第17話
外はむっとするような湿気を含んだ風が吹いていた。明日からはまた、梅雨特有のうっとうしい雨が続く。でも、胡桃の心は晴れやかだった。マンションへ近づくにつれ鼓動が速くなっていく。ふと梓の顔が浮かんだ。今日話した同級生たちの顔も。
梓に今日のことを話したい。クラスの子と一緒に勉強をして、普通に話ができたこと。胡桃が思っていたよりも、学校って息苦しくないのかもしれないってこと……。
小さい頃に戻ったみたいに、誰かに話を聞いてほしくてたまらなくなった。ううん、誰かじゃなくて、梓に。
走るのとそう変わらない早歩きでマンションに到着し、素早くエレベーターに乗った。上の階に着くのが待ち遠しい。こんなふうに何かにワクワクした気持ちになったのはいつぶりだろう。清香と一緒だったとき以来か。
ポーン、と機械音がして、扉がゆっくり開く。完全に開くまで待っていられず、胡桃は半身で飛び出した。ずっと忘れていた感覚を思いだして、体がはしゃいでいるみたいだ。
「ただいま!」
帰るなり、乱暴に靴を脱ぎながら廊下の奥に向かって叫んだ。リビングダイニングへ続く扉から、微かに「おかえり」と返事が返ってきたのがわかる。口元がにやけるのと、廊下を走るのとを我慢しながら、できるだけ涼しい顔をつくって家主のほうへ向かった。
「外は暑かったよね。大丈夫?」
キッチンから梓が顔を覗かせる。梓につられて笑いそうになるのをこらえて、なんでもない雰囲気を装った。ソファの脇に鞄を置きながら答える。
「ちょっと。つっても、耐えられないほどじゃないし」
「新藤さんは暑さに強いんだね。俺は一日中エアコンつけてないと無理だから」
「ずっと家にいるからだよ。テレビで言ってたよ、暑さも徐々に慣らしていかないと、簡単に熱中症になるって」
他愛ない話をして、梓が用意してくれた昼食を食べる。前は会話なんか全然しなかったけれど、最近は胡桃から話しかけることが増えた。梓も笑って胡桃の話を聞いて、うなずいたり、言葉を返したりする。
「ごめんね。お昼、昨日の残りもので」
「何も問題ないでしょ。おいしかったもん、カレー風味の肉じゃが。だいたい、昼くらい手抜いたっていいじゃん。うちはお父さん任せか、お母さんがテーブルに千円札置いとくかの二択だから」
胡桃だって母の料理下手を受け継いでいる側だから、今もこうして梓に任せきりなのだが。
上機嫌でじゃがいもを頬張る胡桃に、梓が目を細めて言う。
「新藤さん、今日は楽しそうだね。何かいいことあった?」
「えっ……やー。マァ、うん」
よくぞ聞いてくれました! ……と身を乗り出したい気持ちをぐっと抑える。そんなの、ただのかまってちゃんだ。胡桃は梓に、小さい子みたいに可愛がられたいわけじゃない。
「出された課題もいいペースで進んでるし。……まー、他の子にも、勉強教えたり、教えられたり、的な?」
「……そっかぁ。よかったね」
多くは語らないけれど、とびきり優しい声で梓が言った。
胡桃からは同居前にざっと説明しただけだが、ひょっとすると清香から詳しく聞いていたのかもしれない。学校で胡桃がどんな状況か。でも梓は掘り下げず、ただ一緒に喜んでくれた。
胡桃が全部を言わなくても、言わない部分までわかってくれているような気がする。それは梓が大人だからだろうか。それとも、梓と胡桃だから?
(私ももっと、梓を理解したい)
優しくて思いやりがあって、料理上手で聞き上手な梓。そういうのだけじゃなくて、もっと内面の部分。
この人は何が好きなんだろう。食べものでも、色でも、なんでもいい。趣味は何? 子供の頃ってどんな感じだった? 梓が胡桃の気持ちを察してくれるように、胡桃も同じことがしたい。
心に引っかかっていた大きなものが一つ、取れたからなのか。それとも別の理由か。ここにきて急に、梓に聞きたいことが山ほど浮かんでくる。
それに気付いているのかいないのか、梓は箸を置いてじっと胡桃の顔を見つめてきた。清香と似た、大きくて綺麗な瞳。前髪で隠れているのがもったいない。
「新藤さん、変わったよね。いい意味で。初めて会ったときは暗い顔してたから」
「そりゃ、ストーカーには誰だって嫌な顔するでしょ」
「そうだけど、なんていうか。最近は、よく笑った顔を見せてくれるようになったなぁって」
「……そう?」
「うん。たぶん、今が本来の新藤さんなんだね」
元気になってくれてよかった――なんて言う梓に、誰かの影が重なった。
――胡桃の笑った顔、すっごく可愛いんだから!
