2 べとべとさんのわけ


「はい、あの講義の教科書」

「どもっす」

「しかし、運がないねえ、売り切れなんて。他に僕が受講じゅこう済みのやつ取るなら、その教科書もいる?」

「いえ……」


先輩から当初の目的だった本を受け取っても、なんとなくもやもやした気分で、俺はちらりと窓の外を見た。

先輩の家のお隣の、淡いクリーム色の壁がそこにはある。

さっき、泣きそうになっていた女の子が入って行った家だ。


「あの、先輩」

「何?」


正直なところ、この人の言動には慣れてきたし、下手に突っ込まない方がいいのは知っている。

だが、好奇心が猫を殺すとしても、気になる。


「さっき、何が見えてたんすか」


先輩はぞくに言う霊能力者だ。

泣きべそをかいていた女の子の後ろ。

少なくとも俺には、夕日と呼ぶにはずっと早い、午後の日に照らされたアスファルトが続くだけだった。

それでも、先輩には何かが見えてたはずなのだ。

でなければ、あんな反応はしないし、無闇むやみに人を不安にさせるような人ではない。

手に持っていた本のページを、最初から最後までぱらぱらぱらとめくって、それから先輩は口を開いた。


「幽霊以上、妖怪未満?」


何故だか、疑問形で言いながら、先輩はぱたんと手元の本を閉じて、本棚に戻した。


「幽霊以上、妖怪未満てなんすか」

「幽霊と呼ぶには自我が薄まってるけど、妖怪と呼ぶには……難しく言うと概念が成立していない」


だから、近い概念の妖怪を当てがったわけだよ。

さらりと事もなげに先輩はそう言う。


「それがべとべとさん?」

「そう。多く妖怪はだし、べとべとさんは対処法まで含まれただから、当てはめちゃえば、簡単なんだ。実際、そうだっただろう?」


そう言って先輩は笑う。

が、俺の頭の上では、はてながワルツを踊っている。


「説明を、説明をください」

「ふむ……まあ、適当に座りなよ」


そう言って、先輩は自分のベッドの上にあぐらをかいた。

俺は先輩の勉強机の前の椅子に座った。


「さっきの感じからすると、君、べとべとさんは知ってるんだろ」

「ええ、まあ。誰もいないのについてくる足音がするってやつっすよね。追い越すよううながすと離れるっていう」


俺が知ってるのは「べとべとさん、お先にどうぞ」という文句もんくだ。先輩が女の子に教えたような、少し古い言葉づかいではない。


「さて、この場合、どっちがだろう」

「先?」

「そう、足音だけがついてくるという事象と、べとべとさんという概念。どっちがか」


少なくとも、俺の知ってるべとべとさんは、姿が見えない妖怪だ。

姿は見えないが音は発するもの。その概念を持つものが、その音なしに成立するはずもなく。


「事象っすか。足音がついてくるっていう」

「そう。そもそも、べとべとさんという名前自体、足音の擬音語から来てるだろ。足音がついてくるという事象を、説明するための概念として作られた妖怪。それがべとべとさんと考えるのが一番収まりがいい」


