とりあえず、べとべとさん

板久咲絢芽

1 ついてくる

それはいつもの下校の道で、普段と違ったのは、先生の手伝いで遅くなって、ただ一人。

踏切を越えてその先の家まであと数百メートル。

いつもと同じ道なのに、いつもより少し遅いだけなのに、ただ花奈かな一人なだけなのに。


――ざりっ、ざりっ


後ろから、アスファルトをけずるような足音がまない。

もともと、花奈かなの通学路はあまり人通りが多い道ではない。

だからこそ、最初は何の音だろう、と思ったのだ。思った瞬間に、足音だと直感して、怖くなった。


――ざりっ、ざりっ、ざりっ


いちかばちか、少し遠回りをする道に入っても、足音はぴったりと後ろについたまま。歩を進めるたびに、ざりっというアスファルトをこする足音が聞こえる。


――どうしよう。


そう思って立ち止まれば、音もまた、ぴたりと止まる。

何がいるのか。気になりはしても、それ以上に恐怖が勝った。

自然と早足になるが、同時にざりっという音の間隔も短くなる。

誰かいればいいのにと思っても、閑静な住宅街に花奈かな以外の通行人はいない。

自分の呼吸と、鼓動と、何のものとも知れぬ足音しか耳に届かない。

泣きそうだった。叫びそうだった。

けれども、喉の奥がきゅっとまって声が出ない。

こわばった手でランドセルの肩紐かたひもを握りしめて、こわばった足でなんとか歩を進める。

走ることも考えたが、ころんだ場合が怖かった。

今、まともに走れる自信はなかったし、今はついてきているなのだ。

ころぶなどという、すきを見せて、無事である保証など、どこにもない。


――ざりっ、ざりっ、ざりっ


いかに遠回りの道だろうと、家まで十分とかからないはずのその時間は、まるで苦手な算数の授業のように長かった。

ようやく家のある通りに出る。その瞬間の一歩にも、ざりっという足音はついてきた。

けれど、通りに出てすぐ、家の手前、お隣さんの家の前に人影があることに気がついて、花奈かなは思わず立ち止まった。


「おかえり」


そう言って手を振ってくれた人影は、隣の家のお兄さんだった。そのすぐ後ろにも、もう一人、お兄さんの友達だろう男の人が立っている。

見知った顔がある事に安心して踏み出すと、また、ざりっと音がした。

それは、花奈かなが動きを止めるのに十分だった。


「どうかした? 大丈夫?」


にこやかに挨拶あいさつをしたお兄さんは、すぐに花奈かなの様子がおかしいことに気付いて、そのまま目の前に来て目線を合わせるようにしゃがんでくれる。

泣きそうな花奈かなが、声を出そうとするも、できなくて呼吸を整えて、と繰り返す間、お兄さんはじっと待っていてくれた。


「……のね、あのね、わたしの、後ろ、何もいない?」


どうにかそうしぼり出すと、お兄さんは一度まばたきをしてから、少し右側に首を伸ばして、花奈かなの後ろをのぞき込む。


「……花奈かなちゃん、何があったのかな」


のぞき込んだまま、何がいるともいないとも言わずに、お兄さんはそう言った。


「足音が、ついてくるの」

「そう……振り返ったりした?」


お兄さんはまた目を合わせると、そうゆっくりと聞いた。


「……怖くて、してない」

「そっか……」


お兄さんはそれを聞いて、じっと考えるように黙り込む。

少しうつむき気味になったその薄い茶色の目が、一瞬だけ緑っぽく花奈かなには見えた。


「先輩」


少し離れて様子を見ていたお兄さんの友達が口を出そうとして、それをお兄さんは小さく手を上げて制した。


花奈かなちゃん、たぶんね、それはだよ」

「べとべとさん……?」


お兄さんの口から出た言葉を、花奈かなは繰り返す。

お兄さんの友達の方は、ああ、とうなずいて口を開いた。


「いわゆる妖怪っすよね」

「……妖怪? 妖怪って、あのアニメとかの?」

「そう。べとべとさんは人の後ろを歩くだけの足音の妖怪。でも、もし気味が悪いなら、こう言えばいいんだ」


――べとべとさん、お先へおし。


お兄さんは何故か少し声をひそめてそう言った。

そして、見つめ返す花奈かなに一つうなずいて、繰り返すようにうながしてくる。


「……べとべとさん、おさきへおこし」


花奈かながそう言った次の瞬間、


――ざりっ


今まで後ろから聞こえていた音が、真横から聞こえた。


「ひっ……」


吐き出しかけた空気を肺が引き戻して、喉からほんの少しの音が出る。

身体がこわばる。

真横にいる。今まで後ろにいた何かが、真横にいる。

ただ、いるという気配以外はないけれど、確実に

けれども、


――ざりっ、ざりっ、ざりっ、ざりっ


その足音は真横からななめ前へ、花奈かなを追いこして、次第しだいに遠ざかって行く。

そこには、実体も影も、何もない。

ただ、足音だけが移動して、花奈かなを置いて行った。

花奈かなの緊張がゆるみ出したのを見てとったお兄さんが、口を開いた。


「どうかな」

「……足音がね、そっちの方に歩いてった」


前方を指差ゆびさすと、お兄さんはよかったと言って立ち上がった。

その時には、いつものやわらかい雰囲気のお兄さんだった。


花奈かなちゃん、今度同じようなことがあったら、同じようにしてみてね」

「うん」


ただ、とお兄さんは続ける。


「その時は、絶対に振り向かないこと。絶対だよ?」


いつものお兄さんにしては、どこか強い口調でそう言った。

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