60.或る医師のレポート・弐


 二千十五年の春


 希望の季節。三月から六月。

 少年Tは相変わらずアノレキシアだった。

 出逢ったころの反抗心は何処へやら。

 季節風に反抗期を持ち去られたかのようである。

 だが、積乱雲が再び反抗期を運ぶのである。


 思い返せば、この時期は嵐の前の静けさ。

 彼女と同棲して愛を羽包はぐくむ少年Tの状態は「なぎ」だった。




 二千十五年七月


 リストカットの衝動を抑え切れなくなった少年Tが、台所の料理用包丁で手頸てくびを切った。聖ラファエル医科大学付属病院に救急搬送。受け持ちの患者のリストカットだ。この事例には慣れない。慣れてはいけない。僕は頭を抱える。


 共に救急車に乗ってきたのは、ふたりの女性。

 ひとりは少年Tの母親。もうひとりは誰だろう。

 母親にたずねたところ、少年Tの彼女であると判明。


 彼女は献身的だった。一晩、入院することになった少年Tの枕辺まくらべに寄り添い続けたのは、母親ではなく彼女。その健気けなげさは、取り乱れていた少年Tの心を正常な位置へ導く力を持ち、ふたりは翌朝、帰宅した。僕は、その様子を見守った。




 二千十五年八月


 少年Tは夏風邪をひき、重症化させた。

 栄養状態の悪さが免疫力の均衡を崩し、心を不安定にさせるのだ。


「入院するぐらいなら死んだほうがいい。殺せ」と言ってみたり、

「先生、僕、愛する彼女に言葉のナイフを刺しちゃったんだ。嫌われたら、どうしよう。もう生きていけない。捨てられるのかな」と泣いてみたり。


 人格が攻撃的凶暴と柔和的消極をループ。猛暑だ。ただでさえ脱水を招く中、しくしくと泣くので、ますます脱水である。医師として僕は毎日、点滴をつなぎに行く日々。七日間の在宅治療の末、夏風邪をやわらげる。


 この期間、少年Tの彼女がふすまの隙間から不安気に様子をうかがっている様子は小動物であった。彼女は先月、少年Tが救急搬送された夜よりも、小さく細く僕の目に映った。




 二千十五年九月


『彼女を傷付けたくないのなら、まずキミが、自分を傷付けるのをめよう。こういう遊びは二度三度と繰り返しては、いけないんだよ』


 患者を諭すのは嫌いだけれど、繰り返す自傷の果てに少年Tが生命を落としかねない状況を危ぶんで、強く言った。少年Tは、やけに素直に頷いた。


 一日三回のトフィソパムを処方どおりに飲んでいなかったことが判明。今後は、きちんと飲むように伝える。違う種類の眠りぐすりが欲しいと言うので、一週間分をまとめて飲んでも死に至る危険性の極めて低い、ベンゾジアゼピン系の入眠剤を追加処方した。




 二千十五年十月


 少年Tの病院通いに付き添う彼女に、カウンセリングを勧めるも断られる。

 短期間で劇的にせた彼女。その状態が気掛かりでならない。

 幼児こどものようなフォルムの膨らんだ洋装をまとっているというのに、細さが際立つ。


 少年少女はアノレキシアに共依存する運命なのであろうか。




 二千十五年十一月


 遂に、彼女がカウンセリングを了承した。

 既に、栄養失調が招く合併症が懸念されるレベルにまでせていた。

 血液検査を実施。彼女は黙って応じる。


 少年Tから聞かされていた自慢話ではなく情報を統合すると、彼女は二十五歳の女性で某ドラッグストアの店員。OTC医薬品を販売する資格を持つ医療従事者である。しかし、そんなことを自分の口で話すことは無く、僕を遮断していた。


 せて大きさが際立つ両目を落ち着かなげに彷徨さまよわせ、背後で医療カートの走る音や時計の音が鳴ると、びくっと身体を震わせて誰も居ない後ろの空間をうかがう。感覚過敏に陥っているらしい。小動物の如くだ。


 この時期、僕はカウンセリングで彼女を追い詰めてしまった。

 来月の予約に彼女は現れない。そんな予感がした。




 二千十五年十二月


 案の定、彼女は現れなかった。少年Tは予約を守り続ける。


「先生、どうしよう? 彼女が連れ去られちゃった。僕が新しいドレスを仕入れて帰宅したら、居なくなっていたんだ。母が言うには、実家に連れ戻されたらしい」


 彼女が帰ったところは、実家の管理下だった。灯台もと暗し。少年Tの彼女は当病院の循環器内科に入院していた。


 既に彼女を危険な状態と認識した内科のチームが、高カロリー輸液療法を開始しているらしい。僕は完全に出遅れた。


 胸が痛んだ。一般的に、鎖骨の下で心臓へつながる丈夫な血管をつかまえて機械を埋め込み、強制的にカロリーを流し込んで生かせるのが高カロリー輸液である。彼女の淡い胸が切り裂かれているのを知らないで過ごしていたなんて、少年Tが知ったら、どれほど動揺するだろう。またもや僕は無力さを痛感する。先月先々月の時点で何とかできなかったのか。


 やきもきと気を揉んでいた僕は、彼女の腕に輸液が繋がれているのを見て、ほっとしたのも束の間、その双眼ふたまなこ硝子珠ガラス花唇くちびるは形の良いだけのオブジェと化している現状を突きつけられた。かたわらで看病する母親が嘆く。


「目は何も見ようとしない。口は何も食べようとも話そうともしない。娘は御人形にんぎょうに成ってしまいました。こんなことなら手離すんじゃなかった」


 循環器内科医は淡々と語る。


「脆い血管が、いつまで耐えきれるのか……正直、長くありません。遅かれ早かれ、末梢ではなく中心静脈栄養に切り替える必要があるでしょう」


 僕の怖れている処置が、近々、執り行われようとしている。

 こういうときに少年Tは、カウンセリングの場で、いっそう饒舌じょうぜつになる。


「僕のせいだと思われているんだ。Hさんの親御さんにね、僕と付き合ったから、こんな病気になったんだって思われて、にらまれているんだ。先生、Hさんを助けて。彼女が死んだら僕も死ぬ」


 今から少年Tの彼女をと呼ぶことにしよう。


『では、キミに協力を願いたい』


 少年T主演・少女H救済計画が、幕を開ける。

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