25.アノレキシアの百合が交わる


 人生にリセットが効くならば、

 あなたと出逢う前の私へ、

 すべてをリセットしたいものです。


 月彦つきひこくん。

 あなたへの想いが、こんなにも狂おしくなることを、

 出逢ったころに誰が予測できたでしょう。


 私たちは自律神経失調症で、交感神経と副交感神経がゼロヒャクを激しく行きつ戻りつする不快感にさいなまれながらも、決して互いを憎み合うことなく、徹底した優しさときよらかのもとに寄り添い続けましたね。


 お店に遊びに来てくれたこと、本当に嬉しかったのです。

 店員の私に、口紅とマニキュアを予約した、あなた。

 そのころの深入りしない関係性から、どれだけ深化したでしょう。


 あなたからもらった沢山たくさんの思いやりを花束にして、私の心に飾っています。


日芽子ひめこさん」


 呼ぶ声が聴こえます。許されるなら、もう一度、あなたの横に咲く花に成り、あなたの牙に咽喉許のどもとみ切られたいものですね。


 心と身体の行き場所を失ったかのような私をたすけて……。




 見慣れぬ天井が見えます。

 私は、跡絶とだえた意識を取り戻しました。


「良かった。あと一分、目醒めるのが遅かったら、先輩が救急車を呼んでいたよ」

「……此処ここは?」

「先輩の楽屋だよ」


 端末を手にしたチェルシー先輩が、明る過ぎる照明のもと、私を俯瞰ふかんしておりました。蛍光灯とは何故に、これほど不必要に明るいのでしょう。蝋燭ろうそくの揺れる暗闇の部屋へ、帰りたいと思いました。


「無理をして起き上がっちゃ駄目よ。眠っておいでなさい」


 久し振りに乗った地下鉄に、神経を揺さ振られたもようです。


まぶしい」


 思わずつぶやきました。


「いつも暗い部屋に居るものね。先輩、電気を消してくれない?」


 月彦が先輩に頼みました。

 部屋の照明は落とされ、天井はブラック・コーヒーのような色に変わり、其処そこに渦を巻くミルク色の螺旋。私はカフェ・ラテ色の眩暈めまいに襲われています。


 夏に此処ここを訪れた際、月彦はブラック・コーヒー色のコーディネートで、私はストロベリー・ミルクティー色でした。あの日は私が月彦を介抱しておりましたのに、まさかの逆転劇。いつから繊弱かよわくなってしまったのでしょう。


 こんなはずではありませんでした。

 仕事を持ち、推売コンクールで一位に成るほど頑張っていたのです。

 それは、ストイックな自己を履き違えた結果でしたか。


 闇の中に伝う涙が見えたのでしょう。

 月彦は姫袖ひめそでのブラウスの端で、私の涙を拭きました。


「じゃあ、出番だから行くけれど、本当の本当に、お医者さんを呼ばなくても大丈夫?」

「大丈夫さ。こういうとき、どうすればいいのか分かっているから」


 聴覚に扉の閉まる音。私と月彦は取り残されて、ふたりきり。

 眩暈めまいは幾分、治まりを見せます。植物の茎のように細い月彦のくびに、両手をかけて起き上がりました。


「日芽子さんが僕にしてくれたこと」


 月彦は闇に慣れた瞳で器用にトフィソパムの殻をき、私に飲ませました。

 お母様が持たせてくださったローズティーで、白い錠剤を呑み干します。


「疑問だった。やけに安定剤が早く減るんだ。横取りされていたなんてね。日芽子さん、医療従事者なのに、お茶目な薬事法違反をやってのけるんだから驚くよ」


 仕方なかったのです。

 熱心に私の帰りを待つ月彦。休日は飽きもせず、べったりとくっついて自由を与えず、診療所に行く時間の隙間さえ持たせてくれなかったのですもの。


 私は当時の束縛を怒っていません。

 心地好ここちよい思い出。

 そう認識して、いとおしいのです。


 私は月彦につながれていたい。

 それは調された獣の心理ですか。


「月彦くん、私を捨てないでください」


 今や救いを求めて、すがりつくのは私です。

 世話を看ていたはずの王子に世話を焼かれる私。


「捨てるものか。大好きだよ、日芽子さん」


 私たちは、互いを求めました。

 不完全な自分が完全に成るピースではなく、不完全を保持するための、不完全な形態を崩さずにいられる欠片かけらを求めて抱き合います。綺麗なコスプレ衣装を着たままで、それらを脱がせ合うこともなく、ダブルベッドに並んでおりました。


「先輩の楽屋は豪華ね」


 楽屋にダブルベッドが設置されているなんて妙な話です。

 此処ここは本当にチェルシー先輩の楽屋でしょうか。

 ロココ調の家具が並び、壁面にはルノアール風の人物画。

 薬品壜やくひんびん彷彿ほうふつとさせる一輪挿しには、白百合が飾られていました。


「この会場ならではのスイートな楽屋だってさ。先輩、コレクション終了後にシャワーして、うちあげ終了後は即、熟睡したいらしい。飲酒運転に厳しい御時世、酒気が抜けるまで眠るために、奮発したんじゃないかな」


 私たちは、うちあげ付きのオータム・コレクションに招かれていたのです。

 ショーは既に開演しているでしょうか。会場の音は、まったく聴こえません。


「月彦くん、先輩の晴れの舞台、観に行ったら? 私なら大丈夫よ」


 ひとりで待っているから。そう言う私の唇を唇で塞ぐ月彦の顔は、間近で見ると、その肌理きめの細かさと静脈を透かせる蒼白あおじろさが、一織りのヴェールを被せた淡水色みずいろの花のようで、あの一輪差しに活けられた孤高の白百合にも似て、涙が出るほど綺麗なのでした。


「こういうことをするのはイヤ?」


 そうじゃない。イヤじゃない。

 私たちは深く愛し合ったとて、何をも生まない生命体。

 女の子同士。永遠の少女コドモ。美しく咲く白百合なのです。


 栄養失調の百合たちは、その細い身体を抱き合わせることで神経を安定させ、お互いの心の水となり肥料となり、つつがなく愛を通わせるのです。

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