なんというか、火のないところに煙は立たないのであれば、煙だけ出てるとこには火を起こしてやれ、みたいな本末転倒な感じはする。


「似たようなのでいくと、も同じかな。何もいないのにすねをこすられる感触がしたら、すねこすりというけものの妖怪が、その身をすねにこすりつけてるってね」

「何を好き好んでそんな」

「何って、すねをこすることらしいけど」


馬鹿らしくなってきた。

考えれば、べとべとさんがついてくる理由も、俺は聞いたことがない。


「もしかして、どっちも理由なんて気にしちゃいけないんすか」

「そりゃ、事象に理由を求めた結果生まれた存在に、さらに理由を問いただすなんて、ねえ」


なるほど。それらの存在以上の理由に理屈はない、と。

ちょっと可哀想かわいそうな気もしなくはない。


「いい事の方面だと、座敷童子ざしきわらしは、幸福に紐づいてるわけ。そういう風に、事象と妖怪は紐づいてたりする」

「で、あの子に起きた事象がべとべとさんの起源と一緒だから、その先輩に見えたよくわかんないのを、べとべとさんの枠に押し込めた、と」

「そう、他に似たような妖怪や都市伝説はあるけど、べとべとさんが一番無害で対処法も確立されてるからね」


先輩はあぐらをかいた膝の上にひじを乗せて、頬杖ほおづえをつく。


「一度押し込めてやれば、その概念かられた行動はとれない。その概念から離れてしまえば、は消えてしまう」


なんとも抽象的な話である。

顔に出ていたらしく、先輩は笑って付け加える。


「概念って言ってるけど、つまりは物語だよ。怪談って言ってもいいかもね」

「えーと、つまり、追い越すよううながせば去っていくっていう設定がその怪談にあるから、べとべとさんに当てはめられたら、その設定ふくめて踏襲とうしゅうするしかない、と?」

「そう。幽霊以上、妖怪未満ということは、個人としての自我もなく、概念としての規範も薄い、ただのそこに存在するだけの、方向性もほとんどないで、それを認識してしまった人間の認識の仕方によって姿を変える。今回、花奈かなちゃんは足音として認識した」


先輩のはしばみ色の目が光の加減で緑に見える。

この先輩は色素が薄い。


って言うだろ? もののけの、物体を、人を。全部根っこは同じ、それをす明確な言葉を使わない、あるいは使えない場合の便利な言葉だ」


なんだってその言葉で表現できる。

先輩は言う。


「古く、妖怪や幽霊は、あるいはおに一括ひとくくりに呼ばれた。そこにある概念は固定化されていない。つまりは、今話していたような固まった概念がない。概念が引き当てられていないというのは、そういうことだ」

「型がないから、何が起きてもおかしくないってことっすよね?」

「そう。としか呼べないなら、法則性も方向性も変幻自在。意思がないのが幸いかというと、そうでもない。だから、一応の保険のつもりで振り返るなって付け加えた」


確かに、俺の知るべとべとさんに、振り返るなという伝承はない。


「あの時点では足音でしかなかった。振り返って、それを確かめようとしたら、何を見るだろうね」

「何もないんじゃないっすか?」


問い返した俺に、先輩は薄く笑って口を開く。

その目は鋭い光をたもったままだ。


「べとべとさんに落とし込まれる前だよ? そこに何も現れない保証なんてないし、意思がないということは、こちらの意思に引きずられるということだ」


べとべとさんに落とし込まれる前。

何ものでもなく、何ものにもなれる、まっさらな変幻自在の


「視覚という感覚は偉大だ。あらゆるものが視覚に引きずられやすいが、錯覚と心理状態によっては、尾花おばなも幽霊になる。現れたものが恐ろしければ、恐怖がそのまま、新たな概念、怪談と化す」


つまり、新しい妖怪だか都市伝説だかが、生まれてもおかしくないということ。

そう理解して、ぞっとした。


「なるほど、だから振り返るな、なんすね」


先輩があぐらをくずして、膝を立てると、その膝を抱えて苦笑する。


「ただ、後から姿を引き当てられて、変動した例はあるけどね。はらう側だった異形の神がはらわれる側と見なされてしまった節分の鬼とか、本来は気味悪い鳥の鳴き声だったのに、複数の動物が合わさった姿をつけられたぬえだとか……さすがにそこまでは面倒見切れないけど」


先輩が肩をすくめた。

こういうところを、意外とあっさりこの人は切り捨てる。


「なんつーかドライなんだか、面倒見いいんだかわかんないっすね、先輩って」

「んー、傲慢ごうまんなだけだよ、僕は。ただ認識して干渉できるからって、手の届く範囲内をどうにかしてるだけ」


だから君もうまく自衛してね、と言って先輩は笑った。

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