腐りもん

みとけん

前半

 固そうなスライド窓を彼女が開くと、夜の空気が部屋に流れ込んできた。外国のお菓子みたいなお香の煙は、部屋に籠もった体の臭いと丸まって夜へ流れていった。

 この辺りは若い人がたくさん住んでいるところらしい。隣部屋の男の声が殆ど筒抜けだった。

 窓を開いた部屋の主は一仕事を終えたように、窓枠に肘を付いて細長い煙草を吸っていた。横顔は興奮しているようにも緊張しているようにも見えた。薄っぺらい生地のタンクトップは隅々まで彼女の汗が染み込んでいて、肌に張り付いていた。ブラジャーをしていなかったから、赤みがかった葡萄みたいな乳首まではっきり透けて見えていた。それに湿ったパンツを履いている。あの窓からは駐車場が見えるはずだ。焼き鳥屋の大きな第二駐車場。もうこんな時間だから、もう車は一台も停まっていないだろう。

「体洗ってきな」と、彼女が言う。

 僕だって体中汗まみれだった。ついさっきまでは彼女が僕の上に乗っかっていたのだ。クーラーもない部屋だったから、彼女の顎から滴り落ちる汗は温かいまま上半身のあちこちに飛んできた。それに射精もした。人間がお互いの体を擦り合わせると驚く程汗をかくことを、このとき初めて知った。

 電気が壊れているのか、彼女が敢えてそうしているのかは分からないけれど、部屋に入ったときから果物のぼんかんみたいな常夜灯だけが光っていた。だから、彼女が窓を開いたとき部屋の中が紫色に輝いた気がしたのだ。

 小学五年生の夏休み真っ只中だ。最近無闇に腹が立つようになっていた。今日は、母親が漫画雑誌を買う約束を忘れたことが切っ掛けで大げんかになった。居間から自室に籠もってしばらく待っても、怒りは収まらなかった。それから今年の六月頃に家出をして一晩公園で野宿したという、同級生の飯田を思い出したのだった。彼の両親は大騒ぎして、クラスメイトの家々に電話を掛けたから、学校の皆がそのことを知っている。結局、飯田は朝になって自宅に帰った。警察に相談するかどうかというところだったらしい。

「だって、教科書を家に忘れたのに気付いたからさ」

 と、教室に現れた彼は、なんでもないような顔を取り繕って周囲を取り囲むクラスメイトに言うのだ。僕は自分の机に座って彼らを見ていた。このときも無性に腹が立った。小太りの飯田が不良ぶっていると思ったのだ。けど、いくら僕が腹を立てたって彼は一目置かれる存在になったのだ。しかも、そのことを切っ掛けにスマートフォンまで買い与えられたそうなのだ。

 一晩公園で過ごすことくらいはなんともないことだと思っていた。だけど僕は運が悪かったのか、その日は雨が降りだしてしまった。

 彼女がどうして雨降る夜の公園に一人で来たのかは分からない。普段からそういう習慣があったのかもしれない。もしかしたら、夜になってふと公園のブランコを漕いでみたくなったのかもしれない。僕にもそういうことはよくある。

 板に乗ったかまぼこみたいな目をしている人だ。僕の母も化粧をすれば同じような目になるけど、彼女は生まれつきみたいだった。そんな目をしているから、初めてみたときは滑り台の下にいる僕を見つけてにやけているのかと思った。

「家に来る?」と、傘を差した彼女は言った。

 変な予感がしたけれど、僕は断らなかった。

 彼女の住むアパートは公園から八分くらい歩いたところにあった。鉄の階段は踏みしめる度にギシギシ言った。アパートというものに足を踏み入れたのは初めてだった。クラスメイトの家に遊びに行ったことは何度もあったけど、皆大小の違いはあっても一軒家だった。表札は無かった。

