21.アノレキシアの百合たち


せを讃美さんびする社会的背景

 古くは十七世紀から報告されていて、日本では千九百七十年代の高度経済成長に伴い、患者数が増加。痩せることが美徳の時代へと突入した。

 過剰なメタボリック・シンドロームへの警鐘、痩せているほうが健康というマスメディアのあおり。

 社会的プレッシャーにさいなまれ易い現代社会の中で働く人は要注意。

 痩せて自己管理することにより、企業でバリバリ働けていると思いがちだ。

 それはストイックの履き違え』


 何と言うことでしょう。ストイックの履き違え。

 私のことではないでしょうか。

 私という人間は、病識が無い真のアノレキシアだったのですか。


 読み進めるのが怖くて目を閉じました。しかし、月彦つきひこは電子書籍の朗読と同じトーンで、甘い幻想小説を読むように医学書を物語るのです。


『自我同一性を巡る問題の中で、受験のストレス、対人関係の悩み、挫折体験、喪失体験など、さまざまな悩みを処理する手段として食べものを使い易いのは若い女性だ。彼女らは、まず社会が望んでいる身体を得て、社会的に認められなければと考える。自分をダイエットでコントロールしているという安心感を求め、拒食に陥る』


櫻井さくらいさんは得よね」


 瑞月みづき先輩は言いました。


「そういうスタイルだから、健食の推売に有利なのよ」


 百五十センチ四十キロの私に言いました。


 実際に有利であったことを否めません。春のコンクールで店舗は報奨金をもらい、私は貢献度第一位を獲得。三千円の商品券を手にしました。


 それは、社会が望んでいる身体を得た結果。

 社会的に認められなければと考え、自分をダイエットでコントロールした結果だったのかもしれません。


『回復の兆候

 ①自己主張

 ②社会への関心

 ③一時的な鬱状態

 ④体重の増加

 ⑤精神的充実(自己実現)


「⑤は日芽子ひめこさんが与えてくれるものだ。④は怖い。③は納得だ。②と①はね、日芽子さんと出逢って芽生えた兆候だよ。僕は日芽子さんに回復の兆しをもらっている。ありがとう」


 うっすらと目を開けます。

 月彦は『原因』を読み飛ばして『回復』に至っていました。


「どうして『原因』を読まないの?」

「そんなの十人十色じゅうにんといろだから読まない。何人もの医者やカウンセラーと対話した。対話するほどに、くだらないところに結論づけられるのさ」


『回復過程にけるタブー

 ①励まさない

 ②焦らない

 ③強制しない

 ※具体的に、頑張れ、早く治れ、治ったね、命令口調はNG』


「そうか。じゃあ僕たちは、今のままでいいんだね。ありのままの姿を頑張って治す必要ないんだ。気楽になった」


 実際にアノレキシアを、病気ではなく生き方として肯定するムーヴメントがあるのです。身を粉にするのも棒にするのも自己責任。あなた自身の生き方です。その生き方を第三者が、どうこう言うのは愚かだと。


 今の私から見ると、月彦は立派なプロ・アノレキシアです。

 患者ではなく、人格として彼そのものとしてアノレキシアは其処そこに在り、私の心を、何故か女性性に抵抗する私の心を救うのです。


 私たちは出逢うべくして出逢った。

 分かり合うため? お互いを治すため? 頑張るため?

 いいえ、ただ心地好ここちよく生きるために出逢ったのです。




「ねぇ、月彦くんが女性性を嫌悪したのは、いつから?」


 お母様の手作りの低カロリー御膳を、月彦の布団の上で一緒に食べながら問いました。


「物心がついたときから。とにかく許せなかったんだ。ひらっとしたスカートも、お姫様みたいな部屋も、膨らんでいく胸も、すべてが腹立たしい。あっ、日芽子さんのロリータ・ファッションは大好きだよ。でも、どうして、そう思うんだろう」


 月彦はロリータ限定ギグのドレス・コードとして、私にストロベリー・ミルクティーのコーディネートを施した後も、労を惜しまずリサイクルショップに通い詰めて、幼子おさなごのようなドレスを次々と買いました。


 それらは、ミルク、ジェーンマープル、シャーリーテンプル、メタモルフォーゼ、ベイビー・ザ・スターズ・シャイン・ブライトなど、一世を風靡ふうびした一流メゾンの中古品です。


 現在は生産されていない、過去にとざされたデザインの洋服。

 過去に存在しる少女の記憶。


「分かった! の服じゃなくて、の服だから。そうだよね」


 

 月彦が私をそのように評価してくれたことに、どれだけ自我を救われたでしょう。私は生まれ持った性を嫌悪しておりません。しかし、成熟した女性性というものを、自分のものとして受容することが、何故か困難なのです。

 女性という絶対的に逃れられない枠。其処そこに属さなくてはいけない事実に、言いようのない吐き気をもよおすほどです。


「女らしい」は私をけなす言葉です。

「女性らしい」も同じく。

 しかしながら、男性に成りたいと思うことはありません。

「少女っぽい」は私を褒める言葉です。

「女の子っぽい」も同じく。


 私は、何者なのでしょう。


「日芽子さんは、女性っぽいと言うより少女っぽいんだよね。だから好き。もし、日芽子さんがDカップだったら、どうする?」

「……月彦くんと同じことをすると思うわ」


 胸の脂肪をカッターナイフで削りたいと願うでしょうね。

 彼の残念な履歴は、私の内部にインプットされていた履歴であり本能。

 私は成長期に、まったく胸が育たなかったAカップの悲劇を幸福劇と感じる、一風変わった価値観を持つ人間です。


せると胸も小さくなるんだ。女性性の象徴シンボルとして開いている胸を小さくしたかった。僕の拒食の原点は其処そこなんじゃないかと思う」


 冷静に分析している月彦が居ました。


「いいなぁ、日芽子さんの胸、ほとんど無くて本当に素敵」


 一緒に入浴するたびに、月彦は褒めました。

 月彦の、今でこそしぼんだ胸は、元来Dカップだったそうです。


「発狂するかと思った。日増しに膨らむのさ。牛のようだ。アノレキシアの反対語でブリミアという言葉がある。拒食に対して過食。ブリミアは牛のように食べるという意味。僕は自分の胸が牛のようだと思っていた。拒食を長く続けていると、本能が過食を導くんだけど、僕は牛のような胸を思い出し、本能を封じ込めて生きることに成功している。医師せんせいも驚いていたよ。絶対、或る時点で過食症ブリミアに転換するのに、僕のカルテは永遠に拒食症アノレキシアのままなのさ」


 ゆえに永遠に華開はなひらかない。永久の百合のつぼみである。


 不完全で、不健全で、不健康で、未完成で、痛々しい。だから、いとおしい。


「月彦くんは、アノレキシアのホメオスタシスを持っているのだわ」

「ホメ……それって何?」

身体恒常性しんたいこうじょうせい

「そうか。僕の身体は恒常的なアノレキシア。その状態でしか生きられない。でもね、今日は低カロリー御膳を完食したよ」

「私も。お母様の作るごはんは美味おいしいね」

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