61.或る医師のレポート・参


『メメント・モリ』


 生きとし生ける者には平等に死が訪れ、その死が今日、まさに今、やってきたとしたら如何どうだろう。人間は本心を吐露するのではないだろうか。


 一種のショック療法だ。僕は賭けた。苦境ピンチこそ千載一遇せんざいいちぐう好機チャンス


 シナリオは、こうだ。

 題名……メメント・モリ

 主演……少年Tならびに少女H

 目的……少年少女のアイデンティティの在り処を求めて


 少年Tには白いベッドに、ひたすら力無く休んでもらう。僕は、循環器内科の医師団の白い目には構わず、少女Hを連れ出して少年Tに引き合わせる。


 最期のときを演出。


 どのように展開して、どのような結末を迎えるのか、人の心のことなので分からないが、少女Hに何かを言ってほしい。自分の言葉と心を取り戻してほしい。


「忘れなさい。Hちゃんには、もっと相応ふさわしい人をお母さんが見付けてあげる」


 少女Hの母は、そう言った。娘を愛するあまり、枕辺まくらべで言った。

 少年Tと出逢い、お付き合いを重ねた日々を、黒歴史として葬ろうとも言った。


 此処ここにアノレキシアの芽を見る。少女Hは母親の決めた鋳型いがたに自己をめて生きてきたのだ。或る一定の年齢に差し掛かっても、自己を上手く確立できなかった。

 その不自由さこそ、少年Tと共鳴する要素だったわけだ。


「僕が娘さんを助けてみせます。是非、ご家族の皆様に御覧頂きたい。奇蹟きせきの起こるさまを」


 大見得を切った。シナリオの幕は切って落とされる。




 少年Tは、黒い小夜衣ねまきまとって病室の白い寝台に眠る。

 其処そこへ、少女Hをイルリガートルごと連れてくる。


 園田そのだ:僕は医師として、月彦くんののぞみを聞き入れました。もっとも医療チームは非難轟々ひなんごうごうでしたが。

 少女H:彼の……月彦くんののぞみ?

 園田:僕を縛り付けるつるのような点滴を外してほしい。生命の季節を終わってしまいたい。安楽死が認められない世の中だと分かっているけれど、せめて安楽に眠らせてほしい。

 少女H:それで先生は?