 彼女が上着を脱ぐと、もう肌が透けるようなタンクトップだった。ジーンズも履いていたが、そっちもすぐに脱いだから僕はどきっとした。ようやく、自分が何かまずいことをしていることに気が付いた。今すぐ走り出せば逃げることもできたかもしれない。

 けれど、湿ったフェイスタオルで乱暴に頭を拭かれたあとは、あっという間に、僕の童貞は彼女に吹き飛ばされたのだ。


 シャワーを浴びて部屋に戻ると、彼女は牛乳を飲みながら携帯電話を弄っていた。まるでバスを待っているような人の顔をしていた。彼女が牛乳を飲んでいるのを見ると、自分も喉が渇いていることに気が付いた。何か飲み物は無いかと尋ねると、冷蔵庫に入っているという答えが返ってきた。中にはオレンジジュースと牛乳のパックが入っていた。コップが無かったから、茶碗を借りてオレンジジュースを飲んだ。もう、逃げる気力はとっくに失っていた。喉が潤うと、すぐに眠たくなってさっきまで寝ていた布団に横になった。そのうちに、本当に眠りこんだ。

 寝ている間に、彼女がシャワーを浴びる音が聞こえてきた。


翌朝は、頭の近くを人間の足が行き来している気配で目が覚めた。

 何かが芽吹き始めたみたいに清々しい朝だった。

 部屋に籠もっていた色香はきれいさっぱり無くなっていた。お香の甘い匂いも、ぼんたんみたいな常夜灯の光も、窓から差し込んだ太陽光によって一掃されていた。

 彼女はとっくに起きていたようで、どこかに出掛ける準備をしていた。昨日の夜のような雰囲気は無かった。既に白いブラウスを着て、昨日と同じジーンズを履いているところだった。明るいところで見る彼女は、やはり人という感じがした。首は夜に思っていたより細かった。それに、よく見ると左頬にほくろが二つ並んで付いていた。

「私のことは、誰にも言っちゃ駄目だから」

 部屋の扉の前で彼女は言った。

「もう帰んなさい」

 彼女は一足先に外に出た。この部屋のたたきは狭いから一人ずつ出なければいけない。

 玄関脇のラックに、水道代の請求書や領収書が乱雑に散らばっていた。

 鯨井遙香、という名前が見えた。


 家に帰ると、父に拳骨された。でも大して痛くなかった。まだ八時くらいだったのに父も母も他所に行くような格好をしていたから、何となく心配されていた雰囲気を感じた。でも、二人とも大っぴらにほっとした様子は見せなかった。拳骨した父は取り澄ましたようにソファに沈み込んでニュースを見始めたし、母は朝食の支度に取りかかった。

 テレビの画面を観ながら父が、「それでお前、どこに行ってたんだ」と聞いてきた。

 私のことは、誰にも言っちゃ駄目だから。

 鯨井さんの言葉が頭に浮かんだ。僕にしたって、親に鯨井さん家で起こった出来事を話すつもりは毛頭なかった。思い返すと、無性に恥ずかしくなって、顔が赤くなった。

「友達ん家行ってた」と、僕は嘘を吐いた。

 両親が僕の嘘を信じたかどうかは知らないが、それ以上の追究もなく、普通の週末の朝が再開された。昨晩の出来事に気が付いたのはゾフィーだけだった。

 ゾフィーは今年で五歳になる雄のチャウチャウだ。名付けたのは僕で、当時一番好きだったウルトラマンの名前から取った。ゆったり歩いて来たゾフィーは僕のズボンの匂いを嗅いで、「ちゃうやんか!」と吠えた。

 ゾフィーは関西弁の否定語しか喋ることが出来ない、関西の犬なのだ。

「ちゃうやん! 話がちゃうで!」

 ゾフィーの叫び声は、大人には聞こえない。僕が右手でゾフィーの口を無理矢理閉じると、「ちゃうからな!」と喉の奥で無理矢理吠えた。でもそれっきりでゾフィーの追究は止んだ。心根は優しいヤツなのだ。

