第14話 夜の屋敷1
◇◇◇◇
鏡台の前で髪を
「はい」
返事をして振り返る。ちらりと壁時計を見た。もう、深夜になろうとしている。
時間的にはリーだろう。
「わたくしでございます」
案の定、扉の向こうから聞こえてきたのは彼の声だ。「どうぞ」と返して、
「あの、カギを……」
「かけてない。どうぞ」
応じながら扉に近づくと、「だめじゃないか!」とハロルドが大声とともに扉を開けるから、驚いて足が竦んだ。
「ちゃんと、カギをかけなさい、って伝えただろう!」
「……ごめんなさい」
珍しくハロルドからきつい視線を向けられ、反射的に謝罪を口にする。
「さっき、サラと寝室に戻ってきたところだったから。髪を束ねてからカギをかけようと思って」
つい、言い訳めいたことを口にしたが、嘘ではない。
サラとチャールズを見張りに立てて湯船につかり、そのあと、サラに付き添われて寝室に戻ったのは数分前だ。
ハロルドやリーから「寝室に入ったら、すぐにカギをかけるように」とは確かに言われていたが、階段を上がったところで騎士たちがデービッド様の部屋の前で番をしているのを見て、少し心が緩んだのだ。あれなら、大丈夫だろう、と。
「いや、こちらこそ、気が立ってた……」
眉を下げた私を見て、ハロルドは困惑したようにそう言い、腰をかがめるようにして私の顔を覗き込む。
「怖がらせるつもりじゃない」
そう言うから、私は想像以上に、彼の大声におびえた顔をしているらしい。
「とりあえず、ようございました。なにごともなく」
リーが和ませるようにそう言う。私はぎこちなく笑み、ハロルドも表情を緩ませる。
「それで、どうしたの? 馬車が来た?」
私も心を切り替え、二人を交互に見る。
リーは相変わらず執事服のままだが、ハロルドは寝着だ。白絹の、つやつやしたやつを着ている。お風呂にも入ったところなのだろう。まだ、彼の金の髪はうるんだような湿気を含んでいた。
「いえ。馬車はまだ」
リーの肩が少し震えたところを見ると、多分首を横に振ったのだろう。
不便だなぁ。顔がないって。
「一体どうなってるんだろうね、馬車」
ハロルドは腕を組み、唸る。
それは私だって聞きたい。
いくら何でも遅すぎる。
あの壮年の騎士が年若い騎士と連れ立って出たのは、昼前だった。いくら街まで時間がかかるとはいえ、馬を飛ばせば数刻だ。馬車を用立てて戻ってきたとしても、夕飯ごろには着きそうなものなのだが……。
「クリスタ様の屋敷は街の……?」
ハロルドを見上げると、彼は口をへの字に曲げた。
「城塞外だよ。クリスタ姉さまの屋敷もこのスザンカと同じだ。街の守りになっている」
ということは、街路に入る大通りのそばに建てられているのだろう。
街の中心に位置する辺境伯の屋敷よりは近いはずだ。
「どちらにしろ、今は夜。もはやスザンカには近づけますまい」
リーの言うとおりだ。
夜になったこのスザンカを囲むのは、闇と森。それから狼だ。
容易にたどり着くことは難しい。
「到着するとしたら、早朝でしょうね」
私の言葉に、ハロルドがうなずいた。
「念のために、サラとリーが交代で玄関の番をする手はずになっている」
「私も手伝おうか?」
「「結構」」
提案したのに、力強くふたりに断られた。
「とにかく、お嬢様はこの寝室内にカギをかけていらしてください」
リーが一言一言を区切るように言う。「はいはい」とぞんざいに返事をしたら、あからさまにため息をつかれた。むっとしたものの、さっきカギをかけてなかったことを思い出し、なんとも反論がしづらい。
「大丈夫だ、リー。今からはわたしがいるから」
そんな中、ハロルドが陽気に笑いかける。リーはうなずいたらしいしぐさを見せ、「念のために、それでもカギを」と言っている。
「ん? 待って、待って」
私は二人に向かって手を伸ばす。今、なんか変なことを聞いた気がする。
「今からはわたしがいる、ってどういうこと」
