車椅子とラブコメディ

亜咲

第1話 坂道と車椅子

 それはある春の日の放課後の出来事だった。


 帰宅途中、沢城蓮さわしろれんはまだ通いなれない長い坂道を気だるげに歩いていた。

(この坂道を三年間も使うのか……)

 自宅から徒歩で行けるから、という理由だけで進路を決めたからこうなるのだと、蓮は少しばかり後悔の念を抱いていた。

 距離は約50メートルほど。距離だけで見れば、大したことはないのだが、これが急な坂道となればわけが違う。

 自宅からはそれなりに近いのだが、高校からはそこそこ遠い。徒歩で帰り道ともなれば、その足にかかる負担は当然大きく感じてしまうものだ。

 元運動部の体育会系であれば、きっと大したことでは無かっただろう。

 蓮は幼いころからスポーツが大の苦手で、天性の運動音痴というやつだった。

 故に、小、中学生時代はずっと帰宅部を貫いてきた。足腰を鍛える機会がまるっきり無かったと言えばそれは嘘になるが、陸上部のような走り込みをしたことが無ければ、試合で球を取りこぼした野球部員のような、グラウンド数十周のペナルティも当然ながら受けたことはない。


(ここに来れば毎日美少女に逢えたりとか、無いかなぁそういうの……)


 疲労困憊の末、ありもしない妄想を膨らませているうちに、気付けば坂は半分ぐらいは登りきっていた。

 と言っても、まだ半分だ。それも、たかだか50メートルの。

「はぁ……」

 来た道を振り返ってみれば、思わず大きなため息が漏れた、その瞬間だった。


 ——ガラガラッ! ガタンッ!


 後ろの方から何かが倒れるような物音が聞こえ、蓮は思わず振り向いた。

 丁度坂の入り口の辺りに転がっていたのは、一台の車椅子と、ぱっと見蓮と同い年ぐらいの少女だった。

 一体どこから出てきたのか。下を向いて歩いていたからなのか、ここに来るまでは気づかなかった。

しかし見てしまったからには素通りはできない。なにせ相手は車椅子。恐らく体のどこかしらが不自由なのだろう。そう悟った上でこの場を見過ごすというのは、中々に非道な行いではないだろうか。

 蓮は慌ててその場に駆け寄り、まずは横転した車椅子を直す。

 そして水色のブランケットと共に放り出された少女に手を差し伸べ、声をかけた。

「……あの、大丈夫ですか?」

 長く奇麗な黒髪は、ひび割れたアスファルトに投げ出されてしまっている。

 少し間が空いて、少女は慌てた様子でその顔を上げた。

「わ、わざわざ降りてきてくれたんですか? す、すみませんっ……!」

 透き通った、奇麗な声だった。

「いえ、俺は平気ですけど……。怪我とか、してませんか?」

「は、はい! 怪我はしてないです……けど、その……」

 黒髪の少女は口ごもり、少しだけ頬を赤く染める。

「あ、もしかして……」

 その様子を見て、蓮は察した。

 一度は差し伸べたその手を引っ込め、横たわる少女の真横にしゃがむ。

「……一人だと立てないですよね? お、俺の肩でよければ、使ってください」

「うぅ、すみません。本当に……」

 蓮は自らの肩に少女の腕を回し、そのまま一緒に立ち上がると、少女を車椅子へと乗せようとする。が、案の定そう上手くはいかない。車椅子がずれて再び横転しそうになったり、不可抗力で少女のあらぬ部分に触れてしまいそうになったり。

 当然蓮には介護の知識なんてあるはずもなく、その様子は不器用そのものと言えた。

 加えて、相手は年頃の女の子だ。

 肩に腕を回しただけとは言え、お互いの身体はぴったりと密着している。つややかな黒のロングヘアからは女性特有の甘い香りがして、蓮の鼻先と男心をくすぐった。

 ほっそりとした体つきでいながら、触れると女性らしさと言えるような柔らかさが感じられる。

 そして近くで見れば、少女が一層端整な顔立ちをしていることに気づかされる。

 色白できめ細やかな肌。長い睫毛まつげに通った鼻筋、淡い色合いの薄い唇。

 やっとの思いで少女を車椅子に座らせたかと思えば、今度はその深い琥珀色こはくいろの大きな瞳と目が合い、思わず息をのむ。


 ——美少女だ、と。シンプルにそう思った。


 残された水色のブランケットを拾い上げ、ついたゴミをバサバサと払い落す。

「すみません、こういうの慣れてなくて……」

 戸惑いの表情を浮かべた蓮の謝罪に、少女は「とんでもない!」と両手を振ってみせた。

「というか慣れてる方が変ですから、気にしないで下さい! ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ないです……」

 それもそうかもな、と蓮は半分納得し、少女に優しく笑いかける。 

 しかし、事態はこれにて一件落着かと言われればそうではない。

 目の前には、蓮が一度は半分まで登りきった坂道がある。ここが交差点でも無ければ、左右どちらかに抜け道があるわけでもない。置かれた状況から察するに、恐らくこの車椅子の少女も、目の前の坂を登り切らなければならないのだろう。