 

 朝飯を食べてから、竹ン家に遊びに行った。クラスメイトの間では殆ど知られていないことだが、竹は多分学校で一番パソコンを弄るのが得意だ。竹が全く得意がらないから誰もこのことを知らない。僕は彼のそんなところがかっこいいと思う。しかも、彼の家に遊びに行けば殆ど自由にパソコンを触らせてくれるのだ。ゲームだってやらせてくれるし、インターネットでエロ本を探すことも出来る。ただ、最近は画面に女の人の裸を写すのが物凄く恥ずかしく感じるらしくて、あまりエロいことはできない。残念だが仕方が無い。僕は密かに、竹が恥ずかしがるのは彼が一人でエロいことを検索するようになったからだと確信している。だけど、それは言ってやらない。それに、エロいこと以外にもネットの世界には楽しいことが沢山あるのだ。面白い動画や画像を探しているだけでも平気で一日潰せるくらい楽しいのだ。

 

「ケンちゃんさ、昨日の夜家出してたべ?」と、部屋に入るなり竹に聞かれた。

 僕は内心どきっとした。

 私のことは、誰にも言っちゃ駄目だから。

「した。なんで知ってるの?」

「昨日うちに電話来たのさ。ケン、そっち行ってませんか~って」

「なんて答えた?」

「俺のお母さんが、来てませんよ~って言った」

「ふーん」

 僕たちは竹の部屋のパソコンの前に座った。

「ケンちゃん、公園で野宿したんだべ?」

 僕は何も答えなかった。下手に嘘を付いても、竹にはバレる気がしたのだ。だから、勝手に思わせとくのが良いと思った。それから、僕たちは動画サイトで面白い動画を探して半日中大笑いし続けた。途中、竹が「ウンコ」と言って席を立った隙にこっそり「鯨井遙香」という名前を検索した。すると札幌の市民会館の名前が出てきた。予定スケジュールの中に「かもめ」という劇のタイトルと出演者の名前が並んでいた。その中に、「鯨井遙香」があった。その文字列が目に入った瞬間、何故だか心臓が音を立てて動きだした。

 鯨井さんは女優なのだ。頭の中でその事実がゴシック体になってぐるぐる回転した。

 彼女の劇団の名前を検索すると、今度は鯨井さんが映り込んでいるスナップ写真を探すことが出来た。劇団の公式のブログに貼られたものらしく、写真の殆どは記事を書いている陽気な感じの坊主頭の男の人が中心になっていたけれど、鯨井さんが写っているのもある。どれも見切れていたり、後ろを向いたりしていたが間違いない。

 そうこうしているうちに、便器の水が流れる音が聞こえてきたので、僕は慌てて見ていた画面を閉じた。それから、竹の本棚から漫画を一冊取ってきて座って読み始めた。戻ってきた竹は、僕の様子がおかしいことに気が付いたようだった。けれど、何も言わなかった。


 *


 もう二度と会うことはないだろうと思っていた鯨井さんとは、意外にもその年の秋に再会することになった。その頃僕はクラスメイトの内の何人かに嫌がらせをされるようになっていた。夏休みの間の家出がやはり彼らの内に広まって、クラスで二度目の僕は「パクった」ということになったのだ。そのせいで、遊びに行く先が竹ン家以外に無くなっていた。

 鯨井さんの部屋に泊まったことを話したら、と思うことは何度もあった。だけど、やっぱり言えなかった。このことを考えるときに僕がどうして恥ずかしい思いをするのか、その頃には分かるようになっていた。つまり、僕は「誘拐」されて、「レイプ」されたのだ。起こった出来事を改めて整理するとこういうことになる。だから、誰にも言えなかった。

