第15話
「それがわかれば苦労しないさ」
片山は突然、興味を失ったように無感情につぶやいた。胡桃も片山の力ない声に急速に熱を奪われてしまう。ひゅうっ……と細い風が二人の間を過ぎていった。
「教科書みたいな説明なら、いくらでもできるけどさ。体が大きくなること。成人すること。働くということ。自立すること。自分の行動に責任を持つこと。……でも、モモちゃんが欲しいのはそんなお決まりの答えじゃないでしょ」
そう言うと、片山はふらりと胡桃へ近づき、持たせていたショルダーバッグに手を伸ばした。バッグの中に手を入れ、整理されていない中身がぶつかる音をたてながら、画面の一部が割れたスマホを取り出す。
「モモちゃんはさ。自分で答えを見つけようとしているんだよ」
まだ気付いていないだけでさ……言いながら、ロックを外したスマホの画面を胡桃に見せる。電話番号の入力画面だ。ハッとなり顔を上げると、澱んだ目は、さっきとは違う、僅かな温かさを宿して胡桃を見ていた。
「つまり変わろうとしているのさ。閉じた世界から出ようとしてるの。モモちゃんがこれを見て、
「でも……でも、私」
「あーっ。こういうの柄じゃないんだけどねぇ、僕も」
イラついた声を出して頭をガシガシ掻きながらも、片山は言葉を選ぶようにゆっくり話した。
「僕と一緒に逃げてもいいけど、その場合、答えは永遠にわからないままだと思うね。モモちゃんは知りかったんでしょ? 清香ちゃんが何に負けてしまったのか。彼女の自殺をどう受け止めたらいいのか。そのためには、モモちゃんが変わらないと」
もう一度画面を見て、じわじわと緊張感が高まっていく。
別に、喧嘩したことに怒ってなんかいなかった。でも、梓を傷つけてしまったことのほうは、まだ引きずっていた。声を聞いたら、謝ることも忘れて怖気づいて、逃げ出してしまうかもしれない。
(過去に責められてるみたいだ)
胡桃はずっと、清香の死因を外の世界に求めていた。清香の死を認めたくなくて、何より、彼女が自分から命を絶ってしまったかもしれないと認めたくなくて、逃げていた。でも、それだけではもう、駄目なのだ。認めなくては。
(目を背けてるだけじゃ何もわからない。あんたのことも、本当は何を考えていたのかも、わからないままになっちゃう。そうでしょ、清香……)
怖くても向き合わなければ。片山が言うには、胡桃は変わろうとしているのだから。
変化を嫌がっていたはずなのに。時よ止まれと思っていたのに。前ほど強く思わない理由が、この画面の向こうにいるかもしれない。
片山のスマホを受け取ると、胡桃は少し震える指で、ためらいながら番号を入力していく。
「あ、……自分の番号しかわかんないけど、大丈夫かな」
「探すつもりなら持ってくれてるんじゃないのー?」
軽く言う片山の言葉に、慌てる梓の姿を思い浮かべた。必要ないものまで抱えて、必死で胡桃を助けようとしてくれた梓。あのときの優しさは、胡桃自身に向けられたものだ。もし、梓の中の胡桃が本当に清香の代わりだったとしても、もうどっちでもいい。どちらにしても、胡桃が救われたことに変わりない。
耳に響くコール音は、二回目で大きな雑音に変わった。服か何かが擦れるような音のあと、
『……もしもし?』
梓の、痛みをこらえるような声がした。
声を聞いた途端、胃がしめつけられるようだった。咄嗟に何も言えなくなって、梓の向こうにある音を聞く。たくさんの人が行き交う騒がしい音、車が通り過ぎる音――梓は外に出ている。その事実が、泣きたくなるような苦しさと、踊りだしたいくらい嬉しい気持ちを同時に連れてきた。
「ごめんなさい」
気付けば自然とそう口にしていた。
「逃げてばっかりで、あと、酷いことも言って、ごめんなさい。あの……」
『新藤さんだよね? 今どこにいるの?』
胡桃の声に被せて梓が早口で言う。
『体調は? 大丈夫? 迎えに行くから場所を教えて。というかこれ、誰の番号ですか? 誰かと一緒にいるの?』
余裕のない梓の声に、思わず笑いがこみ上げてきた。さっきまで胡桃を覆っていた靄のような不安が、あっさり風に流されていくようだ。
「……へーきだよ。ちょっと落ち着いてってば」
『えっ、と、うん。そうだよね、ごめん』
深呼吸して、お互い息を整える。部屋を飛び出していったときの虚しい気持ちは、もうどこにもなかった。そんなことを思いだすより、話さなくちゃならないことがたくさんある。
「迎えに来てよ。梓」
私はここにいて、ちゃんと待ってるから。勝手に消えたりしないから。
