第16話
「浅井さんって、もっとクールな感じだと思ってた。や、クールではあるんだけど、思ってた感じとは違うというか」
「クール? 何それ。どんなふうに?」
「ツンとしてるっていうか。集団で騒いでる女子とか、下に見てる感じっていうか。ほら、頭いいし。こーゆーマンガとか占いの話なんか興味ないと思ってた」
「そんなことないわよ。ただ、そうだなあ……クラスの女の子たちとは、ちょっと話が合わないなあって思うかな。だってあの子たち、他人の目ばかり気にして生きてるじゃない? 誰かと同じじゃないといけないって、呪いにかかってるのよ」
「呪い、ねえ……。でもさ、人間ってそんなもんじゃないの?」
「それが過剰なのよ。好きになるなら、誰かと同じものを。嫌いなものもお揃いにしなきゃ、って。他人と違ったって、生きていくことはできるのにね。その点、胡桃は違うよね。初めて見た瞬間から、あたしはちゃんとわかってましたっ」
「なんだよ、そのドヤ顔は。私はマジで無視されてただけだっつの」
「でも、胡桃は戦ってたわ」
「……」
「どんなに無視されても、負けるもんかって顔してた」
「そりゃあ……だって、ムカつくじゃん。やってもない罪のせいで、こっちが泣き寝入りしなきゃならないなんて」
「だから好きなの」
「へ?」
「周りの空気に圧し潰されずに戦ってる胡桃が、すごくかっこいいなって思ったの。この子となら、仲良くなってみたい、もっと知りたいと思ったのよ」
「な、何それ。別に、そんないいもんじゃないし。……まあ、悪い気はしないけどさぁ……」
「じゃあ、友だちになってくれる?」
「そーゆーのは、宣言しなくてもなってるものなんですぅ」
「……それもそうね。じゃあ、胡桃はあたしのこと、今から名前で呼ぶこと! それから、もっと笑顔になること!」
「は? 唐突すぎ……ってか、笑顔ぉ……?」
「教室ではいっつも無愛想でしょ? あたしも人のこと言えないけど。だから、二人のときは、お互いもっともっと笑顔になろう! 胡桃をいじめたつまんない子たちが嫉妬しちゃうくらいにさ。胡桃の笑った顔、すっごく可愛いんだから!」
*
「田端せんせー。プリント終わりましたぁ」
教員もまばらな職員室へ、胡桃はプリント片手に顔をのぞかせた。本格的な夏はまだ先だというのに、室内は早くもエアコンがフル稼働している。
「あら、新藤さん。早かったじゃない」
パソコンを操作する手を止め、担任の田端が立ち上がる。汗で前髪がはりついた胡桃とは対照的に、田端は淡い水色のブラウスを涼しげに着こなしていた。
「図書室のエアコン、まだ修理してもらえないの? 窓開けても風なんて全然入ってこないんですけどー」
「来週か、再来週くらいって言ってたかな……。土日は自習室として使ってる三年生も多いから、生徒には悪いと思ってるんだけどねえ」
田端は言いながら席に戻り、隣の使われていない椅子を胡桃へ寄越した。
「職員室なんか、先生ほとんどいないのに涼しくしてるじゃん。修理とか点検も、先生たちのエリア優先だし」
「先生はあなたたちより暑さに弱いのよ。何より、パソコン使う部屋なんだから、サウナになっちゃ駄目でしょう」
胡桃の愚痴を聞きながら、田端はさっさとプリントの採点を進める。胡桃は口をとがらせつつも、内心田端に感謝していた。
先日、教室で起きた騒動のペナルティとして、胡桃は土曜日の休みを返上して、反省文提出と補習課題をするよう言い渡された――表向きは。
本当は、授業をサボりがちで学習が遅れている胡桃に、田端がセンター対策の課題をこれでもかと出している。今さらながら大学受験に向けて勉強を始めた胡桃を、田端は自分の仕事が増えるのを承知で応援してくれていた。
「うーん。やっぱり、新藤さんは英語の伸びがいいよね。長文問題もばっちり要点おさえて答えられてるし、単語覚えるのも早いし。この調子でどんどん数こなしていけば大丈夫かな」
「ま、私はやればできる子なんでね」
家に優秀な家庭教師がいるのは内緒で胸を張る。
「でも、古典がいまいちだなぁ。こっちは基本を改めて覚えなおそうか」
「上げて落とさないでよ! 私は褒められて伸びるタイプなんだからっ」
「まあまあ。……にしても、本当に頑張ってるね、新藤さん」
キィ、とオフィスチェアを鳴らした田端が、胡桃と向かい合って言った。
「いきなり職員室に来て、大学入試のこと聞いてきたときはびっくりしたよ。しかも、心理学を学びたいだなんて。どういう心境の変化なのか……よかったら、教えてもらえる?」
「……大したことじゃないよ」
胡桃は採点されたプリントを受け取って、それを折り曲げながら話す。
「変化って、思ってるより悪いことばかりじゃないのかなって思っただけ。自分なりの答えが何か確かめるためにも、何かしなきゃ、みたいな? ……ごめん。言ってて謎だわ」
「そんなことないよ。いい答えが見つかるといいね」
田端はそれ以上詮索せずに微笑んだ。
「じゃあこの勢いで、今日は問題集あと二十ページ進めよっか!」
「はぁ!? 二十って……プリントこんなに頑張ったんだからもういいじゃん!」
「何言ってるの。今から追いつくためには、みんなの倍以上やるつもりじゃないと! 自己採点できたら、今日は終わりでいいから。あと少し頑張りなさい」
笑顔で手を振る田端を憎らしげな目で睨みつつ、胡桃はすごすご引き下がっていった。