 だけど、恥ずかしい以外に僕は全然気にしなかった。学校から帰るときに飯田と彼のファンが僕のリュックサックを投げ合って遊んでいても、本当のことは言えなかった。おもちゃにされたリュックサックはそのうち底が破けたので新しいのを買ってもらった。

 学校の行事で、地元の劇団の舞台を見に行くことになったのは、そんな時だった。開いた教室の窓からは、夏と冬に挟まる極短い秋の乾いた風がそよそよ入ってきていた。僕はこの時期のこんな風が好きだ。冬は雪のせいで窓を開けられないし、夏は風が全然入ってこない。春の風は冷たすぎる。秋が丁度良い。前の席に座る女の子が廻してきた「学級だより」を何となしに見ていると、鯨井さんの劇団の名前があったから物凄く驚いた。口が勝手に開くくらいの驚きようだった。

「劇団ポーラライツ」の舞台を、再来週の土曜日、四年生と五年生で見に行くらしい。といってもうちの学校は生徒が少ないから、一学年一クラスしかない。とにかく、見に行くらしい。クラスの殆どの人間は興味が無いみたいに「学級だより」を鞄にしまっていた。。

 その日はさっそく竹ン家に行って検索した。ポーラライツの公演スケジュールを確認して、鯨井さんが出てくるのか、出るとしたらどんな役なのか確認したかったのだ。なのに、その日の竹は中々トイレに行かなかった。それまでは、いつものように面白い動画を観ていたが、僕は鯨井さんのことが気になって気になってあんまり笑わなかった。「ジュース持ってくるわ」と竹が席を立つと、僕は急いでポーラライツのことを検索した。

 パソコンがウェブページを読み込む時間がやけに長く感じられた。ようやく再来週土曜のスケジュールを見ると、「銀河鉄道の夜」という公演タイトルがまず目に入った。次に、「鯨井遙香」という名前も目に入った。横には「カムパネルラ役」という文字もあった。カムパネルラというのは多分、このタイトルの登場人物だろう。そのうち、カルピスの入ったコップを両手で二つ持った竹が部屋に戻ってきた。僕は以前のように漫画を読んでいた振りをしていた。

「ケンちゃん、鯨井遙香のこと調べてたべ」

 僕は途端に顔が真っ赤になるのを感じた。やっぱり竹に嘘は通用していなかった。しかし、どうして鯨井さんの名前を知っているのだろうか? 尋ねると、

「この前、ケンちゃんが変だったときケンサクリレキ調べたから」と言う。

 僕には何のことだかさっぱり分からない。とにかく、竹はパソコンに強いのだ。

「今度見に行く劇団の人だべ? 俺も学級だより読んでびっくりした」

「僕もびっくりした」

「鯨井遙香、出るの?」

 僕はこっくり頷いた。

「鯨井遙香のこと好きなんだべ!」とは、竹は言わなかった。僕はそんな竹に感謝した。クラスで一番太っていて、目も悪くて足も遅くてドッチボールでは真っ先に標的になる竹だが、クラスで一番大人なのは彼だと思っている。良い奴だ。

「楽しみだな」

 僕は何も言わずに頷いた。


 舞台は僕が思ったより、というか観に行った全員が思っていたより面白かった、と思う。客が子供でも、役者の人たちはとても真面目に、緊張感を持って演じていたみたいだ。その中には勿論鯨井さんもいた。舞台が暗くなる度に、物語を分かりやすく、面白おかしい振り付けと台詞で説明していたのは、劇団のブログを書いていた坊主頭の人だった。僕たちに比べてもうすこし子供な四年生たちは皆彼が大好きになって、帰り際ロビーで見送ってくれた彼に握手して貰っていた。他の役者たちもみんな見送ってくれていたし、僕らが求めると、快く握手してくれた。