*
アパートの前で十分ほど待っていると、大汗をかいた梓が慌てた様子で駆け寄ってきた。Tシャツ一枚に、下はスウェットというシンプルな服装だったが、なぜか両手に大きなスーパーの袋を抱えている。
「な、何それ」
顔を見たら改めて謝ろうと思っていたのに、つい疑問が先に出てしまう。ガサガサと音をたてながら、梓は袋の中身を見せた。
「頼まれてたナプキンとか、着替えとか。あと、何かあったときのために、護身用のグッズとか……」
黒い袋は胡桃が頼んでいた品物ばかりだが、もう片方はずいぶん物々しいというか、めちゃくちゃだった。そのままでも立派な鈍器になりそうなゴツゴツした懐中電灯や、防犯ブザー、武器に変わるボールペンと、なぜか熊撃退用と書かれたスプレーまで入っている。その中に紛れ込んでいた食器用洗剤とティッシュのほうが異物に見えるほど妙なラインナップだ。
「こんなモン必要ないでしょ。なんだよ熊撃退って! この物騒な懐中電灯も! 洗剤……は、何に使うつもりだったわけ?」
「え。洗剤とティッシュは、そろそろなくなりそうだったから。安かったし、ちょうどいいかなと思って」
「そこは普通に買い物してんのかよ……!」
中身を見た片山が、耐えきれないというように盛大にふき出した。
「あははっ! モモちゃんの彼氏さん、ずいぶん面白い人だねぇ」
「彼氏じゃねーよ!」
つい声を張り上げた胡桃は、謝罪のタイミングを完全に逃したと気付いて落胆した。それもこれも、梓がまた変な登場の仕方をするせいだ。
(……いや。そうやって理由つけて、逃げるから駄目なんだよ、私は!)
ちらりと顔を覗くと、梓は疲れを感じさせつつも、いつも通りの穏やかな表情をしていた。片山に謝りながら何度も頭を下げている。片山のほうはというと、こちらもいつものヘラヘラした笑顔で適当に相槌を打っていた。
「ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」
「いやぁ、僕は偶然、見つけただけなんで。それより、身体のほう気を付けてやってください。今は平気そうにしてますけど、結構具合悪そうでしたから――」
胡桃を置いて、二人は迎えに来た保護者と子供を預かっていた教師みたいな会話を続ける。片山は梓の前だからか、胡桃のことを「モモちゃん」と呼ばずに、新藤さん、と他人行儀に話していた。梓が丁寧というか、どこか上品な対応なのはいつもだが、今は片山までまともにみえる。
(変なやつは確かにいるけど――大人って、それほど悪、なのか?)
胡桃はじっと梓を見上げた。すると、ちょうど話が終わったのか、梓が心配そうに眉根を寄せて胡桃の顔を見返す。本当に苦しそうな顔をするから、清香の代わりなんだろうと叫んだことへの罪悪感がどんどん膨らんでいく。こんなに心配してくれる人に、なぜあんなに怒ってしまったのだろう。
「それじゃあ、バイバイ。しっかり休んでね」
「あ、うん。……ありがと」
持っていたバッグを返すと、片山は軽く手を振って言った。悪い大人だと思っていた片山にもいいところがあった。そう思うと、ますますわけがわからなくなる。
片山曰く、清香は大人になることを――自分が奪う側になることを恐れていた。でも、そんな大人ばかりじゃないと思う。片山が奪うだけの大人じゃなかったみたいに、大人にも色んなやつがいる。子供だってそうだ。清香のようにまっすぐなやつもいれば、花の一件みたいに最低なことをするやつもいる。ずっと子供でいることが幸福とも言えない。
それでも清香は死ななければならなかったのだろうか。大人になることに、将来に、ほんの少しの希望も見出せなかったのか。考えたところで、真相は永遠に闇の中だけれど。
片山と別れて、胡桃と梓は無言で住宅街を歩いた。繁華街へ戻って帰る道もあったが、夜が深くなるほど、ああいう場所は危険だ。胡桃のことを気遣ってか、梓は少し広い通りに出てタクシーをつかまえた。
「あっ、あの。梓」
梓が運転手に行き先を告げると、胡桃は追い立てられるように口を開いた。このまま黙って帰ったら、もう二度と変われない気がする。梓は、ぐっと顔をしかめる胡桃をとぼけた顔で見返した。
「どうしたの? えっと、すごい顔だけど」
「うるせっ――や、じゃなくて。……ほんと、ごめん。なんかもう、しつこいくらい言っても足りないんだけど、とにかく謝らせて。……ごめんなさい」
頭を下げる胡桃に、梓はなぜか動揺していた。心当たりがないとでもいうように、「え、どうして?」と目を丸くする。