 園田:安定剤を投与しました。結果、よく眠って……幸せそうに眠っておられるのです。


 僕は確認する。

 硝子珠ガラスだった少女Hの双瞠ひとみが、確実に少年Tを映していることを。


 園田:生命の終わりの近い彼に、本当の心を伝えてあげてください。


 少女Hの腕に、あきらかな振顫しんせんが見られる。

 メメント・モリ。死を想え。今を楽しめ。

 疑似死する瀕死の黒百合を見た白百合の心が開花ひらく。


 少女H:月彦くん、助けて。私をかくまって。私をあなたの中に閉じめて。


 僕は、少女Hの輸液を外した。

 彼女は自由に動く腕を少年Tのくびに回し、抱かれた。

 黒百合と白百合が生命をかけて求め合い、愛し合う姿が其処そこに在る。


 シナリオの描く放物線を奇蹟きせきと呼ぼう。治療は大成功だ。

 ようやく少女Hの心の鍵がほどけた。同時に少年Tの自我が強固に確立する。


 少女Hを守る王子。そんな確固たる自我だ。

 彼女を守ることは自分を守ること。そう気付いて強く生きていく。


 さて、少女Hが死の床の少年Tに求めたこと。

 ①助けて

 ②匿って

 ③私をあなたの中に閉じめて

 を園田的見解から分析していこう。


 まず①の「助けて」だ。これは分かり易い。深い苦しみの沼の底から「私」を助け出してほしいのだ。はじめて彼女が「私は苦しい」と叫んだ気がした。


 あまりにも彼女は寡黙だった。良い人だった。本心を伏せるのが上手過ぎた。

 医師として手を焼いていた最中さなか、彼女が「助けて」という言葉を、少年Tの臨終の枕辺まくらべで叫んだとき、このシナリオは僕の求める結末を予感させた。


 ②の「匿って」にいては、後のカウンセリングで少女Hが、ようやく話した十代の出来事を引用しなければなるまい。


 少女Hは論理的に少女だったころ、或る羞恥を体験していた。少女とは或るイニシエーションを経て身体が女性化していくものだが、少女Hは当時、その過程がもたらす異性からの注目を快いものとして受け入れられず、しばしば痴漢に遭う我が身を恥じていた。


 これが彼女の性格だ。自己肯定感の低い、未確立な自我。

 ゆえに、割れそうな心と身体を持て余して震えている少女の姿。


 彼女は、性欲にまみれた異性の手を憎むのではなく、性欲を誘う自らの身体のまろやかさを恥じた。成熟を恥ずかしいものだと認識して、枯れゆく生命を憧憬しょうけいする。彼女の憧憬あこがれの線の上に、或るイニシエーションへのマイナス・イメージから激しく心を病ませた少年Tが乗ってくるのは、自然の軌跡と言えよう。


 ふたりは、アノレキシアの百合という、未成熟で未完全な形態に安心した。


 少女Hは、幼少時代から演じ続けている「良い娘」の殻を破れない自分に、限界を感じていた。何故なら「良い娘」で居るための精神的・身体的成熟を求められたとき、果たせなかったのだ。


 異性との付き合いを、触れ合いを、娘時代の羞恥体験に囚われ続け、心地のいものだと認識できなかったのである。彼女は、ひたすらに自分を責めた。続く自己否定の先、誰にも打ち明けられない心の八つ当たり場所として、食べものが選択される。


 少女Hは気晴らし食いをして、直後、嘔吐して気を紛らわせていた。

 少年Tは気晴らし食いに走ることなく、完全な浄化型アノレキシアを約八年、続けてきた。


 ふたりには「匿いたい自己」が在り、社会生活を営んでいく上で「匿い切れない自己」をおおうライナスの毛布が必要だった。此処ここに、匿い匿われる愛情が成立するのである。


 つまり、少女Hの「匿って」には、少年Tを「愛していたい・愛されていたい」という欲望と、社会的な体面を繕おうとする欲望が隠されている。


 自分独りで立っているには心許こころもとの無い世界で「が居る女」というアピールをして、不特定多数の目をあざむき、自我を支えなければならなかった。もっとも彼女には「欲望」や「アピール」というワードは似合わない。だから「希望」と、以降、そう表現しよう。


 そういうわけで、③の「私をあなたの中に閉じめて」は道理だろう。

 これは少女Hの希望である。少年Tの中に閉じ籠められるように愛されたい。


 少女Hは愛されて育った。少年Tもしかり。

 大きな事故や虐待に遭っただとか、家族や恋人と死別しただとか、そのような決定的喪失体験の無い一見、恵まれたこどもたち。


 彼らをじわじわと追い詰めたのは、と言う、何とも漠然と手応えのうすいものであったが、目に見えない不特定多数に迎合できないというのは生きづらく、生への恐怖を呼び起こすのであろう。


 だから、少年少女は寄り添っていた。この生きづらい世の片隅で、ひそやかに咲いていた。しかしながら、園田の提唱したシナリオ『瀕死の黒百合』を演じ切った彼らの行く末、飛び立っていく鳥の姿が見える。


 彼らは、同じ濃度の栄養を充たした卵の中で、互いが親鳥に成り雛鳥ひなどりに成り、殻を破って羽ばたいたかに思われる。時々は失調して、また殻の中にかえるのかもしれない。それでもいい。


 回帰と旅立ちを繰り返すごとに、強く結ばれるであろう『アノレキシアの百合』の物語は、未だ序章を迎えたばかりと言えるだろう。


                 ―終-

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