第25話 襲来5

「あんたが女主人か」

 ぐい、と片方の口端だけ上げて笑う表情が絶妙に気持ち悪い。返事もせずにその視線をはねつけてやると、声を立てて笑われた。


「なるほどなぁ、こりゃあ上物だ……」

 男は下品に舌なめずりをする。


「指示はないが、そっちの可愛らしい召使も一緒に連れていくか」

 言うなり、男がぞんざいに一歩を踏み出す。


 男の動きに反応するように。

 並んで立っていたサラが私の斜め前に回り、同時に牙を剥いた。


 低く、地面を揺らすほどの音は遠雷のようで、サラはうなりながら、徐々に上半身を前に倒していく。


「……な、ん」


 視界の隅で、男の顔がこわばり、動きを止めたのが見える。


 それよりなにより。

 私の前で変貌を遂げつつあるサラの姿に目が離せない。


 半そでから伸びていたほっそりとした腕は一気に栗色の毛におおわれ、綺麗に切りそろえられていた爪には、駒爪が生える。真っすぐな背中は湾曲し、つんと伸びた鼻は、ぐい、と前面に伸びていって顔じゅうに腕と同じ狼の毛が覆っていく。


 たった、まばたき数回程度の間に。


 私の目の前には、大きな栗毛の狼が姿を現した。


 変化の過程でお仕着せは引き破られたらしい。

 ぶるり、と身震いをすると、もはや布の残骸と化したメイド服は床に散り、頭にホワイトプリムだけを残して、その狼は四つ足で立っていた。


 どぅるるるる、と。


 栗毛の狼は首の毛を逆立てて唸る。私の親指ほどもある牙がその口からこぼれ出て、あれが躰に食らいつく様を想像して、血の気が失せた。


 それは、侵入者も同様だったようだ。

 私に近づくどころか、動けない。


 のしり、と。

 サラだった狼が、太い前足を一歩踏み出す。


 男は一歩下がった。

 サラがもう一歩踏み出す。ふさり、と太く長い尾が右から左に揺れた。


 男はもう一歩下がる。

 いや。

 顔は狼に向けたまま、体をよじった。足の先は完全に扉に向いている。


 逃げる。

 そう思った傍で、狼がひと際上半身を低くした。跳躍する姿勢をとったものの、だが、ぴたりと動きを止める。


 唸り声もとめた。

 どうしたのか。

 戸惑う私の目の前で、鈍い打突音が響き、男の体は床に頽れた。


「マリア!」

 無様な侵入者を剣で薙ぎ払い、踏みつけて入室してきたのはハロルドだ。


 一太刀で賊は絶命したのだろう。入り口で奇妙な痙攣を起こしている。


「ハ……」

 ハロルド、と私が言う間に、彼は剣を放り出し、駆けよって抱きすくめる。


 柑橘系の香りと、それから汗のにおい。そして、むっとする血の匂い。湿気た体温にきつく包まれて、私は、「ちょっと」と声を漏らすが、ハロルドは一向に離してくれない。むしろ、まだ腕の力を強めようとするから、「苦しいっ」と悲鳴を上げた。


「どこか怪我した!? 蒼白だけどっ」


 途端に、体を離し、今度は肩を掴んで顔を覗き込んでくる。

 ハロルドの方が真っ青になって言っているが、あんたが私を酸欠にしたんだ。


 文句の一つでもぶつけてやろうかと睨み上げるが、右足あたりに、ふわりとした感触が撫でた。目線を動かすと、プリムを付けた栗毛の狼が私にすり寄り、「めっ」とでも言いたげに私を上目遣いに見ている。


「……私は大丈夫。サラが守ってくれたから」

 憮然と答えると、ハロルドはためていた息を吐き、私から手を離して床に片膝着いた。


「ありがとう、サラ」

 そう言ってうつむく。その額に、栗毛の狼は自分の額をこつりと押し付けた。大きな尾が左右にふわふわ揺れる様は、「どういたしまして」と言っているようで、なんとも愛らしい。


「旦那様」

 響いた靴音に目をやると、リーがいた。


 外套はもう、脱いでいるらしい。

 片手にステッキ。片手には、見知らぬ男を掴んでいる。こちらも息絶えているのか、まったく動かない。

 足を掴んでここまで引きずってきたらしい。薄く血の跡が廊下から伸びていた。


「屋敷内の侵入者は、ほぼ殺してしまいました。申し訳ございません」


 静かなその声はいつも通りで。

 まるで、「お皿を少し割ってしまいました」と報告をしているようで、うすら寒い。


「庭はどうなっている?」

 ハロルドは立ち上がると、リーに尋ねる。


 そうか。庭だ。ロジャーはどうなってるんだろう。

 ふと窓に目をやると、右手に何かが触れる。「ん?」。思わず声を漏らして視線を転じた。

 ハロルドの左手が、がっちりと私の右手を握っていた。


「ロジャーのトラップに落ちた者は、そのまま放置しています。怪我で動けぬのでしょう」

 リーの肩の動きから、どうやら窓を眺めたようだ。外套のお陰か、彼のお仕着せには、血しぶきがまったくついていない。


「あとで、随時捕縛すると致しましょう。それとも、殺しますか?」


「罠にかかったものは、そうそう動けまい。しばらく捨て置け。それより、屋敷内に動ける賊は?」

 おりませんでしょうな、とリーが平坦に答えたとき。


 サラが耳を揺らして「ふぉん」と小さく鳴いた。


 同時に。

 甲高い笛の音が響き渡る。


「……撤退、か?」

 ハロルドが笛の音に耳を澄まして呟く。「でしょうな」。リーが応じると、彼は深く息を吐いた。


「捕縛した賊は全員地下牢へ」

 リーは腰を折って諾、としめした。


「ああ、そういえば。騎士はみつかったのですか」

 ふと、チャールズにリーが尋ねている。


「いや、わからぬ。足跡を追っていったのだが……。狼たちにやられた馬はみつけたが、人の死体は出てこなかった」


 リーが大きなため息をついてみせる。

 ……まさか、狼にやられたのだろうか。


「サラ」

 ハロルドは次に栗色の狼に声をかけた。狼はゆっくりと太い尾を左右に振る。


「疲れているところ申し訳ないが、街まで行って父上に事の次第を伝えて欲しい。賊が侵入した、と。捕縛した賊をそちらに連れて行き、取り調べを行いたい、と」


 ふんふん、と狼に変化したサラが何度か頷く。


「朝一番に、護送のための衛兵をスザンカに送って欲しい、と」


 わほん、と返事をした。ハロルドは右手で彼の頭を撫でる。目を細めてうっとりしていたが、すぐにちゃりちゃりと足音をたてて扉に向かった。


「なにか服を噛んでいくんですよ。その格好でヒトガタになったら貴方、真っ裸なんですから」


 通り過ぎざま、リーが言葉を放つ。「うるさいなぁ」とばかりに目を細め、それから軽やかに廊下に飛び出した。


「マリア」

「ん?」


 返事をした途端、ハロルドが握っていた手を強く引く。突然のことに蹈鞴を踏み、私は彼の胸に額をぶつけた。「ちょ、ちょっと」。不平の声はそこで止まる。ぎゅっと抱きしめられたから、肺から空気が漏れた。


「君が無事で良かった」

 首元に、呼気と一緒に言葉が揺蕩う。もう一度囁かれた「よかった」は涙がにじんでいそうで、私は戸惑いながらも、彼の背に腕を回した。


「私は大丈夫よ」

 これでいいのかな、と躊躇いがちに背を撫でてみる。首肯するようにハロルドが首元に顔を押しつけてくるから、私は少し息を吐いた。


「大丈夫だから」

 そう言って、彼の背を撫でてやる。「うん」。ハロルドは小さな子みたいな声で頷いた。

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