入試対策問題集の分厚さと、熱気のこもった無風の図書室の暑さにうんざりしながら、胡桃はため息とともに着席した。図書室には胡桃のほかに五、六人ほどの生徒がバラバラに座って自習している。図書室の涼しさを期待してやってきた生徒は、『故障中』の張り紙がされたエアコンをくたびれた様子で見上げていた。時折下敷きで顔を仰ぐなどしながら、各々のペースで勉強に励んでいる。
彼らは胡桃と違って自主的に、わざわざ学校まで勉強しに来ているのだ。梅雨の合間の猛暑日にぐったりしつつも、瞳は揃って鋭かった。その内の一人になったような顔で座っていることに、若干の気まずさを覚える。胡桃は彼らのような真面目な優等生でもなければ、立派な大学に通うため必死に勉強し続ける努力家でもないのだ。今まで逃げてきたものに、ようやく向き合おうともがいている不良生徒。
ただのペナルティ。ただの回ってきたツケ。
(なんか、息苦しいな……)
ペンが止まったところで、図書室の扉が勢いよく開いた。
「扇風機借りてきたよー! 体育の水川先生から! 風欲しい人、カウンターに近いほうの机に集まって!」
己の背丈ほどの大きな扇風機を抱えながら、女子生徒が入ってきた。胡桃のクラスの学級委員だ。入り口近くの席にいた男子生徒が素早く立ち上がり、よろめく委員長を手伝う。
助かったー、ありがとね、などと言いながら、他の生徒たちも設置準備をしつつ、言われた机に荷物を移動させる。さすがに、当然のようにその輪に入れると思うほど胡桃も愚かではない。窓際の隅っこでおとなしく、空気のようにひっそり静かにしているだけだ。いつも通り……
「……あっ。し、新藤さんも、来なよ」
さっきとは打って変わってぎこちない声で、委員長が胡桃を呼んだ。
「え……」
「暑いでしょ、そっち。風、入ってこないから」
互いに戸惑うような視線を合わせると、周囲の生徒たちはそんな二人を驚いた様子で交互に見た。驚いているのは胡桃のほうだ。咄嗟になんと返していいかわからず、汗で滑ったペンが転がる。
「その……教室では、ごめん。アレは、さすがにやりすぎでしょって思ったのに、止められなくて。今さらこんな言い訳、意味ないのはわかってるんだけど」
どうしても謝りたくて、と話す委員長は、落ち着かない様子でスカートの裾をいじる。
「浅井さん、ちょっと変わってたけど、悪い人じゃなかったのにね……ううん、悪い人だとしてもあんなの駄目だけど。浅井さんのこと酷く言われて、本気で怒ってる新藤さん見てたら、本当に申し訳ないなって気持ちになって……」
「……いいよ、別に。委員長のせいじゃないんだし」
ペンを持ち直した胡桃が言う。本当にもう気にしてはいなかった。自分の心をずたずたに引き裂いた主犯を許す気はなかったが、無関係な傍観者でしかない彼女に謝られてムキになるほど恨んではいない。あの場で胡桃を庇うような素振りでも見せれば、今度はその人物が標的になるだけだ。それは誰もが理解していたことだし、胡桃がわざわざ言葉にする必要もない。
「でも、ありがと。そんなふうに思ってくれてたってだけで、嬉しいよ」
そんな言葉が自然と出てきて、自分が笑っていることに気付いた。
つられて委員長がほっとしたように笑う。それから半ば無理やりみんなの輪に加えられ、扇風機の風を浴びながら問題集を進めた。
「俺さー、新藤さんってもっと怖い人だと思ってた。話すと意外と普通なんだね」
「そう、それ。休みなのに真面目に勉強しに来てるし。いい意味でイメージと違ったっていうか。……ちなみになんで無視されてんのとか、聞いて大丈夫なやつ?」
「あー、まあ……大丈夫だけど。すげーくだらないよ?」
委員長のおかげか、警戒心むき出しで胡桃を見ていた他の生徒も、すぐに笑顔で話すようになった。そもそも自主的に勉強しに来るような真面目な生徒ばかりだから、好んで噂話に乗っかるタイプじゃなかったことも大きい。わからない問題を教えあったり、くだらない世間話に花を咲かせたりしているうちに、時間はあっという間に過ぎた。
十二時を告げるチャイムが鳴ると、昼食をとって残る生徒と、午前で切り上げて帰る生徒に分かれる。胡桃は後者だ。ちょうど田端に言われたページまで終わったところで荷物をまとめる。
「あの……新藤さんって、明日も来る? 日曜だから、人はもっと少ないと思うんだけど」
委員長に呼び止められると、胡桃は少し間を空けてから、「たぶんね」と返す。わかりやすく表情を明るくするのを見て素直に、可愛いな、と思った。今まであまりいい印象を持っていなかったけれど、ひょっとすると彼女も、自分を守るために誰かを虐げるあの空気に、居心地の悪さを感じていたのかもしれない。
「また明日ね、新藤さん」
「俺らもまだ残るから。バイバーイ。あ、平日に会ったときは他人のふりするだろうから、先に謝っとくわ」
笑って弁当を取り出す男子生徒の頭を、隣に座る女子が無言で叩く。
「いいって。それが無難だろうし。ま、好きにしなよ……」
適当に手を振って図書室を出たあと、なぜだか涙が出そうになった。そういえば、清香が死んで以来、同年代と普通に話したのはこれが初めてだ。こんなふうに自然に打ち解けられる日がくるなんて思っていなかった。
安堵というか、なんだか満ち足りた気分というか。フワフワとした幸せな気持ちを抱いたまま、胡桃は軽い足取りで梓のマンションへ帰っていった。
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