「謝るのは俺のほうだよ。さっきの……片山さんから聞いたけど、危ない目に遭うところだったっていうし。新藤さんに嫌な思いばかりさせて、俺のほうこそ謝っても足りないよ」
「違うよ! 私が勝手に怒って飛びだしたんだからっ。梓は何も」
悪くない。
と、言いかけたところで、派手にお腹が鳴った。車内に気まずい空気が流れる。そういえば、お昼から何も食べていない。色々ありすぎたせいか、今の今まで空腹感が全くなかった。
「新藤さんのお腹にも謝らせてくれ。実は、ご飯の準備が一切できてないんだ」
「そ、そんな真剣な顔で謝らなくていいから」
「デリバリーでもいいかな。とにかく、帰ったらすぐ用意するよ」
柔らかく微笑む梓を直視するのが恥ずかしくて、胡桃はサッと窓のほうを向いた。キラキラと輝く眩しい街並みに目を細める。
「……私、さ」
景色を眺めながら、胡桃を見つめる梓の気配を感じた。
「清香はじ……自殺かもしれないって認めるのが、怖かったんだ」
繁華街のネオンが遠ざかっていく。あの中のどこかに清香がいた。知らない男と、作り笑いを浮かべて並んで歩く清香。
「清香のことが大好きだった。強くて、かっこよくて、美人で……私にないものを全部持ってる。親友で、憧れの女の子だったの。そんな清香が、本当は弱いところもあるただの女の子で、敵に負けちゃったんだって、認めたくなかった……」
清香の死の真相――否、自殺以外の答えを知りたいのは、清香のためじゃない。胡桃の幼稚な幻想を壊したくなかったからだ。ぜんぶ胡桃の自己満足でしかなかった。
「私のわがままなんだよ。なのに、梓に酷いこと言って、傷つけた。梓だって、清香が死んで悲しかったのに。本当は梓に嫉妬してたの。清香が最後に頼ったのは、私じゃなくて梓だったから……」
「清香はかっこつけたかったんだよ」
梓がさらりと呟いた。そちらを向くと、何かを懐かしむような優しい顔で胡桃を見ていた。
「新藤さんが憧れてくれたのが、清香は誇らしかったんだ。新藤さんにだけは、できる限り、弱い自分を見せたくなかったんだよ。あいつ、プライド高いから」
プライド高いから。
言われてすぐ、教室で凛と言い返した清香を思いだした。女子の集団に囲まれて責め立てられたとき、清香は顔色一つ変えずに己の主張を通した。無視され続けていた胡桃に声をかけたのも、今思うと、あれは理不尽な空気に対する、清香なりの反撃だったのかもしれない。
清香は常に何かと戦っていた。見えない敵。才能を奪おうとする敵。そんな清香に憧れただけの胡桃を、清香は戦いに巻き込みたくなかったのかもしれない。
「だから、無理に納得する必要もないと思う」
「自殺、の、こと?」
単語を口にするだけで、まだ喉が焼けるように痛む。胡桃のつらさを感じ取ったのか、梓は痛みを和らげるように微笑んだ。そういう類いじゃないと否定したいのに、胡桃の頬は勝手に熱くなって、鼓動が速まる。
「本当のことは誰も知らないんだ。だったら、それぞれが好きに解釈すればいい。清香が新藤さんの前で強がろうとしていたなら、できれば、騙されたままでいてやってほしい」
――あたしがあたしの意見を口にして何が悪いの?
怯むことなく言いきった清香の顔が浮かぶ。あのときの清香は、内心怖がっていたかもしれない。胡桃に声をかけたときも、ひょっとするとその前に何度も躊躇していたのかも。
それでも清香は行動した。確かに戦っていた。それ以外のことは誰も知らない。
「清香は強くあろうとしていた。きっと今も。そんなふうに思ったっていいんだよ」
――あたしは、あたしを誰にも奪わせない。
清香は見えない敵を睨みつけてそう言った。その戦いは、今も続いているのだろうか。
(私の中の清香は、強くてかっこいいままで、いいのか)
事実は限りなく黒だ。あらゆる情報が、清香が自殺だったと告げている。そんな状況でも。
清香がそう見せようとしていた、胡桃が憧れた姿のまま思い続ける。
そういう受け入れ方があってもいいのだろうか。そんなふうに思いながら、進んでみても、いいのだろうか……。
景色が変わっていく。駅の近くを通り過ぎて、次第に胡桃がよく知る街並みが見えてくる。あと数分で梓のマンションに着く。
「お願いがあるんだけど」
図々しいのを承知で、胡桃は思いきって言った。
「時間があるときだけでいいからさ。ちょっとだけ勉強、教えてよ」
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