第2話 偶然と奇跡

 夕陽丘高校ゆうひがおかこうこう一年二組。ここはれんの通う教室であり、周囲を見渡せば皆真新しい制服に身を包んでいて、四月特有の喧騒けんそうで溢れかえっている。

 蓮の席は教室のほぼ中央あたり。周りを見れば蓮と同じような理由で進路を決めた中学時代の同級生もちらほら。

 しかしながら、これまでの蓮には人付き合いというものを忌避きひする瞬間が多々あった。

 したがって、周囲の大半は見覚えのある顔ぶれというだけで、わざわざ休み時間にわいのわいのと談笑するような間柄の人間がいるかと言われれば、そうではない。

 休み時間になれば、机に突っ伏して喧騒に耳を傾け、次の授業が始まるまでその時を過ごすというのが、今のところ現状であり現実なのだ。

 今は一時限目の数学が終わり、一〇分後には現代社会の授業が待ち受けている。

 突っ伏したまま狸寝入りをしてふと考えることと言えば、昨日の車椅子の少女のことだった。

 女性経験どころか、友達同士での交流すら皆無と言っていい人生を送ってきた蓮からしてみれば、昨日の一件は蓮史上中々に濃く、刺激的なひと時であり、忘れがたいものだった。

 やむを得ない事情であったとしても、同年代の女子の身体に触れたのはあれが初だった。

 そういえば、と年齢を聞いていないことを思い出したが、恐らくそこまで歳は離れていないだろう。

 春の陽だまりをこれでもかと吸い込んだ艶やかで絹のようなサラッとした黒髪は、触れる指先にほんのりとした温もりを伝えた。

 思い返せば、何とも言えない甘い香りのくすぐったさが少しばかり恋しくなる。

 自分の思考がどうにも変態的になっている気がして、いかんいかん、と邪念を払うように首を振る。ふと我に返れば、既に現代社会の担当教師が教壇に立ち、これから使うチョークの品定めにふけっていた。

 あっという間に四限目が終わり、昼休みがやってきた。

 いくら友達がいないからと言っても、昼休みも延々と机に突っ伏しているだけというわけにもいかない。蓮は授業態度こそ真面目で、板書をしっかりとノートに記録することもおこたってはいないので、この時間になればほどほどに腹の虫が騒ぐのだ。

 昼食は弁当を持参するときもあれば、校内の購買でパンやおにぎりを買って済ませることもある。母親の仕事の都合もあり今日は弁当を持参していないので、一階の購買を利用することにした。

 蓮の通う夕陽丘高校は、三階から順に一年棟、二年棟、三年棟、という構造になっている。

 そのため蓮たち一年生は、購買に行くとなるとわざわざ三階から一階へと降りなければならないのだ。同じエリアにあるからという理由もあってか、その購買の客層のほとんどが三年生を占めている。購買までたどり着いたはいいものの、そのエリアに立ち入れば、今度は少し威圧的とも捉えられる空気感とアウェー感に居心地の悪さを覚える。

