後半

 大学生になっても、高校の頃の彼女との付き合いは続いた。東京と大阪だから、それなりに遠距離の恋愛になった。でも、その気になればすぐに会える距離ではあった。

 卒業して、プロボクサーとして身を立てていくとしたら、彼女と一緒になるのも良いかもしれないと思うようになっていた。もう、僕の童貞を吹き飛ばした女の影は無かった。一時期、有名な脚本家の交際相手として取り沙汰になったのを知る程度で、そのときですらそうか、と思うのみだった。ただ、結局その脚本家とは一年も経たずに破局したようだ。

 ボクサーとしての活動はそれなりに順調だった。札幌のトレーナーの紹介で新しく入った東京のジムでも、ありがたいことに僕のボクシングの才能はそこそこ認められた。上を見上げるとまだまだ三十代後半の強豪が幅を利かせている世界ではあったけど、僕はまだ若かった。若いということは、そのまま伸びしろがあるということだ。早い時期にボクシングを始めて良かった。この頃そう思う。

 大学生活は高校生活よりも楽しかった。殆どの単位は熱心に勉強しなくても取れるようなものばかりだったし、なにより初めての一人暮らしだった。大学は人通りの多い賑やかな場所に立っていて、すぐ近くの駅からはそのままどこへでも遊びにいけた。

 アパートは古かったけど、立地は良かった。道路を挟んだ向かいにはコンビニもあったし、その隣には小さいけど公園もあった。部屋に風呂はないけど、裏手に銭湯があるから文句は無かった。この部屋に入居してすぐのころに蛍光灯がいかれて、白色灯が付かなくなった。電気の紐を何回引っ張っても、小さな果実みたいな常夜灯が、忍び寄るみたいに部屋をぼんやり照らすだけだった。そんな灯りの下では全ての動きがスローモーションのように、軌跡が残って見えた。この部屋に隠すようなものは何も無かった。強いていえば財布とスマートフォンくらいだった。体が火照るような夜は近くの公園でシャドウをした。お隣さんは白人の若い男で、そんなときに度々擦れ違った。大学でもジムでも交友関係は殆ど拡がることは無かった。彼女のインスタグラムを見ると、女友達とレジャーに行っている楽しそうな写真がアップロードされていた。SNSはそんなのを見るくらいで、殆ど自分から発信することは無かった。

「シャドウなんて、撮っても面白くないけどな」

「いいの。友達に見せる用なんだから。ほら」

 彼女が持っているスマートフォンのカメラのライトが灯った。

 僕はしぶしぶ構えて、軽く力の入っていないワンツー、スウェーなんかをちょっとだけ格好付けてしてみせた。こっちに遊びに来た彼女と、上野公園を散歩しているときだった。周囲には人通りもあったから、恥ずかしかった。

 大学生になった僕らは、また遊び場が変化していた。カラオケやライブハウスみたいな賑やかな店では無くて、美術館や小さな劇場とかが多くなった。それか、小学校の時に戻ったみたいに家で遊ぶようになった。西の方で試合があるときは僕が彼女の家に遊びに行く。良いところの育ちらしく、立派なマンションに住んでいる。オートロックで、一階にはエントランスがあり、中の知り合いがロックを解除しない限り中にも入れない、そういう立派な住まいだ。平場みたいな僕の部屋とは造りが違う。新しい建物なんだろう。部屋の空間はベッドが大きく占有していて、他人が部屋に入るまではコンポからいつも「Englishman in New York」が一曲リピートで掛けられていた。

 この部屋は立派なんだけど、いつも何をして過ごせばいいのか分からない。一時期彼女にギターを手習いしたこともあったけど、センスが無いことが分かっただけだった。結局、部屋の巨大なテレビにyoutubeの、解像度の粗い動画を流してそれを見ている。流しているのは彼女の好きな配信者の動画らしいのだけど、僕にはいまいちピンと来なかった。こんな動画なら子供の頃竹ン家で飽きる程見ていた。

