第14話

「もう帰れないよ。また間違っちゃった。私バカだから」


 警戒を解いた胡桃の言葉に、片山はゆっくりと腰を下ろした。


「僕が割って入ったときに呼ぼうとした人のことだろう」


 ドキリとして顔を上げると、片山の目の下に皺が寄る。何か面白いものを見つけたように笑っていた。その後ろを、背の高い若い男が通り過ぎた。自然とそちらに目がいくと、片山はますます面白そうにニッと笑ってみせる。


「へぇ。モモちゃん、男ができたんだ。遊びじゃないほうの」

「……そういうんじゃない」


 馬鹿馬鹿しい。

 胡桃は怒りに任せて地面を蹴るように立ち上がった。水分をとって少し休んだおかげか、立ち眩みはしなかった。でも心が回復するわけじゃない。知らない土地に置き去りにされた子供のように、胡桃の体はピタリと動かなくなる。


「うちに来なよ」

「いや、冗談でしょ」

「いやいや、変な意味じゃなくてさ。ここまできて放っておけないでしょ。モモちゃんだって、不審者に捕まるよか、顔見知りに保護されるほうがマシって思わない?」


 怪しげな笑みを浮かべる片山が手招きする。行くあてもない胡桃にとって、確かにそれが最善策に思えた。普段なら絶対に拒否するが、変態と警官がうろつく夜の繁華街であれば話は別だ。胡桃はどちらに捕まってもアウトなのだから。


「まずはコンビニかな」


 よっこいしょ、とオッサンくさい掛け声と共に立ち上がると、片山は胡桃のスカートを盗み見た。それからショルダーバッグでスカートの汚れを隠すようにして、「バッグ持っててね」と似合わないウィンクをする。


「て、手慣れてんじゃん」


 デリカシーのない男だと決めつけていたから、自然な動きに驚いてしまう。


「こう見えて娘がいたからね。女の子の大変さは、まあ、ちょびっとわかるさ」



     *



「娘がいたって、なんで過去形なの?」


 コンビニのトイレで下着を履き替え出てきた胡桃が尋ねる。ショーツとナプキンを装備したら、ぐっしょりした不快感からやっと解放された。もちろん痛みがなくなったわけではないし、スカートもそのままだから、完璧とはいかないけどマシな環境になった。


 胡桃は右手のショルダーバッグでスカートを隠し、左手には片山のお金で買ったナプキンと、黒いビニール袋で二重に包んだ血まみれの下着を持って、恩人(仮)の脇へ移動する。

 コンビニの入口横でタバコを吸っていた片山が、火がついたままのそれを携帯灰皿に突っ込む。どこか不機嫌そうな顔に見えたから、しまった、と思ったけれど、胡桃と目が合った片山はいつもの怪しい笑みをみせた。


「離婚しちゃったからさ。ずいぶん前。編集の仕事を始めてすぐの頃だったかなぁ」

「してたんだ……結婚」


 離婚より、そもそも結婚できる人だったことに驚いた。これも失礼な気がするが、片山は気分を害した様子もなく続ける。


「まー、当時はそうせざるを得ない状況だったからねぇ。相手に子供ができてるとわかって、互いの両親に顔を何回もブン殴られてさ」

「それっていつの話?」

「僕が十六。相手はまだ十四だった」

「は……」


 そりゃ殴られるわ、と思ったが、さすがに口にするのは我慢した。昔なら若い女性向けの恋愛映画に使われそうな題材でも、父親が片山のような男では、ただただ酷い話にしかならない。

 片山がふらりと歩き出したので、胡桃もおとなしくついていく。風が吹くと、冷えた汗が一気に体温を下げた気がした。コンビニの袋とバッグの両方を右手に持ち替え、左手で鳥肌が立つ腕をさする。片山はタバコくさい体を左右にゆらゆらさせながら、胡桃の少し前を歩いた。


「なんで離婚しちゃったの」


 沈黙が怖くて聞いた。いや、本当は沈黙の恐怖より好奇心のほうが大きかった。助けてもらったせいか、この男が平気で妻と子を見捨てるように思えなくなっているのかもしれない。


「今夜のモモちゃんは、やたらセンシティブな話題に切り込んでくるねぇ」


 肩を揺らして笑いながら片山が言う。相変わらず清潔感のない頭をぼりぼり掻くと、片山はいきなり立ち止まった。その背中にぶつかる寸前、胡桃も慌てて止まる。二人とも黙ると、遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。


「怖くなっちゃったんだよねぇ」


 片山は顔半分だけ胡桃のほうを向いて言った。


「親と、相手……学校の後輩だったんだけど。その両方に、僕が十八歳になったら籍を入れる約束をしていて、その通りになった。でも、結婚した途端に親の支援はなくなるし、僕も当時の仕事が合わなくて、色々上手くいかなかった。なのに、子供はどんどん育つ」