「今晩は、わたしが君の寝室で一緒に寝るんだよ」
邪気のない笑顔で断言され、思わず立ち
「旦那様は武勇においても類まれな資質をお持ちでございます」
リーは、のうのうと「ご安心を」とかいうが、いや、ちょっとおかしい。なにそれ。
「チャールズを貸してよ!」
私はハロルドに訴える。
「彼に私の寝室の前で番をさせて!」
「あいつは、深夜一時から三時までは眠ってしまうんだ。活動できない」
「なにそれ! 聞いてないっ」
私の怒声に、「あれ、言ってなかったっけ」、「手前どもには常識でございましたから」とかハロルドとリーは言い合っている。
「じゃあ、サラを!」
と言ってから、気づく。そうだ、彼は馬車を待つ係だ。
「最前も申しましたように、サリエリとわたしは馬車とお客様の接待を。マークは現在、夕食の片づけと朝食の仕込みを。ロジャーはそもそも、屋敷内に入ってこれません」
淡々とリーは告げる。私はその、一語一語に衝撃を食らいながら、ゆっくりと目前に立つハロルドを見上げた。
「ということで、君の護衛はわたしが行うことになった」
両腕を広げ、ハロルドは満面の笑みだ。
護衛なのか。本当に護衛なのか。この男が実は一番危ないのでは。
とっさに、「護衛とかいらない」。そう言おうとしたのだが。
思い出したのは。
あの、デービッド様の視線だ。
粘着的で、ちょっと度を越した執着を見せたあの目。
ざらついた質感を持つあの視線に、ぞわり、と再び鳥肌だった。
おまけに、まだ酒を飲んでいたのだ。
ちらり、とハロルドを見上げる。目が合うと、ハロルドは優美に笑って見せ、手を伸ばして頭を撫でてくれた。
「大丈夫だよ。君はわたしが守ってあげるから」
……そりゃあ、この寝室にいてもおかしくない人物は、彼なのよね……。
なんてったって、「夫」なのだ。形式上は。
だが、しかし。
この男を寝室に入れるのも、どうかなぁあああああ……。大丈夫かな……。
迷っている私をよそに、「それではまた明日」と、リーはハロルドに向かって腰を折って礼をする。
「そちらも何かあれば、逐一報告をしてくれ」
ハロルドの言葉に、リーは小さくうなずいたようだ。
「なにもないとよいのですが」
ちがいない、とハロルドが笑う。リーはそのまま扉に向かった。なんかちょっと、それが心細い。彼が出て行ってしまったら、私はハロルドとこの寝室でふたりっきりになるのだから。
「お嬢様」
すぐに寝室を出るとおもいきや、リーは私に向き直る。「なによ」。おもわずぶっきらぼうな声が出たのは仕方ない。
「明日の朝、おめでたい報告をお待ちしております」
「なにもなかった、という報告を、今からあなたにしておくわ」
指をさして断言すると、リーは肩を下げた。
「いい加減、『お嬢様』ではなく、『奥様』とお呼びしたいものです」
「任せておけ、リー」
急にハロルドが会話に入ってきて、ぎょっとする。
「照れ屋なだけだから、マリアは。ふたりっきりのときに見せる彼女と、他人の前で見せるマリアは違うからね」
堂々とよくもまぁ、そんなことが言えるものだ。胸張ってるよ、この人。
あっけにとられているうちに、リーが「押しの一手でございますよ、旦那様」とか言いだし、ハロルドが不敵な笑い声を立て始めて、ぞっとした。
ちょっと待って。あんた、私の「護衛」に来たのよね。あんたが私になんかしようとしたら、そりゃちょっとおかしなことになるわよ?
ただ、かといって、寝室にひとりで立てこもる勇気もない。デービッド様がきたらいやだ。
「それでは、失礼いたします」
複雑な思いを抱える私を残し、リーは恭しく一礼をすると、ぱたりと音を立てて扉を閉めた。
その後、聞こえてきたのは金属音。
私がこの屋敷に来て、初めて聞いた「施錠音」だった。
それを最後に。
室内は無音になった。
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