 一刻も早く退散しようと肩をすくめながら、余りものの中からそそくさと適当な品を拾い上げる。

 後ろに並んでいるのは女子生徒二人組で、首元のタイの色を見るに恐らく三年生だろう。

 極力悪目立ちをしたくないため、中身の具も確認せずにおにぎりを二つ選んだところだったが、ふと背後から聞こえてきた会話の内容がどうにも気になった。

『ねぇ聞いた? この間の交通事故の話!』

『聞いた聞いた! トラックの運転手、居眠り運転だったんだってね』

『そうそう。しかもさ、ねられた女の子って、四月からうちらの学年に編入してくる予定だった女の子なんでしょ?』

『あーたしか言ってたね、そんなこと! 名前は……何だっけ、さえき? さえじま?』

『——三枝さえぐさだよ。三枝小鳥さえぐさことりさんっていう女の子』

 三枝小鳥、それは蓮の記憶にはまだ新しい名前だった。

 午前中はほぼずっと脳内で話題に上がっていた、昨日の車椅子の少女と同じ名前だった。

 単に同姓同名、というわけではないだろう。

『ってか、前の一年生選ぶの遅くない? 早くしてほしいんだけど』

『ちょっとやめなよ、聞こえるって。入学したばっかでまだ慣れてないんじゃない?』

 後ろで耳打ちする不機嫌そうな声に、蓮はヒヤリとした感触を覚える。

 ついでにちょうどいいサイズのパックジュースも購入したいところではあったが、ひとまずここで会計を済ませた。

 どうせ教室に帰る際に自動販売機の前を通るし、その時でいいだろう。

 立ち寄った階段横の自動販売機でペットボトルのお茶を買い、蓮はそそくさと教室へ戻った。

 自分の教室に戻ってくるなり、買ってきたおにぎりの封を破りながらさっきの女子生徒たちの会話を思い出す。

 学校の近くで交通事故があったという話については、何となくではあるが蓮も小耳に挟んではいた。しかしそれがこの学校の生徒ないし関係者であるということまでは知らずにいた。

 さっきの話を聞く限り、不運にも事故の被害者となったのは三枝小鳥の言う名の少女で、彼女は四月からこの学校の三年生として編入してくる予定だったと言う。あくまで噂に過ぎないが。

 しかしながらその噂が正しいとすれば、蓮の中で合点のいく話が一つだけあった。

 それは彼女が昨日、車椅子を押す蓮に対し、「夕陽丘高校の生徒か」、と尋ねてきたことだ。その時は特に気にもしなかった蓮だったが、今になって違和感を覚えるのはその後の会話だ。

 坂を登り切った後、小鳥は蓮の背後にある一軒家を指さし、「ここが自分の家」と答え、続けてつい最近この街に越してきたばかりだと教えてくれた。

 よくよく考えれば、越してきたばかりなのに、蓮の制服を見てすぐにその高校の名前を言い当てるというのは不自然なのだ。

 そして、小鳥は自分が車椅子で生活していることに対して、「こうなるはずではなかった」といった旨の言葉を残していた。

 そう考えれば、噂の交通事故の被害者である三枝小鳥という名の少女は、昨日蓮が出会った車椅子の少女と見て間違いないだろう。

 ふと黒板の上の時計を見ると、午後の授業開始まで残り五分といったところ。

 残り小さくなったおにぎりを放り込んでお茶で流した後、軽くうがいを済ませて教室に戻った。


 HRが終わり、蓮は逸る気持ちで帰路にく。

 というのも、頭の中には変わらず三枝小鳥さえぐさことりのことがあるからだ。

 今日もあの坂を通れば、小鳥に会えるかもしれない。そんな淡い期待を抱く自分に対し、他人ひとはこれをストーカーと呼ぶのではないか、と一瞬考えチクリとした感覚を覚える。

 小鳥に会えるか会えないかはさておき、行きも帰りもあの坂を通らなければならないのは、蓮にしてみれば致し方の無いことなのだ。

 そう自分に言い聞かせて校門を出て、ほんのわずかばかりの下心を覆い隠すように蓋をした。

 例の坂道に差し掛かかり、蓮は微かに自分の鼓動が早くなっていることを自覚する。

 ——この坂を登り切ったら、丁度彼女が家から出てきてばったり自分と鉢合わせる。

 そんな妄想に耽りながら登る坂道というのは、昨日までとは打って変わってその足取りは軽かった。

 あっという間に坂を登って左を向けば、真新しい『SAEGUSA』というシルバーの表札が目に飛び込んでくる。

 入口のドアを遠目に、そう簡単に期待していた展開が起こりうるはずもないと肩を落とした、その時だった。

 ——ガチャリ。

 狙ったようにドアが開き、出てきたのは車椅子に乗った黒髪ロングの美少女だった。

 突然の奇跡を目の前に一層胸の高鳴りを覚え頬を赤くした蓮だったが、それは向こうも似たようなものだったらしい。

 通りかかった蓮を見るなり、まるで雪のように真っ白な頬にぽっ、とあかを差しながら、小鳥はどこかはにかんだように笑ってみせた。

「あ! 沢城さわしろさん、ですよね?」

 顔を見合わせ、先に声をかけたのは小鳥の方だった。

「……あぁ、えっと、はい。昨日ぶりですね」

 小鳥の微笑みがまるで天使のように愛らしく、蓮は至って単純な受け答えにすら言葉を詰まらせる。

「えへへ、そうですね。その、昨日は本当にありがとうございました。改めて御礼が言いたくて、この時間になればまたここを通るかなと思いまして、沢城さんが来るのを待ってたんですよ。……って、なんか私ストーカーみたいで気持ち悪いですよね……すみません」

