第18話

 夜になると、梓はほぼいつも通りに戻っていた。冷えピタと経口補水液が役に立ったらしく、ソファで少し眠ったあとは普通に会話ができたし、顔色もよくなったようにみえる。それでも油断は禁物だからと、梓にはコンビニで買った温めるだけのおかゆを出す。自炊できない胡桃はカップ焼きそばを食べた。


「――ごちそうさま」

「え、完食じゃん。食欲は普通にあるんだ?」

「うん、本当に軽い熱中症だっただけだから。もう平気だし、後片付けは俺が」

「ダメだって! 今日中、いや、明日まで安静にしておかないと! 熱中症ってナメてっとマジでやばいっていうじゃん!」


 食べ終わってすぐ動き出そうとする梓を無理やり引きとめ、胡桃は笑って落ち着かせた。あ、でも、歯に青のりついてたかも……と、すぐに口を閉じて、無言でさっさと食器を洗いに向かう。急に黙り込んだ胡桃を不思議そうに見ながら、梓はそっと椅子の背にもたれかかった。


「ありがとう新藤さん。今日は本当に助かった。情けなくて申し訳ないけど、新藤さんがいてくれてよかったよ」

「っ……いや、別に。ていうか、もっと頼ってよ。せっかく一緒にいるんだから」


 泡で手がすべりそうになるのをギリギリで止めて、できるだけ平静を装う。今笑ったら、絶対気持ち悪い笑顔になる。しかも、青のりでベタベタの歯を梓に見られる。なんで焼きそばにしたんだ! せめてラーメンかうどんにすればよかった……!

 二人分の洗い物はすぐに片付いて、水を止めると、テレビもついていない部屋は途端に静かになった。エアコンが動く小さな音だけが聞こえてくる。


「あ。梓、熱まだ計ってないでしょ。体温計は?」

「いやぁ、計らなくても、もう平気だと思うけど」

「だから甘く見ちゃダメだって。おじさんは治りが遅いんだから」

「……おじさん、ですか……」


 一応、まだ二十代なんですけど……などとゴニョゴニョ言う梓を無視して、「体温計は?」と容赦なく詰め寄る。たぶん俺の部屋のどこかにあります、と小声で吐いたので、胡桃は濡れた手を拭いてさっさとリビングを出た。


(ありがとう。助かったよ。胡桃がいてくれてよかった――だってよ!)


 スキップしたい気持ちをこらえ、胡桃はまっすぐに梓の部屋へ行く。梓の発言を脳内で繰り返し再生していると、またニヤニヤが再発した。今は見られていないから、青のりなんか気にせず笑ってしまう。少々事実と異なる言い回しな気もするけれど、そんなことは些細な問題だ。


(だってこれ、初めてじゃない? 梓が私を頼るなんて)


 居候生活を始めてから、梓の世話になりっぱなしだった。衣食住すべて梓に任せきり。家賃もいらないと言われた胡桃は、本当にただのお荷物でしかなかった。

 ストーカーの件でも迷惑をかけた胡桃が――今日初めて、梓の役に立てた。梓が胡桃を必要としてくれた。些細なことかもしれないが、そんなことが今、たまらなく嬉しい。

 もっと何かしてあげたい。梓のために。


(梓には、明日もゆっくり休んでもらわないと。……そうだ。朝食作ってみようかな。目玉焼きくらいなら、私でも作れそうだし)


 梓に喜んでほしい。笑顔になってほしい。胡桃が梓を笑顔にしたい。

 ふわふわと浮かんでいるかのような不思議な気持ちを抱えたまま、梓の部屋に入る。そういえば、こうして梓の部屋を訪れるのは、最初の夜以来ではなかろうか。


 再び入った梓の部屋は、やはり異様なほど清潔だった。必要最低限の家具があるだけの殺風景な部屋。デザインやインテリアになんのこだわりもなさそうな、ただ仕事をして寝るだけの部屋、といった感じだ。胡桃が暇つぶしに遊んだスマホゲームで、理想の部屋をデザインするというゲームがあるが、それの初期状態に近い。


「……っと。体温計ね」


 デスクなどの見てわかる部分にはなさそう。あったらすぐ気付くくらい何も置かれていない。すぐ目に付くのは、パソコンとタブレット端末、スマホの充電器。ディスプレイが複数あるのは何か意味があるのだろうか。しかし、高校生に勉強を教えられるくらい頭がいいのに、本の一冊もないのはさすがに不自然に思えてくる。


(ミニマリスト、ってやつなのかな。梓って)


 それはさておき、体温計を見つけないと。ざっと部屋を見渡してもないなら、クロゼットかデスクの引き出しを探すしかない。プライバシーを侵害するようで悪いが、見つかって困るものがあるなら、そもそも胡桃の侵入を許してはないだろう。