……清香。
中身は違っても、二人の顔はよく似ている。イトコ同士だから当然だ。わかっていても、やっぱり何度も重ねてしまう。梓を見て清香を思いだすたび、「胡桃を罪滅ぼしに利用している」と叫んだ自分を責めたくなる。もういない人間の影を追い続けているのは胡桃のほうだ。
(本当にいいのかな。私だけ笑って……これでハッピーエンド、で、いいの?)
清香はどう思う? 私が笑っていることで清香が喜ぶなら、それでいいってことになるの? 清香が好きだった人と、清香を差し置いて笑っていても?
もちろん、死者が正解を教えてくれるわけがない。考えても胡桃にとって都合のいい答えしか浮かばない。
「明日も学校に行くの?」
食べ終わった二人分の食器を運びながら梓が言う。
「一応、そのつもり……だったん、だけど」
受け入れたつもりだった。清香が強くあろうとしたなら、それを信じたままでいようと。でも、それだけじゃまだ、足りないのかもしれない。胡桃がこじらせてしまった悩みは、思うだけでは解決したといえない気がする。
「けど?」
「え、っと。……あ。古文があんまりできてないって言われてさ。明日までにもう少し自習しないとヤバいかなって。なんかコツとかある?」
「うーん、基本の勉強法は英語と変わらないかな。新藤さんは英語得意だし、すぐ覚えられるよ」
慣れた手つきで食器を洗い終えた梓にうなずく。田端にも褒められたし、今日一緒だった生徒からみても、胡桃の英語力は優秀らしい。
「まずは暗記かな。英語より覚える単語も少ないし、助詞や助動詞なんかも少しずつ覚えていけば、文章を読むのもそれほど難しくなくなると思う。今はとっつきやすい参考書もあるから、暗記も楽しくできるかもね」
「ふーん……」
あとで検索してみようと、頭の中でメモしておく。
梓は家庭教師かのように丁寧に話す。実際、ここ最近は空き時間で胡桃の勉強を見てくれているので、家庭教師というのもあながち間違いではない。
(梓が勉強教えてくれて。学校とか、進路とかも、なんとかなりそうで。でも、あともう一つ、何かがあれば……。)
考えながら、おもむろに立ち上がったときだった。
(……これ)
くせでつけていたテレビに、エメラルドグリーンの海が広がっていた。真っ白な砂浜。日射しがキラキラしていて、無数の光の粒が水平線上に並んでいる。
(海……を、見てみようか。あの日の、あの場所を)
清香が最期に見た景色。
考えるだけで、じんわりと首が締まるような恐怖感がある。でも、悩みの答えがあるかもしれない。
(怖がるな。
ソファ脇の鞄を手に取り、急いで部屋に戻ろうとする。参考書の確認と、明日の自習の準備と……最後にもう一つ。
海に行けば、自分の中の何かが変わる。そんな確信があった。
「新藤さん」
大股でリビングを出ようとした胡桃を、梓の声が引きとめる。
「え、何」
「ああ、大したことじゃないんだけど。午前中に買い忘れたものがあるから、このあとまた買い物行ってくるので。何か欲しいものある?」
「んー……アイス! 暑いし。できればソーダとか、すっきり系のやつ」
「わかった。じゃあ、戸締りよろしくお願いします」
ふぁい、と気の抜けた返事をしたあと、己にあてがわれた部屋へ素早く向かう。
扉を開けてすぐ、「ぅげぇっ」と変な声が出た。朝から閉めきったままの部屋は、熱気がこもった地獄のような空間と化していた。いつもなら遠慮するところだが、さすがに耐えられないのでエアコンをつける。
鞄から問題集などを出して机に並べたところで、図書室でのなんでもないやり取りを思いだして笑みがこぼれた。
(そういえば、梓って友だち呼んだりしないよな)
居候生活を始めてしばらくたつが、梓が誰かを家に呼んだり、仕事以外で他人と連絡をとったりしているのを見たことがない。胡桃に遠慮している可能性もあるが、これだけ他人の気配がないというのは変じゃないか? 胡桃も高校以前は、よく友だちが遊びに来たし、一緒にやるためだけに買ったゲームをやった。お揃いで買ったアクセサリが増えたり、友だちが置いていった荷物が部屋の隅にたまったりして、自然と物が多くなったものだ。
この家は逆だ。初めて来たときも思ったが、必要なもの以外切り捨てているような、殺風景な部屋。
(まさか、友だちいないとか? さすがにちょっとかわいそうだな……)
勝手な想像と失礼な同情をしたところで、胡桃は勉強を再開することにした。
また梓について知りたいことが増えた。が、まず優先すべきは、進学に向けての勉強だ。問題集は明日までに少しでも進めておかないと。早くみんなに追いついて、田端を驚かせてやりたい。梓に褒めてほしい。今日はアイスもあるのだから、いつもよりちょっとだけ、頑張ることにしよう……。
*
うだるような暑さ、という表現がしっくりくるような景色が、窓の外に広がっている。胡桃が問題集に集中している間に、陽射しはずいぶん弱くなったように見えるけれど、やはり暑いことに変わりはないだろう。改めて文明の利器に感謝だ。
とはいえ、少しぼうっとしてきた。休まず勉強していたせいか、体がだるい。スマホを見ると、もう夕方に近くなっていた。およそ二時間はこうしていたらしい。
自分の集中力を褒めてやりたくなると同時に、そりゃ体もだるくなるわ、と半分呆れもする。慎重に立ち上がっても立ち眩みが襲ってきた。落ち着いて、壁にもたれて深呼吸。……大丈夫。喉が渇いたし、ちょっと休憩しよう。
「あ。帰ってんじゃん」
部屋を出て玄関を覗くと、梓の靴があった。買い物から帰ってきている、ということは、
(アイス! アイス食べたい……!)
