第15話 夜の屋敷2

「……えーっと……」

 なんとなく、黙ったままなのが気づまりで、私は意味のない言葉を発する。


「ん?」

 ハロルドは腕を組み、小さく首を傾げた。


 腹が立つことに。

 なんかちょっと余裕かましたような笑みを浮かべている。


 むっとして顎を上げると、完全に目が合った。


 きれいな。

 晴天を切り取ったような瞳がまっすぐに自分に向けられていて。


 なんだか。

 ハロルドが。

「私だけを見ている」というこの状況にさっきから、心臓が跳ね上がる。


 ぱくぱくと騒ぎ出す心臓をなだめすかせるために、視線を逸らすと、視界に入ってきたのはソファだった。


「……とりあえず、私」

 そうだ。小さいけど、ソファがある。私、そっちで寝てもいいんだよね。


 指をさし、「ここで」といった瞬間、体が宙を浮いた。「ひっ」と、その内臓が浮く感じに声を漏らすと、鼻先を檸檬の香りがする呼気がかすめる。


「まさかと思うけど、ソファで寝る、って言わないよね」

 くすり、と笑ったかと思うと、ハロルドが私を横抱きにして、顔を近づけてきた。


「……おろして」

 憮然と私は彼に命じる。もう、何回抱っこされてんだか、私。猫か、犬のような扱いだ。


「おろすよ」

 いうなり、ハロルドは寝台に向かって歩き出す。


「ちゃんとベッドにね」

 目を合わせてほほ笑むから、にらみつけてやる。


「じゃあ、ハロルドがソファで寝るの?」

「わたしたちは夫婦だよ?」


 驚いたように目を見開く。

 ただ、こう言いながらも、寝台に座らせてくれるので、ちょっとほっと息をついた途端。

 両肩をつかまれて押し倒される。


「ちょっとっ!」

 焦ってもがくと、寝台に肩を押し付けたまま、相変わらずハロルドが口端に余裕の笑みを浮かべているのが腹立つ。


「無理強いはしないけど……。せめて、一緒にベッドでは寝かせて」


 顔を近づけ、まつげがふれそうな距離でハロルドが言う。

 少しでも暴れて身じろぎしたら、唇が触れそうだ。


 うぐ、と。

 空気を飲んで動きを止めたら。


 ふふ、と笑う彼の呼気が唇を撫でる。


「このまま、キスしてもいい?」

「そんなことしたら、唇を噛み切ってやる」

 がうがう、とサラ並みに唸ると、ハロルドは愉快そうに笑って私の肩から手を離す。


「かわいい猫ちゃんに甘噛みされるのは好きだけど」

 寝台そばに立ち、ハロルドはくつくつと笑った。


「本気噛みはさすがに痛そうだ。気を付けよう」

 そう言って、照明に歩み寄る。


 どうやら、灯を落としてくれるらしい。

 寝室の二か所にある油灯に近づき、しぼりを摘まんで灯を最小にしてくれる。


 白い光が。

 温かみを帯びた橙色の光に代わる。


 同時に。

 室内は薄闇に包まれた。


 私はあわてて上半身を起こし、乱れた寝着の裾を引っ張って整える。二つある枕のひとつを引っ張って抱き寄せ、膝を抱えてベッドヘッドに身を寄せた。


「なにもしないよ」

 そんな私にハロルドが笑いながら近づき、「ちょっと失礼」と、ベッドに乗った。


 なんとなく緊張している私とは違い、あちらは欠伸なんかを噛み殺しながら、壁側に移動してきて、あっさりと横になった。


「ほら、マリアも寝て」

 寝具に潜り込み、私に背を向けて横になったハロルドは、ぽんぽんと自分の枕をたたいた。


「なんにもしないから」


 ゆっくりと。噛んで含めるようにハロルドの言葉に。

 委縮している自分がなんだか滑稽に思えてきた。


 一応、ハロルドの後頭部から目を離さず、それでも、そろそろと足を寝具に差し入れる。