 それは要するに、「蓮に会うために待っていた」、ともとれる発言だった。

 照れ隠しのつもりなのだろう、昨日同様ひざに掛けた水色のブランケットの上で、小鳥はそわそわとその白い指先を絡ませている。

「え、え! いや、そんな! ストーカーなんてそんなこと! 思わないですから!」

 むしろ自分の方にこそそれに近い感情を抱いていた、というのは無かったことにして、慌てて小鳥の発言を否定した。

 ストーカーなんてこんな美少女にならむしろされたいぐらいだ、とよこしまな考えが三度みたびとして脳裏をよぎるが、純粋無垢な天使の微笑みを前にすれば、そんな感情も自然と浄化されていくものだ。

 気になる女性へのアプローチなどというませたことには今まで無縁の人生を送ってきた蓮だったが、惜しげもなく目の前のチャンスを棒に振ってしまえるほど馬鹿でもない。

 こんな美少女と知り合えたのも何かの縁だ。

 願わくば、もう少し彼女のことが知りたい。

 そんな純粋な好意を胸に、蓮は小鳥に人生初のアプローチを試みる。

「えっと、よかったらでいいんですけど、少しだけ話しませんか? あ、あの、えっと、もちろん無理にとは、言わないですし、その……えっと、気が向いたらというか、あの、あは、あはは……」

 蓮なりに思い切ってはみたものの、やはり慣れないことはするものじゃないな、と気づけばとてつもなく大きな後悔の波に襲われていた。

 みるみるうちに自分の頬に、額に、ついには耳の先までぼわっと熱を帯びていく感覚に襲われ、俯きながら肩をすくめる。

 そうして僅かに流れた沈黙を破ったのは、柔らかで愛らしくもある笑い声だった。

「ぷっ——ふふっ、はははっ。すみません、なんだかおかしくって、ふふっ」

 穴があったら入りたいとは、まさにこのことだろう。

 嘲笑ちょうしょうといった笑みとは違うことぐらいは蓮にもすぐにわかったが、いかんせん女性に笑われるというのはどうにも居心地が悪い。

 一層縮こまる蓮を見上げ、小鳥は訂正するように話を続けた。

「ふふっ、『気が向いたら』もなにも、もし会えたら沢城さんとお話ししたいなって思ってたのは私も同じですから。よかったら少し散歩しませんか? せっかく天気もいいですし!」

 願ったり叶ったりの展開に、蓮は心の中で大きくガッツポーズを決めた。

 長い黒髪を春風になびかせながら夕暮れの空をあおぐ小鳥は、まるで絵に描いたように美しく、思わず見とれてしまう。

「じゃぁ、車椅子押しますね」

 小鳥の背後に回り車椅子に手をかけると、靡いた黒髪がくすぐるように蓮の手首を撫でる。

 物理的なものと、そうでないむず痒さに襲われ、思わず口許くちもとが緩む。

 視線を降ろせば小さなつむじが視界に飛び込んできて、時折ふわりと甘い香りに鼻の奥をくすぐられる。

「あ、すみません……私ってば、なんか図々ずうずうしいですね」

 それは自分も話したかったと言いつつも、結局はこうして蓮に車椅子を押させる形となってしまったことに対してだろう。

「いえいえ、そんなことないですから。むしろ、その、なんていうか……嬉しいですし」

 否定しつつ、蓮はさりげなく本音をもらす。

「なら、よかったです……ふふっ」

 動きだした車椅子の中で、小さく笑う小鳥が今どんな表情をしているのか。

 

 そんなことが気になって、ついつい速足になってしまう蓮だった。




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