 しばらく台所で何かしていた彼女が、大きな皿を持って戻ってきた。

「実家からね、桃届いたの。食べる?」

「あ。うん」

「苦手だっけ?」

「いや、普通に食えるけど」

 グロテスクなんだよ。一見すると美味しそうだし、甘いのは分かるんだけど、口に入れたらやっぱり気持ちが悪いんだ。食感が。

 ただ、食べられないという程でもない。

「そういえば、これ知ってる?」と、彼女はリモコンを弄ってピコピコ画面の中を操作した。レコーダーに録り溜めていた番組のリストから、ドラマのタイトルを選んだ。画面はコマーシャルの終了間際に切り替わって、すぐにドラマ本編がスタートした。

「広告は見たことあるけど、見てないな」

「面白いらしいよ」

「ふーん」

 そのドラマの一話目は取り敢えず山場があって面白かった。時計を見ると一時間くらい経過していたから、初回は長めだったのかもしれない。

 とにかく驚いた。鯨井さんが出演していた。なんか、普通に出てた。大物俳優が出るときのタメとかもなく、カメラがぬるっと動いた先の景色にはもういた。主人公の元恋人という割と良い役だった。メイクのせいもあるかもしれないけれど、最後にあったときとちっとも変わっていないように見えた。

 そういえば、鯨井さんは今幾つになったのだろうか? スマートフォンで検索すると、いつの間にかウィキペディアのページが出来ていた。コンテンツは簡素だったが、彼女の履歴と誕生日、それにエピソードを二つくらいは読めた。すごいな。こういうのって、やっぱりファンが作るんだろうか? それとも、事務所の人がよしなにしてくれるものなのだろうか。

 鯨井さんは今年で三十一歳だった。僕は今二十歳だから、彼女とは十一歳もの差が開いていたことになる。彼女と初めて出会ったのは、僕が小学五年生の時、……十一歳。そのとき彼女は二十二歳だった。僕はもうすぐあのときの彼女の年齢に到達しようとしている。それまでの彼女の人生に、何があったんだろう。

 考えられねーな、マジで。

 なんであんなことをしたんだ。

 ウィキペディアには、彼女が十一年前に少年を誘拐したエピソードは当然無かった。


 大阪のスパーの相手は、僕とは一階級違っていた。体重がある分、当然相手の方が有利になるけれど、今度当たった公式試合の対戦相手は有名なハードパンチャーだからこれで良いのだ。僕は今B級だけれど、僕よりランキング上位の人たちは皆化け物みたいに強い気がする。これがA級になっちまったら一体どうなるんだ。

 鬼だ鬼。

「ばかたれ」

 スパーを終えて大阪のジムから帰るときに、昔みたいにトレーナーに拳骨された。

「なんでお前は中に入っていくかな。階級違うやつに勝てるわけねーだろーがよ」

「や、分かってんすけどね」

 諸に喰らって、切れた唇が痛んだ。

 トレーナーの言うことはいつだって正しい。


 常夜灯だけ点けている中野の平場で、鯨井さんの出ている動画を見た。無料で見られるそれは、「かもめ」という舞台を撮影したものだった。映像は素人が客席から撮影していたものらしく、手ぶれがあったし音もよく聞こえなかった。地主の娘役が鯨井さんで、映像が粗くて顔は良く見えなかったが若さを感じた。いや、それだけじゃない。僕は、体の中心にあるものを強烈に引っ張られる感触がしていた。

 なんだろう、これは。

 僕の何かを掴んでいる手は握力を緩めずにそれを握り潰そうとするのだ。

心臓によく似た果実みたいなものを。

 体の中はみるみる滴る果汁で満ちてしまうのだ。


 一度目に猛烈なストレートを受けたときは、歯が抜けたと思う位の衝撃だった。一ラウンドも二ラウンドも、十対八で僕が判定を取っている。三ラウンド目だった。一度まともに受けると、ダウンこそしないものの一気にペースが崩れて、思考と足の動きが噛み合わなくなった。そのラウンドは、なんとか細かい反撃を切り返して十対十に持ち込んだ。とにかく警戒するべきなのは左のストレートだった。サウスポーだ。

「足動かせよ、足!」

 トレーナーが水を飲ませながら言う。

「ラウンド取ることに集中しろよ」

 トレーナーの言うことはいつも正しい。

 でも、いやいや、まだ三ラウンドだぜ? と僕は思う。

 まだ三つもラウンド残ってるんすけど。

 B級だから、六ラウンド。これがA級になると、八ラウンド以上。ことによっては十二ラウンド。こんな地獄みたいな鍔迫り合いは、僕が強くなるほど辛く、長くなる。この試合に勝てば、僕はA級になる。

 地獄地獄!