 抱えていた枕を隣に並べ、ゆっくりと体を横たえてみても、ハロルドは微動だにしない。


 ちょっとだけ安堵して。

 寝位置を整えていたら。


「ねぇ」

 ハロルドが声をかける。


 ん、と私は仰向けの姿勢で目だけ移動させた。左側に、壁をむいて横たわるハロルドは、やっぱりそのままの姿勢で、私のことを見ていない。


「なに?」

「抱いてもいい?」


「なんで、そんな発想になるわけ」

「いや、夫婦だし」


「さっき、なにもしない、って言ったわよね」

「さっきは、そんな雰囲気じゃなかったし」


「今もそんな雰囲気じゃないけど、あんた馬鹿なの」

「じゃあさ」


「却下」

「まだ何も言ってないけど」


「気配で察したの」

「その気配が間違ってるかもしれないから、言うけど。手をつないでいい?」


「やっぱり間違ってなかったから、却下」

「じゃあさ」


「却下」

「まだ何も言ってないけど」


「変なこと言いそうだから却下」

「変なことじゃないかもしれないから言うけど」


「しぶといな」

「そっち向いていい?」


「えー?」

「こっち側、なんか肩痛いんだよ。そっち向いていい?」


「いっつも、うつぶせ寝じゃなかった? ハロルド」

「自分の寝台じゃないからそんな気分になれないというか」


「どんな気分よ」

「とりあえず、肩が痛い。そっち向きたい」


「えー……。もう、仕方ないなぁ」

 私が言うや否や、ごろん、と彼は反転した。


 すごい勢いに、ちょっと寝台が揺れて驚く。

 拍子に顔を彼に向けると。


 薄闇で。

 目が、合った。


「やっぱり」

 蒼い目が緩く細まり、口端が淡く笑みをにじませる。


「こっち向きがいいな。君の顔を眠るまで見ていたい」


 ……ああ、やっぱり、あっち向いててもらったらよかった。


 私は顔を背け、それから「あ、そうか。私が横を向けばいいんだ」と思い直して、彼に背を向けた途端。


「ぎゃあっ!」


 思わず悲鳴を上げた。

 背後から抱きすくめられたからだ。


「離せっ!」

 全身全霊でもがきでて、寝具を蹴飛ばして上半身を起こす。荒い息でハロルドをにらむと、彼は寝そべったまま両手を上げ、「冗談冗談」と笑っている。


「……次、やったら、殺すから」

 ぜえぜえと息を吐いて命じると、「ごめんね」と、悪びれずに言い放つ。こいつ、本当に腹立つわ。


 私はハロルドとある程度の距離を保って、ゆっくりと仰向けに寝転がった。

 隣を警戒するが、もう「冗談」とやらをしかけてくるつもりはないらしい。

 目は明けているものの、うれしそうな表情のまま、私を見て横になっている。


「……今日は、お疲れ様」

 私は天井を見上げてそういう。「君もね」。ハロルドが話すと、ふわりと空気が揺れる。


「最後まで悪かったね。今日はもう大丈夫だから、おやすみ」

 寝具が揺れる気配がして、ちらりと視線を移動させると、ハロルドが手を伸ばして私の頭を撫でた。


 ……まぁ、この程度は許してやろう。


 私はそれでも口をへの字に曲げ、むっつりとじっとしている。


 ふわふわと。

 私の髪を、頭を撫でるハロルドの手つきは優しい。


 するすると髪に触れ、掬い取り、指にからませていたのだけど。

 節くれて、しなやかな指が髪を滑り、顔の輪郭をなぞって顎で止まる。

 私の顎を彼がつまんで、自分のほうを向かせるから、じろりとにらんでみせると、ハロルドは小さく噴き出した。


「そういう顔をも好き」

 笑いながらそんなことを言うから、手に負えない。


 もう、なんだ、この男。


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