9.女の子というアイデンティティ


 カーテンはとざされ、六角柱の小部屋に固く寄り添った私たち。

 心の琴線に触れる内緒話、幕開けです。


日芽子ひめこさんは正常ななんでしょう? なのに、どうして僕を選んでくれるの? お母さんが嘆いていることを知っている。こうしているあいだにも、日芽子さんの時間は流れて」


 結婚適齢期を逃す。いかにも、月彦つきひこのお母様が心配しそうな話です。

 家庭にて、職場にて、避けて通れない恋愛と結婚の話。


 お見合いをしました。合コンに参加しました。

 心はおどらず、虚しさと消えたいような絶望しか感じられませんでした。

 私は欠陥商品なのでしょうか。

 月彦には真実を話しておくべきでしょう。


「月彦くん。もう答えを言ってくれたのだわ。。私は今現在、女の子というアイデンティティでしか生きられないのよ。育ってヲンナに成って女性としての輪廻を生きることにね、疑問を感じているの。違和感と言ったほうがいいかしら。月彦くんに選ばれて幸せよ。無理に女性を演じなくていいのだもの」

「……そうか。僕だって同じだ。日芽子さんの王子で居ると、月子ヲンナを忘れることができる。自分の中に脈打つ女性を殺して、月彦ヲトコに成れる」


 私たちは同病相憐あいあわれんでいるのでしょうか。

 いいえ、少なくとも私は、月彦にあわれみなど感じません。

 既成概念を超越しようとしている純粋な生命体をただ崇めて、そのそばに置いてもらえる幸福を噛み締めるばかりです。

 一方いっぽうで、アノレキシアに侵された精神こころとミニマム志向の身体ボディ螺子ねじが、突然に切れはしないかしらとおびえるのです。


「月彦くん。私、おなかが空いたのだわ。一緒に食べましょう」


 取り皿に、月彦の脳と身体が許す範囲のグリーンサラダを取り分けました。

 レタス、トマト、キュウリ。無糖のアイスティーにストローを差します。


「飲ませて。それから食べさせて」


 甘えてくる月彦の言うとおりにしました。


『アノレキシアは、一度、優しくしてもらった人に限りなく依存する傾向があり、接する際はミイラ取りがミイラに成らないよう、気を付ける必要がある』


 論文で読んだ定義テーゼが横切ります。

 はたして、月彦が私を求める気持ちは真実の愛なのか、病が導く精神の形態なのか、その両方なのか。


 考えると疲れてしまいます。私は考えることをめました。

 無理をしなくても生きていける心のパートナーに巡り逢えたのです。

 女の子の身体ボディに男の子の精神スピリットを宿した月彦をいとおしく思っていてもいい。

 そう信じていたいのです。




 月彦は数枚のレタスと、トマトの半月切りを二切れ、キュウリの輪切りを三枚だけ食べました。


「もう満腹だよ」


 両手に振顫しんせんが見られます。食べることに著しい罪悪感をおぼえる月彦は、食後、決まって自律神経のバランスを欠くのです。そんな彼の介抱には慣れていました。


 常備薬を持参しています。私は鞄からピルケースを取り出して、収納されたトフィソパムの殻を破りました。


「おくすりを飲みましょう。今の月彦くんには必要だわ」


 月彦のグラスの水は飲み干されていました。私のグラスには並々と残っています。その水を彼のグラスに、そそぎました。


「効くかな?」


 月彦は一日一食しか摂りません。トフィソパムという自律神経調整剤は、一日三回食後に飲む処方で、まろやかな効果の発現を期待できるのですが、一日一回の食後でも、信じて飲むことが大事です。一種のプラセボ効果を得られると期待していました。


「肥らないかな?」


 心の安定よりも、身体の肥大を恐れる月彦をなだめます。


「トフィソパムは三環系じゃないわ。抗鬱薬こううつやくでもない。調整剤よ。肥ったりしない。私、医療従事者なのだから。それとも、バイトーハンの言うことは信用できない?」

「日芽子さんの言うことは、信じる。登録販売者さんだけどね、僕だけの薬剤師さん、そして、管理栄養士さんで居てよ。僕を管理して、生かせて」


 ギリギリのところで神経の均衡を保つ月彦が、おくすりを飲みました。

 彼を介助して、自分の肩にもたれさせます。


 いつのまにか、爆音と感じられた演目は終わっていました。

 館内には、バッハのアリアが低く流れております。神経が休まるメロディー。

 ルルルルルルぐぅ。

 静かな小部屋で、私の空腹が音を立てました。


可愛かわいい効果音。日芽子さん、御免ゴメンね。すっかりパスタが冷めてしまった」

「いいのよ。私、猫舌なのだから」


 私は席を移動して、彼が壁際のソファに身体を伸ばせるようにしました。

 目を閉じて横たわっていれば、おくすりの効果は良い具合に表れるでしょう。

 ようやく、ボロネーゼとグリーンサラダの夕食を摂る私。

 月彦は仮眠に興じるのでした。


 私たちは、守られた小部屋に隔離された雛鳥ひなどりみたいに、栄養を摂って眠っております。


 この透明な膜に包まれたような時間を、好もしく思いました。

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