 トレーナーの怒号が右の方から聞こえてきた。気が付くと、またインファイトをしている。ああ、悪い癖だ。そのとき、左頬に予感があった。ストレートが来る。常夜灯の下みたいに相手の動きの軌跡が見えた。僕の右が、間に合う気がした。今ならまだ間に合う。 突き出すように相手の顔の前に右ストレートを置いた。拳が相手の顔を吸い込んだみたいに、自然なモーションで相手の顔に入った。その代わり、飛んできた相手の左ストレートも諸に喰らった。

「ちゃうで!」

 犬が吠えた。

 ちゃうのか。何がちゃうんだ。こっちだって必死でやってんだ。ほら見ろ。血が垂れてやがる。瞼か? あー、くそ。

 ……犬? いるわけねーだろ。

 どこで吠えた?

 リングに激しく倒れ伏したのは相手だった。膝がガクガクしていたが、僕は立っていた。周囲をぐるりと見渡してゾフィーを探した。

 どこで吠えた? あの犬。

 大学一年生のときに実家で息を引き取った、あの犬。

 人の幸せを祈るみたいに、目を優しく開いて眠りについた、あの犬。

 少しの間、周囲は無音だった。パイプ椅子に座る観客は地獄に立っている僕を見て、笑っていたり手を叩いたりしていた。トーナメントの試合だったから、普段より客はずっと多かった。一見おっさんだらけに見えたが、若い女の人も中には少しいた。子供もいた。鯨井さんもいた。板に乗ったかまぼこみたいな目。

は? なんで?

 リングの上をぐるぐる回っていた僕の手をレフェリーが持ち上げた。鯨井さんの姿は、立ち上がって拍手し始めたおっさんの陰に隠れて見えなくなった。いつの間にかリングに上がっていたトレーナーが僕の肩を支えて、リング外まで運んだ。後から聞けば、このときにはもう僕の様子がおかしいことに気が付いていたらしい。

 控え室まで行く途中、「おい、気分悪くねえか」と、何度も聞かれた。聞かれる度に首を振った。けれど、僕は前触れもなく廊下で吐いた。血も混ざっていた。

 犬が吠えたのは、僕の頭の中だった。脳出血だった。選手生命のおしまいだった。


 *


 幸い脳出血は軽度で済んだものの、しばらくは後遺症に生活が支配された。視界に入っている情報に一々ピントが合わなくなって、町中で歩いていると人とぶつかることがしょっちゅうあった。医者は一時的な症状である可能性が高い、と言っていたが、それって一生このままでも文句は言うなよってことだろ?

 そのうち、僕はあまり部屋から出なくなった。大学には休学届を提出しているけど、今も復帰するかは分からない。平場みたいな部屋で、日がな一日映画を見る日々が続いた。近くの中古屋で買った小さなディスプレイだ。テレビは元々持っていたけど、画面が大きすぎたから捨てた。大阪に行く用事も無くなって、彼女の部屋にはさっぱり行かなくなった。その代わり、彼女がこっちによく来るようになった。初めてこの部屋に入ったときは呆れたような、憐れむような顔になって半日くらい掛けて買い物をした後に蛍光灯を変えた。久しぶりに白色光に照らされた部屋には殆どゴミしかなかった。というか、ゴミになったものばかりだった。そういうのは全部燃えるゴミに出した。

 蛍光灯を変えた次の日、彼女に連れられて動物園に行った。パンダとかの人気者を見るのには一々時間が掛かったけれど、誰も知らないような人気の無い動物はすぐに見ることができた。僕たちは人気者を二匹くらい見物したあとは、そんな連中ばかり探して見ていた。