 主役を演じていた鯨井さんの前にも沢山クラスメイトが集まっていた。主に、五年生の女の子たちだった。男の子たちは皆恥ずかしがって、他の男の役者に握手してもらっていた。女の子たちと握手する鯨井さんは、部屋にいたときには考えも付かないような明るい笑顔で、一人一人にお礼を言っていた。そんな彼女を遠くから眺めていると、急に背中を押された。また飯田一派の嫌がらせかと思って振り向くと、竹だった。

「行けや!」と、目で言っていた。

 意を決して鯨井さんのところへ行くと、彼女は他の子と全く同じ笑顔と声で僕と握手した。ちょっと拍子抜けした。その後は、他の男子達もおずおずと鯨井さんと握手しに行った。その中に飯田もいたから、かなり腹が立った。


 その日の夜は、家の庭から虫の鳴き声がよく聞こえていた。雨水が溜まったどこかの空き地から蛙の声も聞こえていた。ゾフィーと夜の散歩をしているときに、ふと思いついて公園に向かった。いつものコースとは反対の方向だから、ゾフィーは足を突っ張ったけれど、僕がしつこくリードを引いたら「しょうがねえなあ」としぶしぶ付いてきた。公園の中で誰かが大きな声を出していた。

 鯨井さんは、声出しをしていたのだと言う。彼女は、劇場に僕が来ていたのが分かっていたのだと言う。

「舞台からはね、観客の顔がよく見えるもんなんだよ」

 舞台の上からすぐ分かった。鯨井さんはゾフィーの皺だらけの顔をぐにぐに触りながら呟いた。不意にゾフィーが「ちゃうわ!」と吠えた。鯨井さんはびっくりしたらしく、ぱっと手を離した。するとゾフィーは申し訳なさそうに鯨井さんの右手をぺろぺろ舐めた。

「ねえ、鯨井さん」

「ん?」

「僕の恋人になってよ」

 鯨井さんは吹き出した。

「ばーか。ませガキ」


 *


 中学校に上がると、飯田一派との因縁はさらに深まるようになった。彼らは中学校のクラスメイトから何人かを新たな仲間として迎え入れて、勢力を拡大していた。最近になって身長が伸びて、小太りな体がそのままガタイの良さになった飯田は王様のように振る舞った。彼らは僕に直接的な暴力を振るうようになり、当然僕もやられただけやり返した。そうは言っても、僕の仲間と言うと相変わらず竹だけで、彼は全く戦力にならなかった。そもそも飯田を見るなり逃げ出すのだ。

 仲間とまではいかないけど、友達と言える人は増えた。この中学校では生徒は必ず部活に入らなければいけないらしく、どうしようかと悩んでいると竹が「演劇部が穴だ」という情報を仕入れてきたのだ。こうして僕たちは演劇部の裏方になった。僕も竹もシャイというか、ハッキリ言えば根暗だったから舞台に立とうなんてさらさら思わなかった。同じく演劇部に加入した一年生は他にも男子が一人と女子が二人いて、僕は彼らと仲が良くなった。

 その中には、同じクラスの鹿沢さんもいた。放課後になると、演劇部の一年生はホールで一度合流してから部室に行く。僕は飯田が嫌がらせをするのは、放課後僕が鹿沢さんと一緒に行動するからじゃないかと睨んでいる。竹も同じようなことを考えているらしいから、多分正しい。

 あるとき酷いことがあった。その日は部活が無い日だったので、僕は一人で帰っていた。帰路の途中で買い食いをしていた飯田一派と行き会ってしまって、殴る蹴るなどの暴行をされた。僕は意地になって飯田の顔面を目掛けて集団を掻き分けたが、誰かのドロップキックが脇腹に刺さるように入って、膝が崩れ落ちてしまった。後で調べると、あばら骨にヒビが入っていた。飯田たちも流石にまずいと思ったらしく、次僕が起き上がる頃にはその場に誰もいなかった。

