第35話 お父様からの手紙

 その日の晩。

 辺境伯からの返事が来たら、すぐに起こして、とリーに伝えて、私は寝室に入った。


 灯りはサラがつけておいてくれたらしい。


 ぼわり、と橙色のランプ染められた部屋で、私は深く息を吐く。


 ちらりと寝台を見た。

 昨日までは。

 そこに、ハロルドがいたのに。


 そう思うと、心臓がわしづかみにされたような痛みを覚える。


 拍動と同時に呼気を吐き出し、視線を逸らした先に。


 丸机の上に放置したままの手紙が目に入る。


 そうだ。父から手紙が来ていたのだ。

 私は素足のまま、足早に近づく。


 このところ、目まぐるしく状況が変わったせいですっかり忘れていた。

 新聞と一緒に運ばれた手紙。


 今後更に状況が悪化した場合、父にも援助をお願いしないといけないかも。


 そんなことを考えながら、私は封を切る。

 なつかしい父の筆跡に、肩からこわばりが抜けた。抜けてから、初めて自分がまだ緊張の渦中にいたのだ、と知る。


 ハロルドのこと。今後のこと。辺境伯からの返事。


 実際、張り詰めていたのだろう。父の時候のあいさつや、体調はどうだ、といういたわりの文字を見ただけで、涙がにじむ。


 だが。


「……え」

 文字を追い進めるにつれ、言葉が漏れた。


「どういうこと……」

 無我夢中で文字を追う。内容をむさぼるように、紙をめくった。


「……ハロルド……」

 最後まで読み終え、彼の名を呼ぶ。


 わずかにランプの明かりが揺れ、私の影がそれに合わせて滲んだ。


 そこには。

 父からの手紙には。


『彼からは口留めされていたのだが』と前置きがあり、サザーランド子爵のことが書かれていた。


 子爵は、私の侍女のアナと通じていたのだ、と。

 そのことを子爵は得意げに、仲間内で話していたらしい。


 妻と愛人を同時に手に入れた、と。


 事の経緯を兄に忠告したのは、従兄弟だったらしい。


 聞くや否や兄は激怒し、子爵を亡き者にして我が家の家名と私の名誉を守ろうとしたのだが。


 そうしたところで、そんな事情のある娘を、誰が妻として迎え入れてくれるだろうか、と悩んでいたところ、ハロルドがやってきたのだそうだ。


『こちらのお嬢様は、まだ、どなたの者でもないのでしょうか』と。


 グリーンフィールド卿は遠方のため社交界に疎く、やはり私の婚約については知らなかったらしい。


『父からの申し出もこのようにありますが……。マリア嬢のお考えはいかがでしょうか』


 人好きのする笑みを浮かべるハロルドに。

 父と兄は包み隠さず経緯を伝えた。


 すでに婚約者はいるのだが、その男と娘の侍女が通じていること。

 それを明け透けにひけらかす下種であったこと。婚約を破棄し、別の縁談を組もうにも、このような醜聞では次に良縁はないであろうこと。


 なにより。

 娘が一番、傷つくであろうことを。


『では、わたしがそのような不埒な男を成敗しましょう。なに、マリア嬢には、私がサザーランド子爵から彼女を奪ったように伝えればよろしいでしょう。そうすれば』


 マリア嬢は、真実を知らずに済む、と。


 そうして。

 従兄弟と兄は、あの夜会を催した。


 私には「この日、子爵が君に求婚するらしいよ」と告げておいて。


 咄嗟に頭に浮かんだのは、夜会会場から連れ去られたときの、あの言葉。


 アナが必死に私に追いすがろうとしていたけど、ハロルドが決然と突き放したあの言葉。


『君に相応しい侍女をこちらでつけよう。あの侍女は必要ない』


 それは。

 こういう経緯があったのだ。


 あのとき。

 アナは必死に馬車を追って走ってくれていた。


 あれは。

 子爵とのことが露見し、なんとかあの街から離れたかったからではないか。


 何も知らない私の側が、一番安全だ。

 そう思ったからではないのか。父と兄から処罰される。すでに処罰された子爵になど助けを求められない。そう、考えたのではないか。


『しかし、それでは貴卿が悪者になってしまう』

 父と兄が説得するも、彼は笑って首を横に振ったのだそうだ。


『恋はきれいなまま終わる方がいい。それになにより、彼女はすぐにわたしに恋をするでしょうから、心配いりません』


 当初、父も兄もそれもそうかもしれぬ、とハロルドの案に乗ったものの。

 私が実家に送る手紙は、ハロルドへの文句ばかり。子爵やアナはどうしているのか、としつこく問うにつれ。


 これは、真実を伝えた方がいいのでは、と思うようになったらしい。


「ハロルド……」

 知らずに、力いっぱい手紙を握りしめていた。


「なんで、言わないのよ……」


 知らないことばかりだ。

 私を傷つけまい、と庇っていたこと。それをずっと黙っていたこと。


 それだけじゃない。

 彼の書く文字。好きな食べ物。好きな紅茶の銘柄。どんな曲が好きで、何を楽しむのか。


 そんなことを、私は全く知らない。


 彼は語らない。


 いや。

 私が聞かなかった。知ろうとしなかった。


「……みてなさいよ」

 気づけば、じわりと浮かんでいた涙を指で弾き飛ばし、私は、すん、と鼻をすすった。


「この屋敷に連れ帰ったら、質問攻めにしてやるんだから」

 私は固く決意をし、ふん、と顎を上げた。


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