智子の朝(日毎の夢)
早坂慧悟
第1話
1
朝目覚める。目の前にいつもの通り智子がいる。
「おはよ、よく眠ってたね」
にこりとして彼女が言う。いつもと同じセリフだ。
よく寝てたから起こしちゃいけないと思って、と次の瞬間彼女言うのは知っていた。そして湯沸し器のわく子が沸騰することも。
「よく寝てたから起こしちゃいけないと思って」
智子は言った。そして間髪いれず、わく子の沸騰を知らせる水蒸気音がピーと部屋中に鳴り響く。
「いけない」
智子は急いで台所に駆けていった。
暫くたって智子がコーヒカップをお盆にのせ運んできた。右のカップは僕の方に左のは自分の前に置く。智子は砂糖を2杯いれかき回す、6回かき回してからミルクを忘れたことに気付き台所に取りに行くと戻ってきて、僕に入れるかどうか聞く、次に一言いう。寝起きにはコーヒーがやっぱり一番でしょ?そろそろ起きると分かっていたからお湯沸かしといたんだ、と
「寝起きにはコーヒが一番でしょ?そろそろ起きると分かっていたからお湯沸かしといたんだ」
どういうことか、つまり僕は彼女の行動と言動が全てわかるのだ。いままで何十万回と繰り返してきた一日だからだ。
「智子」
「え?」
彼女がキョトンと僕を見る。ループのBの6に入る。
「分かってんだよ君の行動もこれから発する言葉も全部」
「え、なに?」
Bの6-5だ。いままで何度もみた困惑顔。
「何度説明しても仕方ないんだが、僕は同じ一日を繰り返している」
「ええ…」
智子は少し困った顔で笑う。このBの6が一番穏やかに彼女の心が保たれることは知っていた。コーヒーを少し飲む。
「どうやっても出られないんだ、目覚めるとこの日、7月10日に戻ってしまう」
「ええ」
僕は何度も同じ一日を繰り返している。ここから抜け出したくて幾度か突拍子もないこともしてみた。家を飛び出し遠くに出奔したり智子と飛行機に乗り外国へ向かったりもした。しかし結局一日が終わり朝になるとまたもとの一日に戻ってしまう。
やけになり警察沙汰の事件や自殺に近いこともやってみたりもした。しかし何をやってもまた再び同じ朝に戻ってしまうのだ。
「疲れてるのよ、まだ少し休んだらどう?」
B658だ。僕はここで今までと少し違う言葉をいってみた。
「そうだな、まだ少し寝るか」
「ごはんはとっといてあげるから」
そして寝床に戻った。しかし僕は一旦布団に戻り寝た振りをして智子を油断させると、急に跳ね起き居間に戻った。彼女一様に驚く。
「やっぱり寝ない。」
「じゃ、じゃあ気分転換に外出てみない?ごはん食べた後」
新しい言葉だ。しかし予感がした。
「うん、だけど」
「出ましょうよ、歩きながら話聞いてあげるから。疲れてるのよ。あなた」
僕は確信した。これはB63bへの再帰ルートだ、行き先は公園かショッピングモールだろう。その証拠に彼女は着替えず普段着のままだ。B89Cのような遠出ルートや国内旅行ルートではない。
「ああ、どこ行こうか?」
「ねえ公園なんてどう?すぐ支度するから」
B63aK、やはり公園ルートで決まりらしい。
僕もこうやって何もせずに同じ一日を過ごしてきたわけではなかった。智子を説き伏せて精神病院へ行ったこともある。しかしカウンセリングを受けるだけで無駄だった。自棄を起こして警察に捕まってみたこともある。しかし半日か一日留置されるだけで何も変わらずあの朝へ逆戻りだ。
炎天下の真夏の公園、こんな暑い中でもなぜか人がちらほらいた。
天気が良いためか公園には家族ずれが多かった。いつもの公園コースにそのものだ、夜に訪れるパターン以外、閑散としている公園は見たことがなかった。いる人間の顔もほぼ同じ服さえ違うことがない。こんな朝の変な転生を繰り返し続けて僕は完全に気がおかしくなりつつあった。この嘘のようないい天気と嘘のような家族連れの人たち。全てがつくりものに思えて仕方無いのだ。
智子は嬉しそうに隣で何かを話しているが自分の耳には何も入ってこない。この無限に続く日々は絶望でしかなかった。