 クロゼットの可能性は低そうだし、デスクのどこかにあるはずだ。

 まず一番大きな引き出しを開ける。クリアファイルに入れられた仕事関係の書類と、メモ帳とペンケースが入っている。体温計はナシ。次の引き出し。名刺がぎっしり詰まったケース、USBが二つ。以上。その次に開けた引き出しは空っぽだった。


 ここまで何もないと、体温計云々以前に、一体何を楽しみに生きているのかと疑問に思ってしまう。本は読まないし音楽も聴かない。スポーツをやっている様子はないし、胡桃が観ようとしなければテレビもつけない。料理は上手だが、毎日見ている側としては、強いこだわりがあるようには感じない。あくまで日常業務として片付けている感じだ。


(なんか……また、わかんなくなっちゃったな)


 少しは打ち解けたつもりでいたのは、胡桃だけだったのかもしれない。

 引き出しを力任せに元に戻そうとすると、奥で何かに引っかかった。押しても左右に揺らしても戻らない。まさか壊した? と冷や汗をかきながら、恐る恐る、空っぽの引き出しをレールの限界まで引いてみる。

 バサッ、と紙束が落ちる音がした。空の引き出しを取り外して、奥に手を突っ込む。雑に掴み取ったそれは、


「手紙?」


 いかにも、女性から貰いました、といったデザインの封筒だった。胡桃が子供の頃に流行ったキャラクターが描かれている。女といっても、小学生くらいの女の子が使いそうなレターセットだ。でも、宛名も住所も書かれていないし、切手も貼られていない。

 いけないと思いつつ、手紙に釘付けになった。これは胡桃が勝手に見ていいものじゃない。きっとすごく特別なものだ。生きるのに必要なもの以外部屋に置かない梓が、ただの手紙をわざわざ引き出しの奥にしまっているはずもない。


 怖いのに、手はあっさり動いた。もう貼りつかなくなった星のシールがついた封筒から、中身を取り出す。ドクン、と心臓がうるさく音をたてた。

 わかっている。

 誰からの手紙なら、梓がこんなに大事にとっておくのか、なんて。

 気付いているのに確かめてしまう。


『今日は、こくごとさんすうのテストで、一ばんをとりました』


 大きな拙い字が、とても誇らしそうに主張していた。

 胡桃と出会うより前の。写真は見たことない、でも自然と脳裏に浮かび上がる小さな女の子。きっとわがままで、負けず嫌いで、でも、天使みたいに愛らしいあの子。

 清香が梓に宛てた手紙だ。


 そういえば――胡桃が小学生の頃、女の子同士で手紙を送りあうのが流行った時期があった。デジタルな連絡手段が当たり前の時代だからこそ、逆にアナログなやりとりが流行した。とはいえ、いちいち切手を貼って送るのはお金がかかるし手間だから、教室で友だちに渡して、受け取った側は翌日返事を書いて渡す――という、交換日記に近い形での送りあいが主流だった。

 女子の集団行動が嫌いな清香も、幼い頃は流行りに乗っかっていたのかと思うと、ちょっと意外だ。


(……って、いうよりは、口実か。梓と会うための)


 流行りだから、の一言で大人たちを「そういうものか」と納得させて、確実に梓に会える理由をつくる。貰った梓は返事を書いて渡さなければならないから、自動的に次の約束が保障されるというわけだ。ランドセルを背負っていてもさすが、清香はしっかりしている。


(つまり、この一通で終わりのはずがない)


 再び、空の引き出しに目を向ける。幸か不幸か、今日の胡桃は冴えていた。前にドラマで見たことがある。何もなさそうな引き出しでも、底板が二重になっていて――


「……あった!」


 板を一枚とってみると、手紙が複数見つかった。さっきと同じキャラクターのものや、星空が切り取られたもの、パステルカラーの蝶が舞っているもの……。色が褪せてしまって時の流れを感じさせるけれど、曲がったり汚れたりしているものは一つもない。


『さか上がりが、おとこの子より早くまわれました』

『うんどう会のリレーは二位でした。つぎはぜったい一位になるから、らいねんは、あずさも見にきてね』


 小さな清香が、思いきり胸を張って、「褒めて」と目を輝かせているようだった。梓はどんな返事を書いたのだろう。きっと、たくさんの祝福の言葉を贈ったに違いない。忙しい両親の代わりに、頑張った清香を優しい目で見守っていたのだ。

 汚さないように、そっと引き出しの底に戻す。と、まだ手をつけていない手紙の下に、一枚の写真を見つけた。手紙と違ってむき出しでたった一枚、たくさんのカラフルなメッセージの中に、隠すように埋もれている。


 胡桃は手紙を手に取るより緊張して、そっとそれに触れた。

 夏の写真だった。海外のリゾート地で撮られたのか、見たこともない綺麗な海をバックに、清香と梓の二人が映っていた。清香はチュニックタイプの水着姿で、カメラに向かって無邪気にピースしている。可愛らしい花柄の水着を着た清香は、手紙と同じか、もう少し成長したくらいの歳にみえる。

