22.十月の堕落は甘美


 朝十時に起床して仕事に行かなくてもよくなった私は、月彦つきひこのバイオリズムに同調して生きていました。


 正午ひるに目覚め、出勤日は支度をして、二時間の時給を稼ぎます。この二時間のリハビリ出勤中、月彦は気の向くまま、お散歩をします。


 月彦は私を店舗まで送り、定時に迎えに来てくれます。店の中に彼が入ることはなく、従業員専用の裏口近くで、こっそり待っていました。たいして重くない荷物を持ってくれます。通学で混み合う電車内でまもってくれます。完璧な王子でした。




 仕事の無い日は、ふたりでお散歩をしました。

 やはり、図書館と公園に静寂しじまを求めます。静寂は宝です。


 夏の日の風鈴が耳障りだった私は、エスカレートするばかりの聴覚過敏がつらく、月彦に付き添われて耳鼻科を受診していました。

 おそらく、という前提で専門医は語ります。


「短期間で急激にせた場合に顕著です。耳の管の脂肪を根こそぎ落としてしまった結果。しいて言えば、肥ることで緩和できるかもしれない。あなたは痩せ過ぎているのです。一刻も早く内科へ」


 内科を受診するよう、強く勧められました。


「残酷だ。肥ったら緩和できるかもしれないって、おまじないレベルじゃないか。日芽子さん、大丈夫?」

「病院のアナウンスも、待合室のテレビの音も、うるさすぎるわ。こうして話していると、自分の声さえ煩いの。脳と言う針山に、待ち針を続けざま、打たれているみたい」


 難聴を患い、次第しだいに耳が聴こえなくなったベートーヴェンの苦悩を思えば、聴こえ過ぎるなんて贅沢な悩みだと思うのですが、何気ない生活の音が針となって刺さってくるのです。外れない針です。不快を張り付ける針。


 月彦が耳栓を買ってくれました。

 耳の不調から私は寡黙になり、月彦の部屋の布団の上で過ごすことが多くなります。




 秋でした。食欲の秋。実りの秋。枯葉の季節。

 私の体重は三十二キロしか、ありませんでした。


 いつのまに痩せたのでしょう。気紛れに月彦愛用のデジタル体重計に乗ってみましたら、三十二キロだったのです。百五十センチで三十二キロ。レジに立つなと言われるはずですね。月彦の担当医の不安もあおるでしょう。


 月彦は三十七キロというベスト体重をキープしています。

 彼自身の告白によると、少女が何をしても肥ると言われる十七歳、性が成熟する時期には四十七キロだったそうです。百七十センチで四十七キロ、Dカップ。

 理想的な体型に思われますが、月彦は、ひたすらに恥じていた様子。男性受けする女性的な身体を恥じて、幼少時代からの女性性の嫌悪が一点に凝縮。アノレキシアを発症後、体重を十キロ減少させて低血糖を招き、病院の個室で二十歳の晴れの日を迎えたとのこと。


 散々だったと笑いながらも、そのころの体重をキープしている月彦は、病識の無いアノレキシアではなく、アノレキシアのプロフェッショナルでした。


 私は彼を見くびっていたのです。自らのアイデンティティとしてアノレキシアを選んだ彼の心の深さを、浅く見積もっていたのですから。


 私は浅はかです。中途半端な拒食症患者です。

 そうして病識を持てたことから、第一歩が始まるのでしょう。




 十月、月彦の先輩から招待状が届きました。

 いまどき、郵送で届いたのが新鮮です。


『あなたにもジュ・テーム❤オータム・コレクションへの御招待!

 月彦ちゃん、元気してる? あなたの心の恋人・チェルシーよ。

 低血糖で倒れるなんて莫迦バカなことになっていないでしょうね。

 ポケットにはミネラルたっぷりの黒砂糖持参で、おいでなさいまし。

 なんて冗談だけど、ちょっと本気よ。

 脳の栄養はブドウ糖なのだから、病院送りにならない生き方して頂戴ちょうだい

 さてさて今年も開催よ。

 オータム・コレクションという名のライヴ兼ファッションショー。

 思い切り着飾っていらっしゃいな。

 お姫様と、うまくいっている? 

 うまくいっているなら、ふたりで是非いらっしゃい。

 今度こそ、うちあげまで参加してね。

 待っているワ』


日芽子ひめこさん、一緒に、このイベントに行こうよ」


 アノレキシアな私たちは、月彦の先輩が主催する、うちあげ付きのイベントに参戦しようとしています。何事も経験。


「日芽子さんの公休日が増えて良かった。たっぷり眠って、体力を充電して、ベストコンディションで参戦しよう。きっと楽しいに違いない。ドレス・コードは無いんだけど、ハロウィンが近いから仮装しよう。僕は吸血鬼。日芽子さんは何に成りたい?」

「私は、月彦くんに血を吸われる少女に成りたい」

「了解」


 今回の招待状で知りました。

 月彦の人生の恩師であり先輩。

 その人の名は「チェルシー」だったのです。

「チェルシー先輩」と呼ぶことに致しましょう。

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