 猫みたいな動物はフォッサというらしい。フォッサの檻は園内でも僻地の所にあって、観客はおっさん一人しかいなかった。茶色の毛並みで、落ち葉の上に寝ていたから実を付けない木を見ているのと大して変わらなかった。地面から生えている毛むくじゃらの中から双眸を探していると、彼女が僕をスマートフォンで撮影した。

「やめろよ」

「えー? いいじゃあん別にいー」

 僕が嫌がると、彼女は嬉しそうに笑った。

 シャドウをしている自分の動画が、彼女のインスタグラムに投稿されていたのを僕は知っている。

「やめてくれよ」

「えー?」

「僕はもう、君の自慢できるような男じゃないよ」

「え?」

 そこで、夢から覚めたような顔をする。

「私、そんなつもりじゃ……」悲しそうに俯いて、「なかったんだけど」と小さな声で呟いた。


 そんなことがあってから、彼女は東京に遊びに来なくなった。正直言えば、彼女がいなくなると気が楽になった。その月が終わる頃には夏の暑さも遠のき始めた気配があった。夕方に起きた。昨晩は眠れなくて遅くまで映画を見ていた。そんな夜もここのところ増えた。そして、ふとジムのロッカーに荷物を置きっぱなしにしていたことに気が付いた。以前トレーナーが電話で「ロッカーの荷物、取りに来いよ」と言っていたのに、丸々一月くらい放置したままだった。僕は時計を確認する。丁度、もうすぐ活動が始まる頃合いだ。

 通っていたボクシングジムまでは、いつも徒歩で通っていた。車通りの少ない通りに面したビルにあった。下から見上げると、もう四階の窓から灯りが漏れていた。

 ガラス扉を押し開けて中に入ると、生徒たちは一心不乱に汗をかいていた。皆、久しぶりに訪れた僕には見向きもしなかった。けれど、誰もいないロッカールームに行くと間もなくトレーナーがやってきた挨拶した。

「よう、予後は?」

「まだ、ものを見るのに苦労します」

 ロッカーの鍵を差し込みながら、そう答えた。

「わりいなあ」と、トレーナーが申し訳なさそうに、悔しそうに呟いた。

「や、自分のせいっす」

 それは本当にそう思っていた。けれど、トレーナーはトレーナーで辛い思いがあるのかもしれない。そう思うほど、差し迫った顔をしていた。

「わりいなあ、ほんと」

「いや……」僕は笑って頭をふった。

 ロッカーには殆ど大したものは入っていなかった。空になった制汗スプレーの缶、持ち帰るのを忘れていた換えの靴下と、タオル。そして、古ぼけたグローブ。札幌にいたころに使っていたものだ。東京に来たときに新しいものを買って、そっちはアパートの部屋にあった「ゴミになったもの」の一つだった。つり下がっているグローブは革が所々すり切れていて、中には古い汗が染みになっていた。

「ケン、お前まだ大学生だったよな」

「ええ。休学してますけど」

「卒業後、なんか決めてんのか?」

「や、……」

 未来のことなんて何も考えていない。目のことだって、治るかどうかも分からないのだ。もし治らなかったら、どうなる? そのことを考えるのが辛かった。だから、「トレーナーになりたかったら、いつでも来いよ」という言葉には心が軽くなる響きがあった。


 グローブの紐を右肩に廻して背負って、ジムを出た。もう一度窓から漏れている灯りを眺めてから、帰り道に顔を向けた。サングラスを掛けた女性がママチャリに乗ってこっちの方にのろのろ走ってきていた。距離感に自信がないから大きく左に躱した。すると、ママチャリはふらふら僕に近寄って来て、正面からぶつかった。かごが付いていたからあんまり痛くはなかったけど、驚いた。

 ママチャリに乗った女は、開いたコンパスみたいに足を均等に開いて悪戯っぽく笑った。僕が神妙な顔をしていると、女はサングラスをちょっと下げてかまぼこみたいな目を見せた。鯨井さんだった。

