三章 お兄様、私は憤ってます
第31話 女主人と使用人たち1
◇◇◇◇
甘い香りに顔をむけると、例の桃色のバラが目に入った。
今を盛りに咲き誇るバラは、このスザンカにしかないのだという。確かに、花びらの形が特徴的で、大ぶりな花弁は随分と華やかだ。
そしてなにより、このバラは匂いが良い。
いつだったか、ロジャーの仕事ぶりをほめたことがある。
『こんなにきれいに咲くなんて、本当に育て方が上手なのね』と。
そのとき、ロジャーは照れながら答えてくれた。
『このバラだけはいつも状態良くしておくように旦那様に言われているのです。お嬢様がお好きだから、と』
……そういえば、どうして彼は私がこのバラを気に入ると知っていたのだろう。
ぼんやりとバラを見つめながらそんなことを思う。
私は。
彼のことを何も知らない、というのに。
「一体、いつあの文書が仕込まれたんだろう……」
どんどん落ち込みかける思考を断ち切るように私はつぶやき、それからカップを口に寄せる。
ミルクを多めに入れてもらったが、口の中に残ったのは紅茶の渋みだ。嫌みにならないその味は口の中をさっぱりさせて、私はほう、と息を吐く。
「大丈夫ですか?」
気づかわし気な声に顔を向けると、隣に座っているリーが体を私に向けていた。顔がないのでわからないが、心配をしてくれているらしい。
「うん」
私は口角を上げてうなずいて見せる。両手でカップを包むと、指先から熱が伝播する。どうやらだいぶん冷えていたらしい。
本当に。
ハロルドはどこに行ってしまったのだ……。
「毛布か何か持ってこようか?」
円卓の向かいに座るサラが立ち上がろうとするから、目線で制した。寒い、というわけじゃない。多分、緊張が続いていて、心が冷えていたのだ。
「すまねぇです。あっしが屋敷内に入れねぇもんですから。わざわざ、お嬢さんたちに外に出てきていただいて……」
そんな湿った声に、あわてて首を横に振る。
私の左に座っているロジャーだ。もともと小さな体をさらに小さくし、首に巻いたタオルで、申し訳なさそうに顔を隠していた。
「いいのよ。みんなで作戦会議しなきゃ」
「そうだぞ。この非常時に卑屈になっても仕方ねぇだろ」
しかり飛ばしたのは、ロジャーの向かいに座るマークだ。コックスーツのまま、行儀悪く足を組み、背もたれにどーん、と上半身を預けていた。
「食え、食え。なんかこう、悩んでるときは腹を満たすんだよ」
いうなり、ずい、と円卓の上にのせられた藤籠をロジャーのほうに滑らした。ふわりと庭を抜ける風が、甘い香りをくゆらせる。香ばしく焼かれたドロップビスケットだ。
ロジャーが上目遣いに私をうかがうから、にっこり笑って、「どうぞ」と勧める。ロジャーは、「すまねぇです」とまた言いながら、一枚ビスケットを摘まみ上げた。
「ぼくも食べよー」
サラは立ち上がり、こちらは遠慮なく数枚取り上げ、ぱくりと口に放り込む。そのしぐさに、どうやらリーがにらんだようだが、顔がないのを良いことに、サラは全く無視だ。むしゃむしゃと咀嚼し、マグカップのミルクを飲む。
「旦那、本当にどこ行っちまったんだ」
ため息をついて、マークは言う。一つ目で天を仰いだ。
夕暮れが始まった空は、橙色に薄紫が混じり始めていた。
屋敷の中を荒らしまくった騎士たちはもう、街についただろうか。勝ち誇ったようにあの偽文書を辺境伯に見せていると思ったら、また怒りがぶり返す。
屋敷中を引っ掻き回すだけ引っ掻き回したあいつらが、ここを退去したのは三時間ほど前だ。
リーや、潜んでいたマークが姿を現し、なんとか一時間ほどで整理をし、今後の対策を考えようと、この庭に来たのがついさっきだった。
普段は飾り程度に庭に置かれている藤製の椅子に皆で座り、ロジャーが運んできてくれた円卓に集まって、今後の作戦会議を開いてみたのだが。