「あ、よかったら押しますよ。ここ、登るんですよね?」

 蓮がそう切り出すと、少女は申し訳なさそうに俯いて、赤く染めた頬をかく。

「うぅ……何から何まで、本当に申し訳ないです……」

 逆に、この状況を見過ごせる人間の方がこの世界には圧倒的に少ないはずだ。

 なんてことを考えながら、蓮は少女の車椅子を押し、再び坂道に差し掛かる。

「……っしょっと」

「すみません、私重いですよね」

「いや! えっと、そういう意味ではなくて!」

「うぅ……」

 反射的に否定はしたものの、実際のところ非力な蓮にはそこそこの重労働であったことに違いはない。

 唯一救われたことと言えば、前傾姿勢で重心を低く構えたまま歯を食いしばって車椅子を押す頼りない蓮の姿が、少女の位置からは見えていないということぐらいだった。

 無言で自分の車椅子を押す蓮に、少女は気遣いのつもりで話しかけ、会話を広げる。


「その制服、夕陽丘高校ゆひがおかこうこうですよね? 学校帰り、ですか?」

「ん? えぇ、まぁ、そんなところですね」

「何年生なんですか?」

「い、一年です。この間入学したばかりです……っ……!」

「あ、あの、やっぱり重いですよね?」

「いえ! 全然! お気になさらず!」


 そんなやり取りを交わしているうちに、頂上はすぐ目の前というところまで来ていた。

 そうして蓮が最後のひと踏ん張りを決め、何とか坂を登りきる。

「ほ、本当にありがとうございます! なんとお礼を言ったらいいのか……」

「いえいえ、いいんですよ。たまたま通りかかっただけですし」

 ここで少女の前で堂々と肩で息をしてしまえば、それはダサいことこの上ないものだ。 

 あくまで平然を装い、蓮は爽やかな笑顔を作ってみせた。

 そんな蓮を見上げるなり、少女は口ごもりながらも静かに尋ねる。

「えっと……その、差し支えなければでいんですが、お名前をお訊きしても……?」

「俺は蓮です。沢城蓮って言います。漢字は『はすの花』の、れんです」

「……蓮さん、素敵な名前ですね」

 そう言って「ふふ」っと小さな笑みをこぼす少女に、今度は蓮がき返す。

「えっと、あなたは?」

 顔の横に垂れる長い黒髪を耳にかけた後、少女はゆっくりと口を開いた。

「私は小鳥ことり三枝小鳥さえぐさことり。漢字は普通の小鳥です。小さな鳥と書いて、小鳥」

 ——三枝小鳥。聞いたことは無かったが、その見た目に似つかわしい、端的に言えば可愛らしい名前だと、蓮は思った。

「……可愛い名前、ですね」

 口に出すつもりはなかったものの、気付けばそう口にしていた。

「か、可愛いだなんて、そんな! 言い過ぎです!」

 言われて、小鳥の白く小さな顔は耳の先まで真っ赤になる。

「す、すみません、初対面なのに。変なこといっちゃいましたよね」

「あ、謝らないでください! 私が人見知りなのがいけないので……。なんていうか、その、あんまり言われないので、嬉しいです」

 顔を隠すように俯きながら、小鳥は膝の上に敷かれたブランケットの上で、せわしなく指先を動かす。

 そんな小鳥が余計に可愛く見えてしまい、蓮も思わず視線を泳がせる。

 少しの沈黙が流れた後、先に口を開いたのは蓮の方だった。

「——よかったらこのままお家まで送りますよ。ここから近いですか?」

「あぁ! えっと、私の家、ここなんですよ!」

 そう言って少女が指さしたのは、蓮の背後にたたずんだ洋風の一戸建てだった。

 白を基調としたその見慣れない家屋は恐らく新築だろう。小さな門の脇にある表札はまだ傷一つついておらず、アルファベットで『SAEGUSA』と表記されている。

「……ちょうど坂の頂上なんですね」

「そうなんですよ。最近越してきたばかりなんですけど、まさかの車椅子生活になっちゃいまして、ほんと不便なんです。……私ってついてないですよね、えへへ」

 てっきり、もうずいぶんと長く車椅子生活を送っているものだと蓮は想像していた。

 しかしそうではなく、今の小鳥の話を聞く限りではつい最近そうなってしまったとのこと。さっき坂の入り口で転倒していたのも、恐らくまだこの生活が慣れていないからなのだろう。

 気にならないわけではないが、初対面で、しかもこれっきりの相手に、その理由を好奇心のみで問いただすなんてことはしてはならない。


 そうわきまえて、蓮は言葉を飲み込んだ。


「じゃぁ俺は帰りますから、これからも気を付けてくださいね」

「は、はい! 今日は本当に、何から何までありがとうございました!」


 挨拶を交わした後、ぺこりと軽いお辞儀を済ませ、蓮はきびすを返す。もう一度振り返って最後に一目ひとめ美少女を拝もうかと一瞬は考えたが、結局それはしなかった。


 そんな恩人の後ろ姿が見えなくなるまで、小鳥は黙って見送っていた。







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