「なーにしてんの」

「いや、荷物整理……」

 ストレートを喰らったときみたいに思考と体の動きがちぐはぐになった。荷物整理?……なんだよそれ。いや、鯨井さんこそ何してんだよ。

 こんなところで。

 やっぱり言葉が遅れて、そんなようなことをぼそぼそ呟いた。すると、ママチャリのかごに入った小さいバッグから封筒を出して、何かペンでメモを残してから僕に寄越した。

「あ、どうも」

 中身が何かも分からないのに、お礼を言って受け取ってしまった。封筒に書いたのは電話番号らしかった。

「来なね」

 そう呟いて、機嫌が良さそうにのろのろ自転車を漕いで行ってしまった。

 封筒の中には、劇場のチケットが一枚入っていた。場所は有楽町。聞き覚えはないけど、英字が入っている新しい感じのタイトルだ。スマートフォンで調べたら、新進気鋭の演出家が手がける舞台らしい。しかも、結構立派な劇場だ。

 もしかして売れてんのかな? 鯨井さん。そういえばドラマにちょこちょこ出演していたな。寂しいというか、嬉しいというか……。ファンクラブとかも、あるんだろうか。

 入会しようかどうか少しの間真剣に迷ってしまって、僕はジムの前で立ちっぱなしになっていたことに気が付いた。何を浮かれてんだ、僕は。それにしても、どうしてこんなところに、ママチャリで。


 役者から貰ったチケットだから良い席だと思っていたのに、いざ座ってみると良くもなく悪くもない右側に寄った席だった。舞台を見に来た客は様々な年齢だったが、みんな不思議な雰囲気を湛えた人々だった。

 その日僕は、産まれて初めて劇場で泣いた。特に泣けるシーンがあったわけではない。舞台に立った鯨井さんを生で見たのは小学五年生の頃以来だった。演技とは分かっていても、普段からは考えられない活き活きとした笑顔を観て、演技の向こうにある彼女の生き様を見てしまったのだ。自分の中心にある果実は彼女に掴まれたままなのだと、確信したのだ。色香みたいな果実の甘みが、自分の中に拡がるのを感じたんだ。演技を見た、純粋な感動ではないことが恥ずかしいけど。僕はかなりどうでもいい場面で嗚咽を漏らして泣きだしてしまった。そして、舞台の途中で抜け出してしまった。暗がりで良く見えないから、壁に手をついて、袖で目を拭いながらゆっくりゆっくり出て行った。

 舞台の上からは、こんな情けない姿も見えるのだろうか。

 それから東京での彼女との時間が始まった。


 二週間後に居酒屋に呼び出された。僕はお茶を飲んでいたけど、鯨井さんは顔色を変えずに次々とビールのグラスを空けた。夜が深くなってくると、僕らは並んで暗い道を歩いた。この時初めて気が付いたけど、僕はもうとっくに彼女の身長を追い越していた。向かい合ってみると彼女の頭は僕の首ら辺にあって、自然彼女は見上げる形になった。

 途中コンビニに立ち寄って、鯨井さんはチューハイやビールの缶を両手で抱えるほど買い込んだ。それは中野にある僕の部屋に持ち込まれた。部屋に入るなり、彼女は冷蔵庫に目を付けてずかずかと袋の中の缶を冷やしにかかった。

 酒、飲んだことないよと言うと、鯨井さんは眉間に皺を寄せた。

「お前もういい歳してんじゃん」

 この部屋には座布団も座椅子も無い。玄関から入ったらすぐ平場みたいな四畳半で、畳んだ布団と、生活に必要な家電の幾つかしかない。彼女は畳んだ布団に腰を埋めた。僕はそこら辺にあぐらをかいた。