「辺境伯からの連絡を、とにかく待ちましょう……」
私は吐息とともに言葉をこぼす。
騎士たちが屋敷をわが物顔に闊歩している間、私はサラを村に走らせ、領民のひとりに手紙を持たせた。
この手紙を持って、辺境伯都に行って欲しい、と。
辺境伯に届けて欲しい、と。
ハロルドがそのようなことをするはずがない。
これはいったい何がどうなっているのか。
もう一度詮議をしてほしい。そして、行方知れずになったハロルドを一緒に探してほしい。きっと事件に巻き込まれているのだ。
手紙には、簡単にそのようなことをしたため、私の印で封蝋をした。
急ぎ返信が来たとしても、今晩か、明日の朝。それまでに、ほかに私たちが打てる手立てはないだろうか。
「リチャードが旦那様にはついてるんでしょう?」
サラが不思議そうに首を傾げた。
「僕、遠吠えしようか?」
名案だと思ったけれど、リーが深く息を吐く。
「リチャードが旦那様の側を離れていない、ということは、それだけひっ迫した状況だ、ということではないですか?」
「……たしかに」
私は呻くように言う。呼び戻すことはいつでもできる。それより、ハロルドの近くで危険に備えてくれる方がいいだろう。
「……山賊に、襲われたのかな……」
サラが呟く。
一番可能性があるのはそれだ。
仲間を捕縛され、取り返そうとして、
「その、山賊に襲われたのを、衛兵が見捨てて、黙っているか、ですね」
リーの淡々とした言葉に、おもわず額を片手で覆う。
そうなのだ。多分、それだ。
ハロルドは、見捨てられたのではないのか? あの森に。
だとしたら。
かなり、危機的状況なのではないだろうか。
ばり、というサラがクッキーをかみ砕く音以外何も聞こえず、私の呼吸さえ、重く地面に沈殿していきそうだ。
「……領民に頼んで、森を……」
捜索してくれないだろうか、と言いたいのに、ロジャーが「それはむりです」と遮った。
「もうすぐ夜が来ます。多分、人は入れない」
そういえば、行方不明になったままの騎士たちの馬は、狼に襲われて死んでいる。うかつには森に近づけない。
そんな危険な森に。
ハロルドがひとりでいるのだとおもうと、心臓を射抜かれたような痛みを感じる。
「夜の森には獣と山賊がいるからねぇ」
サラが口元を指でぬぐい、ふう、と肩を落とした。
「……あの偽文書。あれ、なにが書いてあったんだ?」
マークが太い腕を組み、私に尋ねる。話題を変えたいらしい。
「関税の高い商品とか、日にち。それからいくつかの数字」
私の語尾に、ロジャーの「ああ……」という湿っぽい声が重なった。自分でも場の空気を悪くした、と思ったのか、ロジャーはあわてたように口にビスケットを押し込む。
「でも、ハロルドの字じゃないよ、きっと」
私は沈鬱になりそうな雰囲気を打ち消すように、声を上げる。
「紋章印は押されてたけど……。あんなのきっと、どうにかできるし! たぶん! だいたい、ハロルドがそんな……。犯罪をすると思う?」
そうだ。
ハロルドが罪を犯すはずがない。
誰に対しても優しくて、領民に慕われて、武勇にも秀でているハロルドが。
「本当に、旦那の字じゃなかったんだな?」
マークが私に問う。
「うん」。そううなずきたいのに。
私は思わず返答に詰まる。
知らない。
私は、ハロルドの字を知らない。
どんな字を書くのか。
どんな内容の文章を書くのか。
どんな時に記録を残すのか。
文字だけじゃない。
彼が好きなもの。嫌いなもの。怖いもの。
何一つ知らない。
いや、知らない、んじゃない。
知ろうとしなかった。
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