「ちょっと待っててくれないか?」
俺はトイレに行く振りをして智子から離れた。見えないところまで来ると茂みに隠れる。やむを得ない………しばらくやってない犯人コースに移行することにした。公園内の人間を無差別に刺すのだ。僕はシャツを捲ると袋に包んだ包丁を取り出した。一人殺害四人怪我だろうという予想がなぜかいつも起きた、前に1人殺害四人怪我だったからか。圧倒的に被害者が少ないのかもしれない、もっと大事になれば警官による射撃も期待できる、そうすればこのループも終わるかもしれないと思った。
決意を決め茂みから勢い良く飛び出すと、そこには智子の姿があった。こんなこと今までなかった。朝、一回布団に戻ろうとしたフェイントの動作がその後の時間のずれを作り、僕が包丁を持ち出す瞬間を彼女に目撃させて仕舞ったのか?彼女の出現は前回とは違った。
「どうしたのよ、なにその包丁!私見たわよ持ち出すところを」
「智子!」
「なにをする気!?やめてよ!」
一瞬動きが止まったが、これは果たさなくてはならないことだ、僕がこの日から出られるかどうかの実験を。
「出られるかどうかの瀬戸際なんだ、智子あっちへ行ってくれないか!」
「どうしちゃったのよ、包丁を棄てて、いいから」
「出られないんだよ智子、どうしても」
「やめて!」
「出られない、出られない、ウウ」
僕はいつしか泣いていた。
「わたしが話を聞いてあげるから」
「無駄だよ、一日たつと智子もみんなも記憶をリセットされてしまう、誰も理解してくれぬ」
泣きじゃくりながら僕は叫んだ。
「いいじゃない、わたしがいるじゃない、毎朝わたしに会えれば」
「もう嫌だよ、同じように繰り返し繰り返し永遠に………地獄だ」
「嫌なの、わたしに会うのはもう嫌?」
「無理だ、もうこれ以・・、助けてくれ智子!あああああ」
「わかったわ」
僕が包丁で彼女を追い払おうとした瞬間、あろうことか彼女が僕の手元に覆い被さってきた。生の肉を刺す嫌な感触が手を伝わって脳に流れる。
「智子!」
「圭太くん・・・・・さよな・・・」
ちょうど包丁は彼女の脇腹辺りを貫き、そのまま彼女は倒れこんだ。
2
「もう少しわかるように説明してもらえますか」
取り調べ室で刑事が言った。
「ですから今日から逃げたかったんです、明日へ行きたかった」
呆れた顔で刑事が見た。隣の速記係の警官も手を止めてこちらを見ている。
「あのねえ、あなた自分の婚約者を刺したんですよ。責任を感じないんですか?恨みか喧嘩かは知りませんがね、それが人間ってものでしょ。まだあなたに将来の夫としての義侠心が残ってるなら正直に話してください」
僕はぼっとした目でこう言うしかなかった。
「ですから何か騒ぎを発生させてここから抜け出したかった、彼女を刺す気はありませんでした。もっと別の他人、公園に偶然来てる人たちを狙っていました」
刑事は仰天した目になって言った。
「あなた自分が何を言ってるのかわかってるよね。今話したことは計画的な無差別殺人だよ。痴話喧嘩とは訳が違う、違ってきますよ」
刑事はなぜか確かめるようにそう言った。
「ええ、ですから正直に話してます。僕が刃物を構え出ていこうとしたら彼女が止めたんです。振りほどこうとしたら身を挺して包丁に・・刺す気なんてあるはずないじゃないですか、僕は出たかっただけです」
「動機は、出たい、から?どこから」
「今日からです」
僕はまじめな顔で言った。
刑事は何時間が僕を取り調べたが、結局鑑定留置のため明日僕は病院へ移ることになり、そこで医師に精神状態を鑑定されることになった。
去り際に、刑事は僕が心神喪失の振りをしてると散々非難した。
「いいか、精神障害者の振りしてんのはわかってんだ。そんな生半可な気持ちで逃げれたとしても、後々お前は取り返しのつかないものを失う羽目になるぞ、これは脅しじゃない。忠告だからな心して聞け、生き延びた彼女にどう言い訳する気だ」
彼女はどうやら生きているらしかった。しかし刺したところが肝臓に近く、予断は許さないだろうと刑事は話した。