「や、まあそうだけどさ」

 僕は今年で二十二になる。

「鯨井さん、三十三歳じゃん」

「あ?」

 いかん。余計なことを言った。

 でも、度数の高いチューハイを飲み始めた彼女は顔は赤くしてへらへら笑っていた。酔いが回った彼女の目許には年相応の陰が見えた。

「いや、僕飲めねえよ。脳出血だし」

「のうしゅっけつう? いつ」

「鯨井さんが見に来てたときさ」

 彼女は気持ちが良さそうににやけながら、チューハイの缶を指先でくらくら振った。

「わかんないよ。何日?」

「わかんないことないだろ。来てたろ」

「いつも行ってたよ」

「まじで?」

 鯨井さんは目線を彼女の右足に流した。

「私が時間のあるとき、だけど」

「……いや、なんで……」

「今時プロボクサーの試合予定なんて、ネットで幾らでも見られるじゃない」

「あ。うん」

 確かに、僕が所属していたジムでも所属選手の試合予定はホームページで公開している。僕が聞きたかったのはそういうことではなくて、なんでわざわざ。けれど、そのときの顔を赤くした鯨井さんには追究を絶対に許さない迫力があった。

「飲めよ。ほら」と、彼女は自分が揺らしていたチューハイの缶を僕に押しつけた。

「僕死ぬかもしんないよ」と反論すると、

「だったら死ね。飲んで死ね」と、笑って酷いことを言う。

 けれど、顔を赤くした鯨井さんを見ていると、何故か僕も酒に酔いたくなった。久しぶりに彼女と面と向かっていたから、照れているのかも知れない。思い切って彼女のチューハイを一口飲み込んでみると、多少アルコールの苦さはあったが、意外と行けんじゃんと思った。ありがちなミスかもしれないけど、その後は僕も冷蔵庫からビールを出してごくごく飲んだ。鯨井さんは半笑いでチューハイに口を付けながら僕を見ていた。

 飲んでいたビールの缶は小さいやつだったけど、あっという間に酔いが回って前後不覚になった。鯨井さんが座っていた畳んだ布団に寄りかかって、しばらくしない内に数十分眠った。目を覚ますと部屋の灯りは白色灯から常夜灯に切り替わっていた。近くに、汗ばんだ彼女の気配を感じた。僕が起き上がると、

「ほんとに死んだんじゃないかとヒヤヒヤしたよ」と、ぼんやりしたオレンジ色の光の下で彼女は笑った。

 それから長いキスをした。彼女とまともなキスをしたのは、これが初めてだった。唇が離れる度に、熱っぽい表情をした彼女と目を合わせた。随分久しぶりにそういう雰囲気になって、部屋にはゴムも無かった。彼女は座りながら頭を垂れるように背中を丸めて、半袖のリブニットの上から器用にブラのホックを外した。服は僕がたくし上げた。およそ十年以来の彼女の体は殆ど変わっていないように見えた。僕は具合が悪くなる程興奮した。酒の余韻もそれなりにあった。かなり手間取ってようやく中に入ったけど、ちょっと腰を動かした瞬間に彼女が、「だあっ」と叫び声を上げた。顔を見ると、眉間に皺を寄せて激しく息を吐いている。感じているわけではない、苦悶の表情だ。僕は慌てて引き抜いた。

 それからお互い腰を上げたり下げたりして色々試したのだけど、そのうち暴発したものが彼女の陰毛に引っかかるように掛かってしまった。その夜は、そんな中途半端な終わり方をした。けれど、朝起きて罪悪感が勝ってくると、これで良かったのだと思った。

 僕の部屋には風呂というものが存在しない。だから、目が覚めたら真っ先に裏手にある銭湯へ行った。さっぱり小ぎれいになったあとは、定食屋に入って飯を食った。

「鯨井さん、僕、恋人いるよ」

「嘘つけ」

「いるんだよ。ほんとに」

「嘘だよ」

 幾ら言っても、彼女は聞く耳を持たなかった。むっつり黙って味噌汁を啜った。このことに関しては「聞かなかったこと」にしたようだ。どうせ困るのは彼女ではなく僕だ。そうは言っても、最近の僕の生活には確かに大阪の彼女の影が無かった。

 稽古場に通う彼女を、送り迎えする習慣が付いた。僕も彼女も免許証は持っていないから、移動手段は専ら徒歩だった。たまにうっかりして僕が出遅れると、彼女はママチャリをかっ飛ばしてさっさと行ってしまった。後で、駐輪場に金を払ったと文句を言われた。

