13.禁じられた、お遊び


「ねぇ、日芽子ひめこさん。お願いがあるんだ。真っ赤なエナメルを買ってきて」


 回復の兆しが遠ざかります。訪れた心のリバウンド。


 月彦つきひこが何をしようとしているのか、そこはかとなく悟ります。

 今夜、私はエナメルの匂いのする青い、果てし無く青い「お遊び」に興じなければいけません。


 彼は周期的に失調しました。その失調を誰かに八つ当たりするでもなく、ビルの最上階から落下するでもなく、特急列車に華麗にねられるでもなく、とにかく他人様ひとさまに迷惑をかけない方法でかくまうのです。


 自殺ごっこ。


 何という物騒ぶっそうな響きでしょう。これは、ごっこゆえ、遊戯です。

 そろそろ疑似死を重ねなければ心を保っていけない。

 そう感じた彼が願うのです。

 破滅的志向の「お遊び」を。


 ひとつめにリスカごっこ。

 今夜、まさに展開されようとしています。

 敷布しきふの上に並べる材料は、銀色のペーパーナイフ、血に見立てた赤いエナメル、落とすためのリムーバー。オプションで消毒薬と繃帯ほうたいです。

 実際に静脈を切るような無謀ことには至りません。静脈を切る振りをして、腕の内側にエナメルの付いたペーパーナイフを当てて、赤い線を引いて遊ぶのです。

 何が楽しいのか、よく分かりませんが、私は看護師よろしく固まったエナメルをリムーバーで落とし、彼の希望とあらば消毒をして繃帯を巻くのです。


 ふたつめに睡眠薬ごっこ。

 壜詰びんづめの真っ白な錠剤。その正体は駄菓子屋で仕入れたラムネです。

 仰々ぎょうぎょうしく薬品壜ボトルに収納して睡眠薬に見立て、大量の水でラムネを咽喉のどに流し込むという未熟な遊び。

 ラムネを呑み込んだ直後、月彦は思い切り嘔吐します。これはアノレキシアの身体にはリスキー。ラムネは案外、高カロリーです。吐き切れない微量のカロリーが体内に貯留することと、嘔吐に使うエネルギーに疲れ果ててしまうことから、しばらく遠退いている遊戯です。


 みっつめにダブル・プラトニック・スゥイサイドごっこ。

 もっとも健全です。文豪・芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけの遺稿『或阿呆あるあほう一生いっしょう』をふたりで朗読して、私たちが不思議に落ち着くのを感じつつ、適量のトランキライザーで眠りましょうという試みです。

 あなたの不快な領域には指一本、触れません。綱渡りの精神こころを宿す文學ブンガクが好きです。月彦が、現実世界で充たすことを禁じられた願望を朗読するとき、私はきよらかな気持ちを味わい、彼と心中を果たしたようなカタルシスをおぼえるのです。


 毎回、みっつめのお遊びを希望してくれたら低予算なのですが、よりにもよって高予算で異臭を伴う「お遊び」を選ぶ彼。

 心のゲージは不安定に大きく振れている様子です。


「月彦くん、必ず真っ赤なエナメルを買ってくるから、待っていてね。外は雨だし、今日は、お散歩もめたほうがいいわ」

「うん、そうするよ。日芽子さん、定時に帰ってきてね」

「定時に帰る。約束」


 私はアルバイトの身です。

 残業など発生する道理が無いとたかくくって、口走りました。

 約束と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る