夜、留置室の冷たい部屋で夜を過ごす。このまま寝てしまえば、また彼女のいるあの朝に戻るだろう。結局公園で事件ルートを発生させても彼女を誤って刺しさえしたのに何も変わらなかった。明日、いや次こそ何か出れるきっかけを探さなくては、なんとかつぎこそ・・・そう思いウトウトしているうちに僕は眠りに就いた。
朝、目覚めると目の前に彼女はいなかった。湯沸かしワク子の音もしない。それどころかここは自宅ではない。昨日からの警察署の取調室だ。夜、留置場にいたはずなのに目を覚ますとなぜかここにいた。自分は驚いたと同時に、ついにあの朝から抜けられたことを考えるとほっとして涙が出てきた。
目の前には昨日と同じ刑事が怪訝そうな顔で僕を見ている。
「け、刑事さん。今、今日は何日ですか?何月何日」
「白滝さん、おちついて下さい。いきなりどうしたんですか?大丈夫ですか」
「いいから!何月何日?」
気迫に気おされ刑事は答える。
「七月十一日ですよ、昨日から一日しかたってません。本当に大丈夫ですか」
「7月11日!俺はとうとう!やった…」
目的を果たす事ができた僕は声をあげた。正面では刑事が怪訝な顔で覗きこむ。
「白滝さん、少し休みますか?ショックでお話を聞ける状況にないと判断しますが…なんならご病院に」
「今日は病院に移されるのでしょ、かまいませんよ」
あっけらかんとそう答える僕に刑事の顔が少しこわばる。
「………」
刑事は隣の筆記係に何か耳打ちしてから言った。
「………そうですね。今回の奥様の事はまことに御愁傷様でした。しかしまだ司法解剖が済んでおりませんので………」
「は?妻の容態に何かあったのですか、昨日は命に別状はないと」
「奥さまは既に亡くらなれてますが、昨日お話した通りです。これを」
刑事がいたわるような表情で今朝の朝刊を差し出した。
そこには朝刊の一面に大きな見出しが載っていた。
『世田谷 神雁地公園で通り魔 1人死亡四人大怪我』
被害者欄に小さな写真の婚約者の智子が写っている。学生の頃のだろうか今より若い顔をしている。
「刺されたのは1ヶ所でしたが刺し所が悪く、智子さんは救急隊のトリアージの時にはすでに危篤状態だったらしいです」
瞬間的に頭が真っ白になった。俊然と僕の脳裏に昨日までの記憶が蘇る。そうだ土曜出勤の現場に警察から電話があったのは昨日の午後だった!早引きして向かった逓信病院、面会謝絶のICU、白い顔で横たわる智子、医者の説明、臓器を貫いたレントゲン写真、マスコミ、テレビに写る地元の公園、泣き叫ぶ智子の家族、新婚旅行に行く予定だったスペイン、そのパンフレットの入っていた智子のハンドバッグと遺品の数々………。
あのあと同居人として警察に行き犯人について話を聞かされた。犯人は見たこともない20代の若者だった。
そうだ、僕はしばらく警察署の部屋で黙って話を聞いていたがとうとう感情の爆発を抑えきれずに慟哭し叫んだのだ!
「智子に戻る!智子に戻る!智子の朝に戻る!朝仕事に行かねばこんなことには!五分、ほんの五分でいい!朝の部屋へ戻ってきます!!」そう叫びながら部屋を出ようとした僕は警官に押さえつけられた、そしてそのまま気を失った。遠退く意識の中、警官の声に交じって部屋のテレビからは神農原公園の通り魔事件を報じ続けるニュースが聞こえていた。
僕は昨日までのこの部屋から出てなかった。出る必要はなかったのだ。
「結局、智子が用意してくれたあの永遠の朝を無くしてしまったのか………」
僕は虚ろな目で呟くしかなかった。
警察は僕から結局なにも事情を聞くことが出来なかった。その後警官が昨日と同じパトカーでようやく僕を智子が待つ病院へ送り返してくれたのだ。
智子の朝(日毎の夢) 早坂慧悟 @ked153
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
近況ノート
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます