第26話 どこにも行かない1

◇◇◇◇


 その晩のことだ。

 ぐい、と背後から腰を抱かれて驚いて目を覚ます。


 反射的に顔を起こし、そこが自分の寝室だと気づいて、心臓をなだめた。


 くぐもるようなうめき声に、私は首を起こした状態で、ねじる。声は背後から聞こえた。


 そこには。

 ハロルドがいる。


 私の腰を左手で抱きしめ、眉根を寄せて苦しそうに口から呼気を漏らしている。


「……ハロルド」


 私はいったん首を羽枕にうずめ、そこからなんとか体を反転させようともがく。

 ハロルドが私の背後から抱きすくめているから、それさえも容易じゃない。密着しないでよ、と私は「よいしょ」と言いながら体をねじる。


「……ハロルド」


 何度か名前を呼びながら、私は寝位置を変えた。

 まったく、どっちが心配をかけてるのよ。


 ため息つきながら、彼が私の寝台で今日も眠っている理由について思い浮かべた。



『また賊が侵入したら危ないから、一緒に寝る』

 リーを伴ってハロルドが寝室にやってきたのは、賊襲来から二時間ばかりがすぎたころだった。


 二階廊下に砕け散ったガラス窓や、荒らされた部屋なんかをハロルドと片付けていたら、賊を地下牢に閉じ込めたリーが戻ってきた。ハロルドにいろいろ報告をしたのを合図に、「とりあえず、残りはまた明日」という雰囲気になる。


 だいぶん疲れがたまっていたこともあり、

『じゃあ、みんな。お休み』

 私はそう告げ、寝室に切り上げた。さすがに、今日、湯船につかる気にはなれず、寝着に着替えると、自分で準備した足湯につかりながら束ねていた髪をほどいていたのだが。


『地下牢とはいえ、屋敷に賊がいるわけですから』

 大丈夫だと、訴える私に、リーまでがそんなことを言いだす。


『でも、チャールズがいるでしょ!?』

『夜間は、チャールズが動けない時間帯でございます』

 役に立たないわ、あの甲冑男っ。


『ロジャーは庭を守っているとはいえ、屋敷には入れません。マークには、一階の守備を任せております』

 ただ、とリーは息をこぼした。


『わたくしはこのあと、牢番をするつもりでして……。お嬢様の寝室がございます二階は手薄になります』


 扉を開けたまま三人で話をしているからだろう。割られた窓から夜風が吹き込み、そうだ、カギどころか、窓がない部分もあるんだ、と思い知らされた。


『サラも街に連絡に行ってもらっているし、今から領民に頼んでこの屋敷に来てもらうのも気が引ける』

 ハロルドはそう言った後、悲しそうに眉をㇵの字に下げる。


『君のためと言いつつ、わたしの安心のために、君と一緒に寝かせてもらえないか』


 ……リーと二人、肩まで落としてそんなことを言われたら。

 いやだ、と言えなくなった。


 なんだかんだ言いながら、この二人は私を守ろうとしているわけだし。

 そもそも、みんな、持ち場があって、その職務を全うしている。


『……変なこと、しない?』

 つい、口をとがらせてそんなことを尋ねてしまう。


『君の同意なしになにかをしようとはおもっていないよ』


 ハロルドが心外だとばかりに目を見開いた。

 ……結婚は押し切ったくせに。

 そうは思ったものの、私は『……じゃあ』と、しぶしぶうなずいた。



「ハロルド」

 苦労して彼と向き合い、それから顔を上げた。すぐそばに見えるのは彼の顎だ。


「ハロルド」

 彼に抱きしめられたまま、丸めた拳で彼の胸を軽くたたいた。「ハロルド」。もう一度呼びかける。


「……」

 瞼が震え、それから長いまつげに縁どられた瞳がゆっくりと開く。


「ハロルド」

 私が名前を呼ぶと、彼のまつげが揺れた。「マリア」。ハロルドは息を吐いたのか、つぶやいたのかわからないほどの微細な声を漏らす。


「どうしたの?」

 私はゆっくりと声をかける。まだ彼が力強く私を抱きしめているから、身動きもできない。抵抗するのはあきらめて、薄闇の中彼を見つめる。


「夢を見た……」


 ハロルドの声はかすれ、次第に瞳が潤むから、ぎょっとする。「ちょっとちょっと」。私は苦笑いを浮かべて、なんとか腕を伸ばして彼の頬に触れた。ハロルドが震えた途端、彼の目の端っこにあった涙がこぼれ、私はそれを指で拭ってやる。


「どんな?」 

 尋ねると、ハロルドはまっすぐに私を見つめて口を開いた。


「君が追われてて……。わたしは君を助けようと後ろから追いかけるんだが、追いつけなくて……」

 言いながら、彼の言葉が涙で濁る。


「夢の中って、走りにくいわよね」

 私が笑うと、彼もこわばったように頬を動かした。多分、笑おうとしたのだろう。


「君に手を伸ばして……。もう少しで届くと思ったのに」

 ハロルドは眉を寄せた。


「全然、届かないんだ。もう少しで君の腕が捕まえられそうなのに……。助けてやろう、守ってやろう、と思うのに。それなのに……」

 ハロルドは苦しそうに、ひとつ息を吐いた。


「君は怯えてずっと走っていて……。その前で……」

 彼は震えそうな口唇をかみしめた。


「君が誰かに連れ去られて……」

 言うなり、ぎゅっとまた私を力強く抱きしめるから、彼の鎖骨あたりに顔を押し付けられる。苦しい。苦しいって。


「どこかに行ってしまったのかと思った……」


 涙声でそんなことを言う。私はあきれながらも、それでもなんだか心の底をくすぐられるような心もちになった。


 いつも私に「愛してる」とか「わたしの小鳥」とか、歯の浮くような台詞を言い、なんだかちょっと大人ぶった余裕で私を見ていることが多いのに。


 今こうやって、私にしがみつく彼はまるで、小さな子供のようだ。


「どこにも行かないわよ。ってか、行けないでしょ」

 私はもぞもぞと腕を動かし、彼の背中を撫でる。よしよし、と。


「ハロルドが、私をお嫁さんに、ってここに連れてきたんでしょう? もう忘れたの?」


 精一杯意地悪な言い方をする。

 ハロルドは涙にぬれる目を二度、ぱちぱちと瞬きさせ、それから、ようやく、くすりといつも通り、きれいな笑みを浮かべる。


「マリア」

 そう言ってまた私を抱きすくめる。私の首に手を回し、髪をもてあそぶようにして撫でるのはいつものことだ。


「ねぇ、マリア」

「却下」


「まだ、何も言ってないよ」

「どうせロクでもないことでしょ」


「聞いてみなきゃわからないじゃないか」

「一緒よ」


「そんなこと言わずに」

「じゃあなによ」


「君を抱いていい?」

「……これ以上の意味で『抱く』を使っているのなら、殺すわよ」


「じゃあさ、じゃあさ」

「だから、殺すって言ってるじゃない」


「キスしていい?」

「だめ」


「じゃあ、口じゃなくていいよ。君のかわいい額にキスさせて」

「いや」


「だったら、あでやかな首に……」

「動かないでよっ。いやよっ」


「じゃあ……」

「ほんっとに、へこまないわね」


 あきれて私は彼を見上げる。彼の腕にとらわれたままだから、ちょっともがきでるような感じで顎を上げた。体勢状、彼の背中にしがみつく感じだ。


 まつげが触れ合いそうな距離にあるハロルドの顔。

 晴天のような青い瞳が、薄闇のヴェール越しに笑みをにじませた。


「このまま、眠ってもいい?」


「えー――――……」


 思い切り顔をしかめると、すぐ間近の瞳が曇る。すん、と鼻を鳴らし、次第にまた瞳が潤みだすのを見て、「ああ、もう」と私はため息をついて、彼の胸におでこを押し付ける。


「はいはい、どうぞ」

 おざなりにそう答えると、ハロルドの「ありがとう」という喜びに満ちた声が髪をすべる。


 ぎゅっと。

 力強く一度だけ抱きしめられた。

 そのあとは、緩く腕に囲われる。


「苦しくないかい?」

「大丈夫」


「服、脱ぐ?」

「なんで? ねぇ、なんで? ねぇ、殺されたいの?」


「マリアはおしゃべりだなぁ。本当に、かわいい声だ」

 ハロルドは愉快そうに言い、そして一度だけ私の頭のてっぺんにキスをした。


 なんとなく。

 気分はぬいぐるみの気分。


 ハロルドはぎゅっとまた私を抱きしめ、そして呼吸を次第に深くさせた。


 気づけば、眠ったようだ。

 すうすう、という定期的な呼吸音は。


 次第に私も眠りの世界に引き込んでいった。

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