 胡桃の後ろで、キャーッと甲高い声がした。振り返ると、派手なスーツ姿の若い男女と手を繋いだ子供が笑っていた。まだ小学生くらいだろうか。もう一度片山のほうを見たら、何かを懐かしむようにはしゃぐ子供を見ていた。


「子供の成長というか、家庭をもつことになった自分自身の環境の変化というか……そういうものに、僕の心がついていけなかった。それを彼女も感じちゃったのか、別れる少し前から、顔を合わせるたびに喧嘩ばかりしてたよ」

「自分の心が……」

「彼女は悪くないよ。愚痴ばかりぶつけて腐ってた僕に、根気強く付き合ってくれた。でも、大人になれなかったんだよねぇ、僕は。家庭をもつにふさわしくなかったのもあるけどさ。何より、家族のために変わることができなかったのさ」


 どこか寂しそうに言いながら、片山は本心が見えない不思議な笑顔をつくった。眩しいネオンに照らされた横顔が、突然老け込んだような気がした。



     *



 繁華街から少し離れたあたりで、ここからは別世界ですよ、と線を引いたように、がらりと街並みが変化した。大勢で賑わう、大きな音と光が飛び交う街とは真逆の、静かな夜だった。住宅のぽつぽつとした明かりと、その合間の街灯を頼りに、胡桃はどんどん進む片山の背中を追って歩く。位置的には胡桃の生活圏内と正反対の方向だから、ちょっとでもはぐれると、道がどう続いているのかわからなくなってしまう。

 ずいぶん夜が濃くなってきた。梓はどうしているだろう。また、胡桃のことを必死に探しているのだろうか……と考えて、そんなわけないと首を振った。


(都合のいい妄想してどうすんだよ。それとも、期待してるのか? 私)


 私は、梓に見つけてもらいたいと望んでいる……?

 ふとよぎった考えにとてつもない恐ろしさを覚えて震えた。なんで私が、梓を待っていると思ったの? 会いに来てほしいの? それに、なんの意味があるの……。


「ここだよ」


 片山が乾いた声で言った。さっき感じた暗い気持ちを追い払うように顔を上げると、胡桃の家より古そうな木造アパートがあった。外階段の明かりで、『入居者募集中』と書かれた看板がぼんやり浮かんでいる。闇の中でも汚れがわかる外観と、一部が破損した屋根、手すりが錆びついた外階段。失礼だが、ここに住んでいますと紹介したくないタイプの家だ。どこか不気味な雰囲気のアパートは、なんとなく片山のイメージとぴったりな気がした。


「僕の部屋は二階ね。なんもないけど、どーぞ」


 片山は言いながらポケットを探る。その様子を見て、胡桃は何か苦いものを飲み込んだような感覚に陥った。

 本当に、このまま片山の世話になっていいのだろうか。梓に何も言わず、勝手に別の場所に逃げてしまって。あとからなんと説明すればいい? 親だって梓と一緒にいると思っているし。胡桃が認めようと認めまいと、保護者代理は梓なのに。

 立ち止まる胡桃に気付いた片山が、鍵を握った手をポケットにつっこんだ。


「やっぱりやめとく?」

「え、や……なんで」

「気になるんでしょ、モモちゃん。さっき言ってた人のこと」


 片山は、くくっ、と意味ありげに笑いながら、蔦の這ったアパートの壁にもたれる。


「本当は迎えに来てほしかったんだ」


 からかうような声に、否定より先に怒りがこみ上げてきた。胡桃の目つきが鋭くなっても、片山は、しょせん子供の癇癪だとでもいうように口の端を吊り上げた。


「人が怒るときって、たいてい二つのパターンにわかれるんだよね。侮辱されたときと、図星をつかれたときさ。今のモモちゃんは後者だね」

「違う」

「違わないさ。ファミレスでお話したときもそう」


 浅井清香ちゃんは、さ。あの日、自分で自分を殺したのさ……。

 ファミレスで片山が言いかけた台詞が、脳内で完全なものとして再生される。


「モモちゃんは、清香ちゃんは自殺かもと疑うと同時に、できれば信じたくないから、他人に自殺と言われて腹が立った。今も、自分が素直に認められない気持ちを指摘されて、僕なんかに見透かされたような気がして、怒ってる」


 そう言われてますますムカつくのは、片山の言っていることが正しいからだろうか。だとしたら、胡桃は梓に見つけてほしかったことになる。自分から突き放したくせに、本当は寂しくて、悲しくて怒っている。どうして追いかけてくれなかったの、なんて。


(なんで、寂しいとか思うわけ!?)