勉強には気分転換も大事だ。喉を潤すのと涼感を同時に得ようという無駄のなさ。実に効率の良い生き方だ。問題集を解き続けることによって、胡桃の脳細胞はこれまでにないほど活性化している……!
と、にやけたところで小さな違和感を覚えた。
梓の靴が、ちょっと乱れてしまっている。胡桃のローファーが揃っていないのはいつものことだが、梓の靴が散らかっているのは変だ。いつもきっちり踵を揃えているのに。そもそも買い物に行った時点で、胡桃のもついでに整えているはず。それすら放っておくとはらしくない。梓をよく知らないといっても、一緒に過ごしていれば、このくらいの違和感には気付く。
「梓?」
嫌な予感がした。一目見ただけでぞくりとするような、不愉快な胸騒ぎ。まるで、清香のメールを受け取ったときのような……。
胡桃はリビングへ走った。いつもの梓なら夕飯の準備を始めているはず。
ドアを吹っ飛ばしそうなスピードでリビングダイニングに突撃する。キッチンに梓はいない。リビングのソファを見ると、黒い髪がちらりと覗いていた。
「梓!」
悲鳴にも似た声で呼ぶと、頭が微かに動いた。すぐさま駆け寄って、ソファに横になった梓の顔を覗き込む。
目を閉じてぐったりとした梓は、誰が見ても具合が悪そうだと思うくらい、色のない顔をしていた。とりあえず息はしているが、動くこともままならないのだろう。胡桃が叫びながら入ってきたのに、ほとんど反応がない。
「大丈夫? じゃ、ないよな。えっと」
とりあえず熱を計らなきゃ、と額に触れようとして、ためらってしまう。いや、こんなときに変に意識してどうする。とはいえ、一度引っ込みかけた手は伸ばしきれなくて、そっと背中のほうにあてた。顔が火照っている様子はないが、異様に熱い。
「……新藤さん」
梓が絞り出した小さな声に、胡桃は噛みつきそうな勢いで耳を寄せた。
「どうしたの? 風邪? インフル? すごい熱だよ」
「あー、ごめん。ちょっと、軽い熱中症、みたいな感じです……」
無理につくった笑顔は全然平気そうじゃないし、軽い、なんて言われても全く信じられない。こいつは重症患者認定だ。とにかく、下手に動かさないようそっと体を離す。
「体冷やそう。エアコン、は、ついてるか。冷えピタは?」
「すみません、ないです……」
「じゃあ買ってくる! と、何か飲んだ? こういうときって、スポドリとか飲むんだっけ」
保健の授業やテレビでかじった程度の知識を総動員する。スポーツドリンクもいいかもだけど、何か違ったな……水分とるだけじゃ駄目だから、なんだっけ。塩分? タレントが夏になるとしつこくCMやってるやつ。ああいうのを飲ませるのか? っていうか、まず一番に病院だ。この時間でも間に合うか? 一番近い内科ってどこだろう。
「梓、病院行こう。動くの無理なら救急車呼ぶから」
「大袈裟だよ……本当に、大丈夫だから。少し休めば。大丈夫だから」
「繰り返されると逆に不安なんだよっ。診察券とかある? あと、保険証」
「……今日、土曜日……」
言われてようやく気付いた。こんな状態の梓より冷静さを欠いている。梓がぎこちなく目を開けて胡桃を見た。熱でぼうっとしているのか、瞳は暗くどんよりと濁っている。
「ごめんね。ご飯。なんにもできてない」
「そんなのいいから。適当に食うし。今からコンビニで何か買ってくるから。無理に動かないで。絶対だよ!」
梓の返事も待たず、胡桃は財布片手にコンビニへ猛ダッシュした。誰かの看病なんてしたことない胡桃でも、今は少しでも役に立ちたい。
テーブルに置かれたスーパーの袋が、溶けた胡桃のアイスでテーブルにシミをつくっていた。
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