 両親はこの出来事をかなり深刻に受け止めたらしく、学校の先生に相談しようかいうところだった。僕は慌ててそれを止めた。

 事実上の敗北宣言だと思ったのだ。

 ゾフィーが吠えた。そういえば、最近僕はゾフィーの声が聞こえなくなった。チャウチャウは関西の犬などではなく、中国の犬種だということを最近になって知ったためだった。それでもゾフィーは優しいヤツだった。二階の僕の部屋に入ると何故か必ずウンコしたが。

 結局僕は演劇部の幽霊部員になって、それとは別にボクシングジムに通うことになった。強くなりたかった。飯田を打ち負かしたかった。なのに、飯田はそれっきり僕に変な絡み方をしなくなった。もしかしたら、大人がこの件にけりをつけたのかも。

 当初の目的はわけの分からないうちに霧散してしまったが、僕はボクシングにのめり込んだ。体を動かしたり鍛えたりする楽しさに、中学一年の秋になってようやく気が付いたのだ。トレーナーは厳しかったけど、ジムに在籍していた同年齢の生徒は僕のような素人しかいなかったから、そういう所も気楽で良かった。

 ジムに通うようになっても、演劇部の連中とは友達のままだった。彼らは多かれ少なかれ僕が部室に顔を出さない理由を知っているようだった。きっと竹が上手く言ったのだろう。冬休みになると、そもそも「穴場」だった演劇部の活動は殆ど無くなったようだった。ジムの無い日は、相変わらず竹の家に遊びに行った。たまに演劇部の男子が加わることもあった。そんなときは決まって誰と誰が付き合っている、誰と誰が別れたとかそういう話になった。僕もそうだが、竹も満更興味がないわけでは無かった。竹の部屋にはパソコン以外にも新しいゲーム機があるから、飽きることがなかった。

 

 冬の札幌は雪が積もってランニングには向いていないから、殆ど屋内でのトレーニングを続けていた。といっても、外でも中でもキツいことに変わりは無い。トレーナーの拳骨は痛いし、有酸素運動で肺は悲鳴を上げた。

 昔のボクシングの映画で、ひたすらサンドバッグにラッシュをしているシーンがあったけれど、実際にやってみるとどんなに辛いのかよく分かった。激しく息を吐く口からは唾が汗みたいに出た。振るう拳が鈍くなると、容赦無くトレーナーの檄が飛んできた。終了のホイッスルが鳴ると、もう本当に全身に力が入らない。僕はサンドバッグに倒れ込むように寄りかかる。

 

「情けねえなあ」

 早々に出してしまってそのまま頽れると、下敷きになった彼女がそう言った。相変わらず隣が騒がしいアパートで、鯨井さんの体を抱いていた。役者をやっているからか、ジムに通っている僕と同じくらい筋肉質だ。雪が降っていてもこの部屋の窓は開いている。彼女は冬になると脇毛の処理が疎かになる。オレンジ色の灯りの下でも、ごま粒みたいな点々が彼女の脇の下から見える。鯨井さんに特定の男はいないのか、僕は彼女の恋人と言えるのか。どうして彼女は僕の相手なんかしてくれるんだろ。

