる。
「さっき、何が見えてたんすか」
先輩は
泣きべそをかいていた女の子の後ろ。
少なくとも俺には、夕日と呼ぶにはずっと早い、午後の日に照らされたアスファルトが続くだけだった。
それでも、先輩には何かが見えてたはずなのだ。
でなければ、あんな反応はしないし、
手に持っていた本のページを、最初から最後までぱらぱらぱらとめくって、それから先輩は口を開いた。
「幽霊以上、妖怪未満?」
何故だか、疑問形で言いながら、先輩はぱたんと手元の本を閉じて、本棚に戻した。
「幽霊以上、妖怪未満てなんすか」
「幽霊と呼ぶには自我が薄まってるけど、妖怪と呼ぶには……難しく言うと概念が成立していない」
だから、近い概念の妖怪を当てがったわけだよ。
さらりと事もなげに先輩はそう言う。
「それがべとべとさん?」
「そう。多く妖怪は事象に対する概念だし、べとべとさんは対処法まで含まれた概念だから、当てはめちゃえば、簡単なんだ。実際、そうだっただろう?」
そう言って先輩は笑う。
が、俺の頭の上では、
「説明を、説明をください」
「ふむ……まあ、適当に座りなよ」
そう言って、先輩は自分のベッドの上にあぐらをかいた。
俺は先輩の勉強机の前の椅子に座った。
「さっきの感じからすると、君、べとべとさんは知ってるんだろ」
「ええ、まあ。誰もいないのについてくる足音がするってやつっすよね。追い越すよう
俺が知ってるのは「べとべとさん、お先にどうぞ」という
「さて、この場合、どっちが先だろう」
「先?」
「そう、足音だけがついてくるという事象と、べとべとさんという概念。どっちが先に生まれたか」
少なくとも、俺の知ってるべとべとさんは、姿が見えない妖怪だ。
姿は見えないが音は発するもの。その概念を持つものが、その音なしに成立するはずもなく。
「事象っすか。足音がついてくるっていう」
「そう。そもそも、べとべとさんという名前自体、足音の擬音語から来てるだろ。足音がついてくるという事象を、説明するための概念として作られた妖怪。それがべとべとさんと考えるのが一番収まりがいい」
なんというか、火のないところに煙は立たないのであれば、煙だけ出てるとこには火を起こしてやれ、みたいな本末転倒な感じはする。
「似たようなのでいくと、すねこすりも同じかな。何もいないのにすねをこすられる感触がしたら、すねこすりという
「何を好き好んでそんな」
「何って、すねをこすることらしいけど」
馬鹿らしくなってきた。
考えれば、べとべとさんがついてくる理由も、俺は聞いたことがない。
「もしかして、どっちも理由なんて気にしちゃいけないんすか」
「そりゃ、事象に理由を求めた結果生まれた存在に、さらに理由を問いただすなんて、ねえ」
なるほど。それらの存在以上の理由に理屈はない、と。
ちょっと
「いい事の方面だと、
「で、あの子に起きた事象がべとべとさんの起源と一緒だから、その先輩に見えたよくわかんないのを、べとべとさんの枠に押し込めた、と」
「そう、他に似たような妖怪や都市伝説はあるけど、べとべとさんが一番無害で対処法も確立されてるからね」
先輩はあぐらをかいた膝の上に
「一度押し込めてやれば、その概念から
なんとも抽象的な話である。
顔に出ていたらしく、先輩は笑って付け加える。
「概念って言ってるけど、つまりは物語だよ。怪談って言ってもいいかもね」
「えーと、つまり、追い越すよう
「そう。幽霊以上、妖怪未満ということは、個人としての自我もなく、概念としての規範も薄い、ただのそこに存在するだけの、方向性もほとんどないもので、それを認識してしまった人間の認識の仕方によって姿を変える。今回、
先輩の
この先輩は色素が薄い。
「もののけって言うだろ? もののけのもの、物体を
なんだってその言葉で表現できる。
先輩は言う。
「古く、妖怪や幽霊はもののけ、あるいは
「型がないから、何が起きてもおかしくないってことっすよね?」
「そう。ものとしか呼べないなら、法則性も方向性も変幻自在。意思がないのが幸いかというと、そうでもない。だから、一応の保険のつもりで振り返るなって付け加えた」
確かに、俺の知るべとべとさんに、振り返るなという伝承はない。
「あの時点では足音でしかなかった。振り返って、それを確かめようとしたら、何を見るだろうね」
「何もないんじゃないっすか?」
問い返した俺に、先輩は薄く笑って口を開く。
その目は鋭い光を
「べとべとさんに落とし込まれる前だよ? そこに何も現れない保証なんてないし、意思がないということは、こちらの意思に引きずられるということだ」
べとべとさんに落とし込まれる前。
何ものでもなく、何ものにもなれる、まっさらな変幻自在のもの。
「視覚という感覚は偉大だ。あらゆるものが視覚に引きずられやすいが、錯覚と心理状態によっては、
つまり、新しい妖怪だか都市伝説だかが、生まれてもおかしくないということ。
そう理解して、ぞっとした。
「なるほど、だから振り返るな、なんすね」
先輩があぐらを
「ただ、後から姿を引き当てられて、変動した例はあるけどね。
先輩が肩をすくめた。
こういうところを、意外とあっさりこの人は切り捨てる。
「なんつーかドライなんだか、面倒見いいんだかわかんないっすね、先輩って」
「んー、
だから君もうまく自衛してね、と言って先輩は笑った。
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