23.日芽子の秘密


 十月なかば、チェルシー先輩主催のオータム・コレクションに参戦するため、月彦つきひこと私は、十四時が過ぎても布団の上でゴロゴロとしていました。


 アノレキシアは体力が続かない。月彦は、そう解釈しています。


「担当医は言うんだ。僕を車にたとえると、どんなに良いガソリンを入れても走れない車だ。十七歳から長年、省エネ大賞を受賞しているような身体だからさ、大量のガソリンを入れると爆発するだろう。ごく少量のガソリンしか運用できなくなっている」


 確かに、月彦が定形外の大きさの熱量を取り入れてしまったら、自律神経系もホルモン系も驚いて、心身を爆発的に病ませるでしょう。


「でも、日芽子ひめこさんは違う。僕とは違う体質だ。もっと沢山たくさん、食べたほうがいい。こんなことを言って御免ゴメン。日芽子さんには普通に食べてほしいんだ。そうすると、僕は安心だ。日芽子さんは肥らないのだから。燃費が良い車なのだから、きっと」


 せやすく肥りにくい。

 痩せ礼讃らいさん社会で九十八パーセント羨望される体質の私には、秘密がありました。


 月彦と同じ。

 熱量が定形外で入ってくると、吸収できないのです。

 あっさりと戻すことができるのです。

 たいした苦労も無く戻せる体質に、こどものころから気付いていました。




 学習机が並んでいた部屋で、妹の七菜子ななこは、ローラーチェアを部屋の端から端まで滑らせて遊んでおりました。


「お姉ちゃんも、やってみなよ」


 七菜子に促されて真似をしたところ、とても気分が悪くなり、洗面所に駆け込んで嘔吐してしまったのです。


 家族でデパートに出掛けた際に乗るエレベーターも嘔吐の種でした。どうやら気圧の急激な変化に耐えられない体質らしく、いつもひとり階段を愛用しておりました。

 遊園地など地獄絵図。嘔吐の種が勢揃せいぞろい。コーヒーカップも回転木馬も、とにかく回転するものは、すべて自律神経をいたずらに揺さぶりました。


 もう何処にも出掛けたくなくて、部屋に閉じもっていたいと願う少女。妹は社交的で明るいのに、姉ときたら自閉的で暗いのです。体質が改善することは無く、行く先々で失調しては絶望していました。


 原因が自律神経であると分かったのは、二十二歳の春。

 就職活動が実を結ばず、とりあえずのアルバイト先のドラッグストアにて資格を取ることを勧められ、そのテキストで自律神経の二重拮抗支配にじゅうきっこうしはいを知ったのです。

 これをもっと早くに知っていれば私は、もう少し希望ある学生生活を謳歌できていたのではないでしょうか。


 人間の体内に神経のシーソーがあります。テキストでは、交感神経、副交感神経と表現されています。緊張時の戦闘モードが交感神経くん優位で、リラックス時の休息モードが副交感神経ちゃん優位。シーソーですから、ふたつが同時に上がることはありません。


 通常は朝に交感神経が目覚め、日中は交感神経優位で仕事や学業に勤しみ、夜半は副交感神経の支配で眠りに就きます。このシーソーの上がり下がりがスムーズではない、例外的な体質が一定数、存在するのです。

 虚弱で疲れやすいと悩んでいるのに、検査をしても問題無しな人々。そんな人々の不定愁訴の根源こそ、自律神経失調症であるかしら。思い至ります。


「私の自律神経は、失調しているのではないでしょうか」


 内科を受診して、自ら提唱しました。

 一日、起きていることが拷問ごうもんだったのです。


 アルバイトを始めた当初は、九時から十六時のシフトに週四日で入っておりましたが、朝の目覚めは悪く、昼食後は気分が悪く、下手をすれば、お昼に食べたものを簡単に吐いてしまいます。夜は目が冴えて眠れません。眠れないまま朝が来て、負のスパイラルにむしばまれ、神経をほとほと疲れさせておりましたので、見兼ねた店長が中番なかばんというシフトを作ってくださったのでしょう。


 中番で週四日の勤務。内科で処方された自律神経調整薬のトフィソパムが功を奏し、私は元気に成りました。活き活きと店番を楽しむことができました。

 そのうち、トフィソパムが切れても元気で居ることができて幸せでしたのに、自律神経とは残酷です。


 月彦に出逢ったころから、中堅の私への職務上の責任が倍加して、その重みから軽くなることをのぞむかのように、簡単に吐いてしまう体質に戻りました。食べても肥らないのは、そのせいです。


 月彦と同棲を始めてからは、必要以上に食べないように心掛け、吐き戻す材料の生じない胃を暗中模索あんちゅうもさく。しばしば、月彦の常備薬のトフィソパムを横領して胃の痙攣けいれん的不快感を紛らわし、今は吐いてしまうのが怖くて、余計に食べられないのです。


 私はアノレキシアではなく、自律神経が乱れがちな虚弱体質の典型。そう思い込んでおりました。しかし、神経の失調と拒食には関連性があると、月彦が気付かせてくれるのです。


「僕は十四歳から起立性調節障害だったんだ。自律神経が不安定で朝、起きられない。腹痛が酷くて簡単に嘔吐できるのさ。今も、そうだよ。おかしいね。思春期の病気なのに、二十五歳に成っても治らないなんてさ」


 月彦には永遠の十四歳が似合います。

 彼と同いどしに戻って生きたい。

 そんな願いを持つあたり、私は青いですね。笑ってしまいます。

 しかし、今夜ばかりは空元気カラげんきでもいいので、元気を出していきたいものです。


「低血糖で倒れると、チェルシー先輩に笑われる」


 月彦はキッチンの砂糖壺から黒砂糖の欠片かけらを拝借して、ラップに包みました。お母様が、レタスとトマトのサンドイッチと、ローズティーの香る水筒を持たせてくれます。まるで遠足です。


「いけない。日芽子さんと話していると、時間の感覚が分からなくなるね。めかし込もう。とっておきの衣裳、そろえたんだよ」

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