 今日も竹の家に泊まると嘘を付いてきた。そんなことはしょっちゅうだから、親同士も一々挨拶なんて交わさない。余った果物を土産に持たされるくらいだ。

 僕の身長は、飯田の早さに比べると緩やかだけど、確かに伸びている。

 僕は手を付いて彼女から体を離した。中から陰茎をずるりと引き抜いて、ゴムを付け替える。引き抜くときに、膝を立てていた彼女の右足が、萎れるように落ちた。

「鯨井さん、何センチ?」

「は?」

「身長さ」

「一六五くらいかなー」

 盛ってる、と思った。どれだけ高く見積もっても多分一六三には届かないだろう。彼女にはこんなところに見栄があるのか。僕は嬉しくなった。

「僕は、こないだ計ったら一五九だった」

 鯨井さんは少し頭を上げて僕を見た。僕はもう一度彼女の中にゆっくり侵入し始めた。彼女の顔はすぐに苦しそうな恥ずかしそうな顔になる。

「つ……」

 目を固く瞑って、眉毛がぴくぴく動く。この瞬間のために彼女は僕とセックスするのかもしれない。入りきると、肺に溜まった空気を吐き出して少しだけ嬉しそうな顔になる。


 翌年の春になって、鯨井さんはちょっとした成功を収めた。ドラマの傍役に抜擢されたのだ。彼女の劇団は舞台公演を行う傍らで、所属する役者たちのマネージメントも行っていたらしい。彼女はオーディションを通ったのだ。

 深夜帯に放送されるドラマを観て、僕は絶対に鯨井さんが人気になると思った。彼女は役に入ると物凄く生き生きして見えた。竹にも録画したドラマを見せた。鯨井さんのことは言わないで、ただ面白いからと。しかし、彼は彼女と他の役者が決定的に違うとは思わなかったようだ。鯨井さんの名前は知っているはずだったが、小学五年生の頃のことだったからもう忘れているようだった。

 竹は最近演劇部の活動が楽しくなってきたようだ。裏方でも、舞台の演出に関わることが面白いらしい。今度の地方大会はケンちゃんも参加してくれ、と頼まれた。裏方の人手がどうしても足りないらしい。今回は鹿沢さんも舞台に立つらしい。どうやら、僕以外の演劇部の同期は結構真面目に部活動に取り組んでいるようだ。


 鯨井さんとの別れの日は突然やってきた。それは僕が他校の中学生とのスパーで完勝を収めた次の日だった。試合の疲れが少し抜けて、良い気分だった。ゾフィーを連れて夜の散歩をしていると、鯨井さんは公園のブランコに座っていた。ゾフィーは暗がりの内から彼女の姿を見つけて、ぐいぐいリードを引っ張って僕を急かせた。彼女の下に行くと忠犬のように尻尾を振りながらお座りして、鯨井さんの愛撫を嬉しそうに受けた。

「私、東京に行くよ」と、彼女は犬を撫でながら言った。「うちの劇団、向こうの事務所に伝手があってさ。だから」

 ゾフィーから少し遅れて、僕は彼女の側に立った。

「いつ?」

「もう、すぐだよ」

 彼女の言葉の通り、その週の土曜日にはもう、彼女は札幌を発った。


 *


 体育座りをしていた。ジムの端っこだった。もう生徒は皆帰っていた。鍵は俺が持っていた。高校三年生だった。僕はもう十七歳で、その年にプロライセンスを取っていた。雪はしんしんと降り積もっていた。真っ赤に小さく膨らんだナナカマドの実は、この時期によく落ちる。