 僕はママチャリの代わりなのか。ボディーガードなのか。

 確かに、彼女は知名度があるから面倒事の可能性は高いかもしれないけど。

 送迎に行ったのは稽古場だけではなかった。役者仲間との食事には、送るだけでなく同席させられた。時には僕ですら知っている有名な役者が同席していたこともあった。一々恐縮するから僕は帰ろうとするのだが、散歩中の犬を引っ張るみたいに連れて行かれた。

 鯨井さんの親友は、同じ事務所の役者らしい加賀美さんという四十代くらいの女性で、鯨井さんとは違うベクトルの独特な雰囲気があった。息子が一人いるらしいのだが、一緒に暮らしているわけではないらしい。独身男性のような女性だった。僕は彼女に会う度、無闇に可愛がられた。

 あるとき鯨井さんがちょっと席を空けた隙に、

「遙香はやめときな~」と歌うような口調で言われた。

「え?」

 僕は煮魚をつつく手を止めた。

「まさか、遙香と結婚なんて考えてるんじゃないでしょうねえ」

 何故かは分からないけど、加賀美さんは問い詰めるよな口調になるときに強烈な色っぽさが出る。そんな時の彼女は、ウェーブのかかった前髪から額を出していて、綺麗なほうれい線をダンディーに持ち上げる。

「僕、鯨井さんとは付き合っているわけでは……」

「あら、そう」加賀美さんは、両切りの煙草を咥えて火を付けた。「それにしても、いつまでもあんなのまともに相手にしてちゃ駄目よ~。世代も世界も違うでしょうに」

 僕は鯨井さんのマンションを知っている。そこは大阪の彼女が住んでいるのよりも立派なのだ。家まで送る度に「泊まっていきなよ」と言われるのだけど、入ったことはない。一度入ったら、二度と平場に戻れない気がしている。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女はほんの少しだけ寂しい顔をする。

「もっと年相応の彼女でもみっけてさ」

「や、いるんですけどね。一応」

 加賀美さんはあからさまに顔を顰めた。

「遙香は知ってるの?」

「言いましたよ。言ってるんですけど、まともに聞いてくれないんですよ」

「いや、……じゃあなんで君たち……」それから言葉は結ばないまま、煙草を挟んだ右手の親指で眉間を擦って、「あ~あ~……」と何かを憐れむように呻いた。


 居酒屋から帰るときに、僕らは加賀美さんに呼び止められた。僕と鯨井さんは、揃って彼女の方を向いた。居酒屋の入り口から漏れていた明かりが後光のように加賀美さんを包んでいた。

「ばいばい、腐りもんたち」

 それから加賀美さんはさっさとタクシーに乗って行ってしまった。


 鯨井さんに聞いたことがある。

 なんで、僕なんかを相手にするのか?

 その日も入らなかった。勿論酒に酔っていた。酔わないと、不貞の罪悪感で萎えてしまう。でも、準備が出来ていないのは彼女の方だった。十年前はあんなに中が湿っていたのに、しばらく男とセックスしないうちに彼女の中の水分はどこかへ飛んでいったようだった。潤滑油が必要だったけど、彼女が頑なに嫌がった。何度も試して、鯨井さんがしぶしぶ自分の指をしゃぶって唾液を中に塗りたくったりもした。それでも痛がって、すぐに乾いて、しまいにはケツを出したまま台所に行って水をじゃぶじゃぶ塗りたくった。こうなると情緒もクソも無い。