 梓が来ないからなんだというのだ。あいつは初めて会ったときから変質者だ。一緒に暮らしてみれば、多少はまともな大人だったけれど、それでも、出会ってまだ一ヶ月もたっていない。よく知らない、赤の他人じゃないか。


(おまけに梓は、清香が好きだった人だ)


 清香は梓が好きだった。イトコ同士とかじゃなくて、梓を男として見ていた。親友の好きだった男に追いかけてもらえなかったことがショックだなんて、そんなの、


(まるで、私まで、梓を……)


 かっこいい清香。クールだけど、こだわりが強くてわがままで、笑顔がとっても可愛い清香。胡桃が世界で一番好きな女の子が、好きになった男の人。親友の好きな人を好きになるなんて、そんなの、裏切り以外のなにものでもないじゃないか。


(でも、裏切りって何? だって、清香はもう)


 ……この世に、いない、のに。

 清香は……自分で、死を選んだ、のに?

 ほんの一瞬でも浮かんでしまった言葉に、体がバラバラに切り刻まれたような衝撃が走った。

 ……自分で、自分を殺したのさ……。


「じっ」


 夜の住宅街だというのも忘れて、胡桃は悲鳴のような叫び声をあげた。


「自殺だったかどうかなんて、片山さんにわかるわけないじゃん!」

「わかるさ」


 胡桃の中で荒ぶる激しい感情を嘲笑うかのように、片山が淡々と答える。


「清香ちゃんはあの日、たったひとりで倒れていた。誰かと一緒にいたとか、不審人物とかの目撃証言はない。目立った外傷も着衣の乱れもなかった。探せばいくつか疑問はあっても、彼女が他殺だった可能性は極めて低い。それが警察の出した答えさ」


 暗がりから、どんよりとした片山の目が胡桃を映す。片山はもう笑ってはいなかった。急に真面目な顔になるから、胡桃のほうが間違っているのではと思えてくる。


「ご遺族には、もっとはっきりした情報がいってるかもしれないけどさ。引っ越しちゃって連絡つかないんでしょ? 大方、娘が自殺した一家って話が広まるのが嫌だったんだろうねえ。世間体を気にする家っぽかったし」

「でもっ! だったら、どうして、なの」


 怒りのままに涙が出た。また風が吹いて、今度は胡桃の内からたぎる熱を冷まそうと必死になっていた。もうそれくらいじゃ止まらない。体が燃えてるみたいに熱い。


「どうして清香は自殺しなくちゃならなかったの!」

「……さあね」


 胡桃の頭に血がのぼるほど、片山の表情は冷えきっていく。


「僕の知っている清香ちゃんは、夜な夜な男と遊び歩いて金を稼ぐ、社会的に決して褒められたものじゃない学生だ。だから、僕が考えられるのは、お堅い家庭や男絡みで精神的にまいった末の自殺、くらいだねぇ」

「違うっ。清香は奪われないって、言ってた。泥棒なんかに盗まれないって」


 女子高生というのは特別なブランドで才能だから。それを狙ってくる奴らがたくさんいるけど、自分は盗まれない。清香はとりつかれたように言っていた。

 あのときの清香の様子は壮絶というか、固い信念のようなものを感じさせた。胡桃の中で繰り返し思いだされるあの清香は、男にまいって自殺なんて言葉とはどうしても結びつかない。斎場で最後に見た両親も、普通の親と同じように悲しんでいた。娘を疎ましく思っていたなら、あんなに目を腫らして「ありがとう」なんて言わないんじゃないか。清香が何か恐れていたとしたらむしろ、もっと別の……。


「清香には誇りがあって、それを守って戦ってたんだから」

「誇りって?」

「女子高生だってこと」


 片山の冷めた表情に、ふっと笑みが浮かんだ。哀れむような笑顔にゾッとする。


「なら事実はもっと単純さ」


 壁から背を離した片山が、人ひとりの死をなんでもないことのように語る。


「清香ちゃんは恐怖に駆られて死んだ。彼女なりの誇りってやつを悪用する大人になることや、誇りそのものが失われることに怯えて、さ。より簡単に言うと、大人になりたくなくて死んだのさ」


 風が強く吹いた。街路樹がざわざわと不気味に揺れて、外階段の明かりが点滅する。

 片山の声は確信に満ちていた。なぜか片山は、一度も会ったことのない清香という少女の気持ちを一瞬で理解したように笑っていた。そんなはずないのに。どうして胡桃は何も言い返せないのか、自分でもわからずに立ち尽くす。

 胡桃が黙っている間、片山も無言で立っていた。ポケットからタバコを探すような仕草をしたあと、見つからなかったのか、何もせずそのまま手を突っ込んだ。


「……もし、それが本当だとしたら」


 荒れ狂う風の音に負けないように、胡桃は震える声を張り上げた。


「大人になるって、一体なんなの?」

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