 傍からみると綺麗なのに、雪道で潰れたナナカマドの中身はグロテスクで、なんだか詐欺みたいだった。

 来月新人王があったが、僕はプロになったばかりでまだC級だし、試合もしていないので参加資格はない。クリスマスの近づく頃だった。

 真っ暗なジムの中に、僕はいた。不意にスライド扉が開く音がして、一瞬夜の紫色の光がジム中央にあるリングを照らした。入ってきた男は静かにスライド扉を閉めた。

 横に大きく出っ張ったその人物の影から、男が竹であることが分かった。竹はサンドバックの近くにぶら下げられていたミットを手にはめて、リングに立った。裸足だった。

「上がれよ」

 黒目だけ竹に向けた。

「リングに立てよ」

 僕はコーナーの辺りからリングに入った。素手だった。

 竹が、見よう見まねで僕の目の前に右手のミットを構えた。手加減してジャブを打つと、やっぱり彼はびっくりしたようだが、

「もっと強く」と腰を落として言った。

 僕は試合で使うジャブをミットに打ち込んだ。乾いた、良い音が暗いジムの中で鳴った。目が慣れてきたら、目の前に立っている竹が泣いていることに気が付いた。

「もっと強く」

 右ストレートを打ち込んだ。竹はぶっ飛んだように、リングの端まで後ずさった。

 今日、僕の母が死んだ。竹はしょっちゅう僕の家に遊びに来ていたから、母と竹は仲良しだった。葬式で竹は泣かなかった。

 僕たちは強くならなければいけない時期だった。大人はいつまでも保護してくれない。

 後ずさった竹にステップを踏んで詰め寄って、ワンツーを左、右、と竹の左手に打ち込んだ。それからは体の中で音楽が鳴り始めたように、いつものリズムを取り戻して、本当の試合の前みたいなミット打ちをした。竹は一生懸命になって僕の素手を受け止めた。

 高校生の僕には彼女がいた。鹿沢さんによく似た雰囲気の子で、美人ではあったのに初めて出来た彼氏がよりにもよって僕らしかった。辛い出来事が多かったその年は、特に慰めになった。竹はというと、驚くことに鹿沢さんと付き合っているらしかった。彼らは高校が一緒なのだ。僕は彼らとの間には際どく偏差値の分水嶺があったらしく、一つ下のランクの高校に通っていた。でも、高校生活は楽しかった。産まれて初めて彼女も出来たし、竹とは相変わらず時間が出来ると遊んだりしていたから。ただし、お互いの家に行くことはもう少なくなっていた。彼との遊び場は主に札幌駅前のカラオケだとか、安く食べられる飯屋だった。たまにはお互いの彼女を連れてちょっと良いビュッフェで楽しく食事をすることもあった。まだお年玉を貰う年で、竹も僕もあまり金を使う趣味は無かったから、女の子たちの分も問題なく払うことが出来た。

 竹が鹿沢さんとセックスしたかどうか、その証拠は無いけれど、仲よさそうに食事をしている彼らを見ていると、そんなことがあっても不思議では無いな、と思った。それくらい彼らは仲が良くて、ともすればこのまま結婚まで行くんじゃないかと思ったくらいだ。

 対して僕らはというと、一度もセックスはしなかった。一回彼女とカラオケに行ったときにそんな雰囲気になって、彼女は自分のブラをたくし上げておっぱいを見せてくれた。

 僕は彼女のサクランボみたいな乳首を見て、鯨井さんとは似ても似つかない、と正直に思った。彼女の乳首は、赤みがかった葡萄のようだった。他のジムのボクサーと組まれたスパーリングや、試合で負けた時思い出すのは鯨井さんだった。彼女は一度ゴールデン帯のドラマで、主人公の親友役を演じきったあとは、活動の音沙汰が無かった。

 東京で、また僕のような人間を相手にしているのだろうか。そう思うと、胸がヒュウと鳴るように痛んだ。今の彼女に恋をしていないわけではないけれど、鯨井さんを思うのは、僕のもうすこし根深い部分の作用だった。

 それでも、高校を卒業する間際に彼女と一回交わった。処女だったから、細心の注意を払う必要があった。中から溢れてきた血を見て、僕は初めて鯨井さんとセックスしたときのことを思い出した。あのときは赤いものがあったのか? それはもう思い出せない。とにかく、暗い部屋だった。思い立って、僕は自室の照明を常夜灯に変えるとスムーズにことが運んだ。

 進路は、彼女と全く違っていた。竹も鹿沢さんも違っていた。僕たちはバラバラな未来へ足を踏み出し始めたのだ。彼女は大阪の国立大学に通うことになって、僕は東京の私立大学に通うことになった。もうアマチュアでは無かったから、ボクシングで推薦を貰うことは出来なかった。それはプロになる前、散々トレーナーから忠告されたことだった。

 だけどな、ケン。と、今まで厳しかったトレーナーはこう付け加える。

「本気でボクシングでてっぺん取りたかったら、早いうちにプロになったほうが絶対良い。おめえにはそれだけ才能があるからよ」

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