「もういいよ。寝ようよ」

「くっそ」

 僕はとっくに萎えていた。

 一旦萎えてしまうと、大阪の彼女の顔が思い浮かんでもう勃たないのだ。

「あー、くそ。なんで」

 鯨井さんは台所に立ったまま乱暴に自分のあそこを手で擦っていた。痛そうだったから、立ち上がって彼女の手を掴み挙げた。その時にした質問が、そうだ。

「なんで僕なんかの相手をするんだよ」

 彼女は珍しく狼狽したように目を泳がせた。

「いや、したくないわけじゃないんだよ。心は……、体が……」

「そういうことじゃない。何で僕なんかを――」

 加賀美さんの言うことは正しいのだ。

「誘拐したんだ」

「誘拐……」

 虚を突かれたような顔をする。

 誘拐という言葉には、思いもしないほど被害者意識が滲んでいた。

「僕が小五のときのことだよ。今でも忘れらんねーよ。一度は忘れたし、鯨井さんにも忘れられたんだと思ったのに……なんで今頃になって」

「いや、それは、だって」

「なんで僕なんかの相手をするんだ?」

 そのまま、少なくない時間が経過したと思う。台所の小さな窓から入る月の明かりが、シンクを反射して彼女の顔を斜めに切るように照らしていた。黒目の中に、丸い星みたいな光が一つか二つ見えた。そのうち雨が降り出した。

 掴み挙げた両手は、月が沈むような速度で降りていった。

 鯨井さんは本番で台詞を忘れたみたいに立ち尽くしていた。僕は、彼女の言葉をずっと待っていた。

「根を、張りたかったんだ」と、彼女は殆ど勢いが無い声で言った。

それから時間が動いたように、数度瞬きをした。そのたび黒目の中の星が光った。

 根。

「それは……」

「愛とか、性欲とかじゃ、なくて」

「ああ」

「私がどこかで終わっても、そうすれば、ケンの中で何かが……私の何かが、生きていくって思って」

 根。

 張ってるよ。滅茶苦茶張ってるよ。僕の中のどうにもならない部分にしっかり根付いてるよ。鯨井さんの種子が。いつも感じていたのは、その存在なんだ。だから、一々彼女を失った気分になるんだ。

 けれど、加賀美さんの言うことは正しかったのだ。

「僕は、腐っちまったよ」

 僕は、鯨井さんのいない土壌で栄養を吸い過ぎた。彼女がいなくても回り続ける世界を知り過ぎちまった。

 それは大人になるということなんだ。

 世の中を知り、自分に辟易して、ままならないこと全てに殺されること。

 黒目に星を湛えたまま、彼女はゆっくり僕の胸元まで視線を落とした。

「そんなことはない。腐ってなんかいない。大学にだってまだ戻れるじゃん。ボクシングはもう出来ないかもしれないけれど……言ってたじゃん! トレーナーになれるかもしれないって。……彼女も、いるって……」

 小児性愛者ペドフィル――そういう人間がいると知ったのは随分前のことだった。子供しか愛せない大人、だとしたら鯨井さんは大人の僕の実像に子供の僕の面影を見ている。それらは結びつかない。だから濡れない。

「だから、もう鯨井さんに付いていけないんだよ」

 彼女はゆっくり頭を振った。そして、こう言った。

「私で良いじゃん」

 その瞬間、僕は彼女の中の最もグロテスクな部分を見た気がした。雪道に落ちたナナカマドみたいな、皮をむいた桃みたいな、葡萄みたいな。いつもそうなんだ。ナリは美味しそうに見えても、やっぱり中身が。

 気が付けば僕の左手が彼女の頬を張っていた。彼女の腰が、低いシンクに勢いよくぶつかってごあんと音を鳴らした。頬を抑えた彼女はそれでも、

「私で良いじゃあん!」と叫んだ。


 *


 雨が降っていた。小さい公園だから大した遊具はない。滑り台の下で雨宿りをしていたけど、ふとブランコを漕いでみたくなった。座るところには水が溜まっていた。漕ごうかと思ったけど、地面に足が付いて駄目だった。僕はもう大人になっていたのだ。

 やがて、鯨井さんが公園の入り口に立っているのに気が付いた。遠目に見ると、かまぼこみたいな目をしているからにやけているのかと思った。だけど、違った。ブラもしていなかったから、白い半袖のリブニットの上から葡萄みたいな乳首の色が透けていた。

 全く。

 こういうのばっかりにはピントが合うんだ。

 この眼は。この頭は。

 腐りもんが。

 僕は歩いて行って、彼女と向き合った。そして、泣いている彼女を強く、抱きしめた。

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