 清香から見て右側に梓がいた。清香に押し付けられたのか、子供用の動物モチーフの浮き輪を持っている。写真の梓は胡桃とそう変わらない歳の、長袖のラッシュガード姿。今より髪が短くて、照れが混じった柔らかな微笑みには幼さを感じる。肩が触れそうなくらい近い距離で、二人は幸せそうに笑っていた。


(……見なきゃ、よかったな)


 胡桃は何を期待していたのだろう。もしかしたら、梓と自分が、とでも思っていたのか。


(ありえない、そんなの。だって)


 清香が梓を想っていたように、梓にとっても、清香はすごく大事な女の子だったのだ。梓のそれが、清香と同じだったかどうかなんて知らない。それでも、何もない部屋でこんなに大切にしまわれた手紙と写真がどういう意味を持つのか、わからないほど鈍感じゃない。


(これは罰なの?)


 清香の声を拾えなかったくせに、梓に何かを期待した。清香を救えなかったくせに、梓の中の、清香がいたはずの場所に入り込もうとした、胡桃への、罰……?


(でも、清香はもういないじゃん。いや、そうじゃなくて、だってさぁ……!)


 ――でも、何?

 写真の清香が、感情のない声で聞き返す。

 でも、なんなの? まだ言い訳するの? 胡桃が梓に何を期待しているか、あたしはちゃんとわかってるのよ。あたしには胡桃の考えがわかる。


(清香は私のことを理解してた。私のくだらない理想を押し付けられても、それを守ろうとしていた……)


 そう、あたしは必死に戦ったよ。胡桃の理想通り。でも誰にも助けてもらえなかった。あたしの叫びは誰にも届かなかった。それでも必死に戦っていたの。

 なのに、なんで胡桃が泣いてるの? 胡桃はあのとき、何もしてくれなかったじゃない。泣きたいのはあたしのほうでしょ。ひとりぼっちで、助けてって叫んでも、大好きな人に見捨てられた、あたしのほうが!


(清香の声に気付けなかった私は、罰を受けるべきなのか?)


 もともと、二人の仲に割って入る隙なんかない。

 きっとこれは罰だ。親友だと言っておきながら、なんの役にも立てなかった。

 こんな気持ちを抱いたこと自体が、胡桃への罰なのだ。


(隠さなきゃ。もっと深いところへ。誰にも見つからない深い場所に)


 写真を手紙の山に埋める。何事もなかったように板を乗せて、空っぽの引き出しに戻す。

 体温計はあっさり見つかった。ベッドシーツの白と同化していた体温計を拾って、胡桃は静かに部屋をあとにした。



     *



 目元を袖で適当に拭ってから、リビングへ戻った。変わらずエアコンの音だけが聞こえるリビングに、梓の姿はない。ソファで寝ていて死角になったのかも、と回り込んでも、やっぱり見当たらなかった。


「あずさー?」


 呼んでみると、エアコンの風でカーテンが微かに揺れた。その向こうに人影がみえる。

 梓はなぜかリビングを出て、バルコニーにいるらしかった。胡桃がカーテンを開けても気付かずに、ぼうっと遠くの景色を眺めている。


「梓、ちょっと」


 窓をノックするように軽く叩いてみる。反応なし。まだ熱っぽくて、ぼうっとしているのだろうか。だとしたら危ないんじゃないか。梓はそこそこ背が高いから、ちょっとバランスを崩しただけで、手すりを越えて落ちてしまうかもしれない。


「梓――」


 呼吸をするたび、胸が苦しくなる感じがした。なんか、駄目だ。呼ばなきゃ。ちゃんと声を届けなきゃ。胡桃がいることを気付かせないと。

 遠くを見つめる梓は、今にも消えそうなくらい儚げで、恐ろしくみえた。


「梓っ!!」


 窓をめいっぱい開け放ち、近所迷惑なんぞ知るか、と思いきり叫んだ。さすがに気付いた梓が、ギョッとした顔で振り返る。


「……あ、新藤さん」

「あ、新藤さん。じゃないよ! 病人がこんなトコで何やってんの。早く戻れ!」

「ごめん。エアコンきいてる部屋って、長くいるとボーッとしてきちゃって」

「いいから、部屋に戻れっての! ぬるい空気と虫が入ってくる!」


 急かされた梓がリビングへ入る。ごめん、と言いながら笑う梓の視線から逃げるように、胡桃はさっと踵を返した。


「……ごめんね、梓」

「え、何?」

「熱計れって言ったの。……ほらっ。で、今日はさっさと寝なよ」


 体温計を渡すと、梓は素直にその場で計りだした。まさか、胡桃が勝手に部屋をあさったなんて思っていないだろう。秘密の引き出しを開けて、梓の心を無遠慮に暴いたことも。


(勝手なことしてごめん)


 胡桃を疑いもせず、目の前で安心させるように笑う梓に、また涙がこみ上げてきそうだった。

 梓、ごめんね。

 好きになって、ごめんなさい。

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